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短編集  作者: さく
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調律師α×ピアニストΩ

そのピアニストは、世界中の音楽誌が天才と書き立てる男だった。


同時に、気難しいことでも知られている。


ホールの空調ひとつ、椅子の高さ一ミリにまで注文をつけ、納得のいかない状態では決して弾かない。


そんな彼が、自分のピアノを唯一任せている人間がいた。


物静かな、年上のアルファ。


その調律師は、ピアニスト本人ですら言葉にできないわずかな狂いを、当たり前のように拾い上げる。


低音の伸び。


指を離したあとの余韻。


鍵盤の沈む深さ。


弾き手が最高の演奏をできる状態に、寸分の狂いなく仕上げてしまうのだ。


――もっとも。


この男が調律しているのは、ピアノだけではない。


大きな公演が近づくと、ピアニストは決まって眠れなくなる。


神経が張りつめて、目を閉じても指が勝手に動く。


頭の芯が冴えたまま、朝までひとつも休まらない。


そういう夜、彼は必ずこの男を呼びつける。


その夜も、そうだった。




「遅い」


「呼ばれたのは三十分前だぞ」


「僕は今、機嫌が悪い」




ソファに沈み込んだまま睨みつけると、調律師は困ったように笑って、隣に腰を下ろした。


そして、当たり前のようにピアニストの右手を取る。




「……何」


「硬いな。三日も詰めただろ」




親指の付け根を、ゆっくり押される。


強張っていた場所がじわりと緩んでいくのが、自分でもわかった。


この男の手つきは、ピアノに触れるときとまるで変わらない。


丁寧で、正確で、無駄がない。


どこがどう狂っているのかを探り当てて、ひとつずつ元の場所へ戻していく。


指を一本ずつほぐされて、手首をたどられて。


そのまま、手の甲に唇を落とされた。




「……っ」


「ここも力が入ってる」


「うるさい。黙ってやれ」




腕の内側を撫でていた手が、肘から二の腕へ、するりと上がってくる。


シャツのボタンがひとつずつ外されるあいだ、ピアニストは天井を睨んでいた。


素肌に触れられた瞬間、こらえきれずに息が漏れる。




「……ん」




首すじに唇が押しあてられて、背が跳ねた。


そこから先は、いつもと同じだった。


急がない。


焦らない。


この男はただ、こちらが崩れる場所をひとつずつ確かめていく。


鍵盤の重さを測るときのように、ゆっくりと、丁寧に。




「あ……っ、そこ、」


「わかってる」




わかってる、が悔しい。


自分でも把握していない反応まで、この男は正確に拾い上げてくる。


強く触れられて跳ねる場所も、耐えきれずに声が上ずる場所も、全部知られている。


ベッドに沈められながら、ピアニストはぼんやりと思った。


――こいつは、たぶん僕の音を聴くのと同じやり方で、僕を聴いている。


そう気づいた瞬間、背筋がぞくりと震えた。


張りつめていた神経が、一枚ずつ剥がされていく。


頭のなかで鳴り続けていた音が、いつのまにか消えている。


こんな状態にできる人間を、ほかに知らない。


名前を呼ばれるたび、思考が溶けていく。


しがみついた背中の広さも、耳もとに落ちる低い声も、もう抗いようがなかった。


翌朝には、決まって頭が澄んでいる。


指もよく動く。


だから、必要なだけだ。


そう自分に言い聞かせている。


公演が終われば、調律師は「お疲れ」とだけ言って帰っていく。


引き止めたことは、一度もない。


そういう関係が、いつのまにか当たり前になっていた。


――ところが。


その年の秋、大きな海外公演が決まった。


いつもなら、この男が同行する。


けれど今回は、主催者側が現地の調律師を用意していた。


その国でもっとも評価が高いと言われる、名の知れた職人だという。




「同行しなくていいなら助かるな。工房が立て込んでる」


「……ふうん。べつに、来なくていい」




素っ気なくそう言い捨てて、ピアニストは一人で発った。


現地のピアノは、技術的には申し分なかった。


さすがの腕前である。


音の粒は揃っているし、狂いもない。


リハーサルを終えたスタッフたちも、口々に絶賛していた。


けれど、ピアニストにはわかる。


これは、自分の音ではない。


指を離したあとの余韻が、わずかに短い。


低音の沈み方が、ほんの少しだけ硬い。


誰も気づかないし、指摘したところで意味もない。


教科書どおりの、正しい調律なのだから。


――一週間だ。


この程度なら、合わせて弾ける。


そう自分に言い聞かせた。


問題は、そこではなかった。


その夜、ピアニストは一睡もできなかった。


慣れないホテルの天井を見上げたまま、頭のなかで音が鳴り続ける。


何度も寝返りを打って、水を飲んで、また横になる。


