パトロンα×バレエダンサーΩ
全部、金のためだった。
十年、パトロンのアルファに支えられて踊ってきたオメガのバレエダンサー。
夜も、当たり前のように彼に身体をささげている。
金のため。
踊り続けるため。
――そのはずだった。
その夜も、公演を終えた足でこの男の部屋へ来ていた。
「疲れてるだろう。今日はいい」
「いえ」
ダンサーは上着を脱ぎながら、淡々と首を振った。
「明日は昼から稽古なので、今夜のほうが都合がいいです」
シャツのボタンを自分で外していく。
三つ目まで来たところで、その手を止められた。
「……もう少し色気のある誘い方をしてくれればいいものを」
「馬鹿なことを言うんですね」
答えはなかった。
かわりに、シーツへ引き倒される。
首すじに唇が押しあてられた瞬間、背中が震えた。
腰を掴む手のひらが熱い。
踵の張りを確かめるように脚をなぞられて、爪先がひとりでに丸まる。
声が出そうになって、慌てて唇を噛んだ。
――これは、そういう契約だ。
心のなかで、そう言い聞かせる。
気持ちがいいのは、この男が上手いからだ。
十年も抱かれていれば、身体が覚えるのは当たり前だ。
それだけの話。
「隠すな」
「……っ、う」
顎を掬われて、こらえていたものが崩れた。
甘い声が自分の喉から出ていることが、無性に腹立たしい。
それでもシーツを掴む指には、どうしても力がこもる。
「あッ――……」
――金のためだ。
そう思うたび、なぜか胸の奥がざらついた。
翌朝。
シーツにくるまったまま、ダンサーは何気ない口調で言った。
「来季、パリの舞台に呼ばれました」
「聞いてる」
「向こうで、コーチをつけたいんです」
「いくらだ」
……これでいい。
これがいい。
こういう関係だ。
ある日、若く美しい新人が鮮烈なデビューを飾った。
その舞台を並んで観たあと、パトロンは言った。
「なかなか才能があるな」
たいした意味などない、ただの感想だった。
「……そうですね」
答える声が、うまく出なかった。
――若い。
しかも、あんなに綺麗なオメガだ。
膝の上で握った拳に、爪が食い込んでいる。
ロビーへ向かう人波の音が、やけに遠く聞こえた。
理由なら、すぐに思いついた。
支援を失うかもしれない。
だから焦っている。
それだけだ。
その夜、ダンサーは自分から男の首に腕を回した。
「どうした」
「……だめですか」
いつもは求められるまで動かない。
上着すら自分から脱がないのに、その日は違った。
膝立ちで身を寄せ、名前を呼んで、シャツの襟を引き寄せる。
そのまま、自分から唇を重ねた。
「随分と積極的だな」
「文句があるなら、やめます」
「言ってない」
押し倒されて、シーツに沈む。
稽古のことも、明日の予定も、頭に浮かびすらしない。
首すじを吸われれば背が跳ねて、脚をなぞられれば声が漏れて、そのたびに自分から腕を伸ばして相手を引き寄せた。
「ん、っ……もっと」
「欲張りだな、今日は」
「……うるさい」
言い返した声が、みっともないほど掠れている。
いつも舞台を観ているときの目が、こんな近くから自分だけを見ている。
それに気づいた瞬間、頭の芯が焼けた。
――足りない。
もっと近くにいたい。
この人に、飽きられたくない。
そんな考えが浮かんだ自分に驚いて、ダンサーは思わず相手の背にしがみついた。
「今日は、ずいぶん必死だな」
耳もとで囁かれて、かっと頬が熱くなる。
「……悪いですか」
「別に」
そのあと、どれだけ乱されたのか、よく覚えていない。
ようやく息が整ったころ。
汗の引いた髪を撫でていた手が、ふと止まった。
「そんなに不安なら」
「……何ですか」
「俺と番になるか」
「……は?」
「そうすれば、心配しなくていいだろう」
「馬鹿なことを――」
言い捨てようとして、声が止まった。
胸の奥に、最初に湧いたもの。
それが、拒絶ではなかった。
――安心した。
そう自覚した瞬間、ダンサーは自分でうろたえた。
おかしい。
契約が続けばいいだけの話だ。
支援さえ切れなければ、番かどうかなんて関係ないはずだ。
なのに、どうして。
どうしてこんなに、ほっとしている。
「……僕は」
その先が、出てこない。
パトロンは急かさなかった。
ただ黙って、ダンサーの身体をゆっくりと抱き寄せる。
腕の中に閉じ込められて、それでもダンサーは振りほどかなかった。
抵抗できないのではない。
したくなかった。
肩口に唇が触れて、首すじをたどって、うなじで止まる。
「……噛むぞ」
答えるかわりに、ダンサーは目を閉じた。
それから、ほんのわずかに顎を上げる。
やわらかい痛みが走った瞬間、じん、と熱が全身へ広がった。
視界が滲む。
指先まで甘く痺れて、しがみついた背中が焼けるように熱い。
何度も名前を呼ばれた。
呼ばれるたび、胸の奥が痛いくらいに満たされていく。
十年、金のためだと言い続けてきた夜が、その一晩で全部塗り替えられていくようだった。
翌朝。
先に目を覚ましたダンサーは、隣の寝顔をじっと見ていた。
やがて、その目が開く。
「おはよう」
いつもと少し違う、甘さの混じった声だった。
「……おはようございます」
ぽかんとしたまま返す。
胸のあたりが、妙にあたたかい。
それを認めるのが悔しくて、ダンサーは何も言わずに、その胸もとへ潜り