指の付け根が強張って、どうしても力が抜けない。


翌日も、その次の日も同じだった。


三日目には、はっきりと自覚した。


狂っているのは、ピアノではない。


自分のほうだ。


公演当日、指はいつもの半分も自由に動かなかった。


それでも聴衆は熱狂したし、翌日の批評も申し分なかった。


天才の演奏は、疲れていてもやはり天才だった。


誰も気づかない。


けれど、本人だけが知っている。


――今夜の僕は、最悪だ。


鳴りやまない拍手を浴びながら、ピアニストは笑えなかった。


こんな演奏で満足されてしまうことが、腹立たしくて仕方がない。


妥協を許さないと言い続けてきたのは自分なのに、その自分が、いちばん妥協した音を客席へ差し出した。


なぜだ。


ホールも、ピアノも、体調だって悪くなかった。


合わせて弾く自信もあった。


足りないものなど、ひとつもなかったはずなのに。


その夜、ホテルの部屋で、ピアニストは時計を睨んでいた。


日本は、いま何時だ。


深夜だ。


非常識だ。


そもそも、何を話す用がある。


そう思いながら、気づけば電話をかけていた。


数回の呼び出しのあと、寝起きの掠れた声が出る。




『……もしもし』


「僕だ」


『知ってる。どうした、公演は成功したんだろ』


「した」


『じゃあ何』




言葉に詰まる。


窓の外では、知らない街の灯りが瞬いている。




『そっちのピアノ、どうだった』


「悪くない。正しい仕事だ」


『褒めてるのか、それ』


「……君の音じゃなかった」




言ってしまってから、しまったと思った。


電話の向こうで、小さく笑う気配がする。




『そりゃ悪かったな』


「別に、責めてない。合わせて弾いた。それはできた」


『ああ。おまえならできるだろ』


「……なのに、寝られない」


『うん』


「なんでだ」




答えは返ってこなかった。


かわりに、この男は静かに話しはじめた。


工房に新しく入った古いピアノのこと。


次に張り替える弦のこと。


どうということもない、退屈な話ばかり。


その声を聞いているうちに、指の強張りがゆっくりほどけていく。


まぶたが、重くなる。




『……寝ろよ』


「……うん」




そのまま、ピアニストは眠りに落ちた。


そして、帰国した数日後のことである。




「しばらく日本を離れる」




道具を片づけながら、調律師はなんでもないことのように言った。




「……どれくらい」


「半年かな」


「半年!?」




自分でも驚くほど、大きな声が出た。




「その間、僕のピアノはどうするんだ」


「腕のいい人を紹介するよ」


「……僕は?」


「……おまえ?」




きょとんと聞き返されて、ピアニストは口をつぐんだ。


いま、自分は何を言った。




「いや。……なんでもない」




出発の日が近づくほど、どうしようもなく落ち着かなくなった。


自分のピアノに他人が触れるのが嫌だ。


公演前の楽屋に、あの気配がないのも嫌だ。


弾き終えたあと、真っ先に「今日はどうだった」と聞ける相手がいないのも、耐えがたいほど嫌だった。


そして何より。


眠れない夜に呼びつけても、もうこの男は来ないのだ。


電話ならかけられる。


あの夜だって、そうした。


けれど、通話を切ったあとに残る部屋の静けさを思い出すと、あれを半年ぶん繰り返すのは無理だと思った。


そこでようやく、気づいてしまう。


調律されていたのは、ピアノだけではなかった。


自分の身体も、生活も、心の置きどころまで。


いつのまにか、この男がいることを前提に組み上げられていたのだ。


出発の、前日。


最後の調整を終えた調律師が、静かに道具を片づけていた。




「じゃあ、半年後にな」




背を向けたその肩に、ピアニストは声をかける。




「――待って」


「ん?」




言葉が、出てこない。


プライドが邪魔をする。


天才と呼ばれてきた男が、たった一人がいないくらいで何を言うのかと、自分の中の声が引き止めてくる。


それでも。




「……君がいないと、調子が狂う」




調律師が、ゆっくり振り返った。




「ピアノが?」


「…………僕が」




長い沈黙が落ちた。


初めて素直になったピアニストを、調律師はしばらく黙って見つめている。


やがて、ふ、と小さく笑った。




「それは困ったな」




大きな手が伸びてきて、頬に触れる。




「出発前に、ちゃんと調律しておく?」


「……半年も保つわけないだろ」


「確かに」




真面目な顔でうなずかれて、ピアニストはむっと眉を寄せた。


それでもこの男は、ひどく楽しそうに笑っている。


完璧な音を求め、生涯かけて一切の妥協を許さなかった天才が。


たった一人がいないだけで、こんなにも簡単に狂ってしまう。

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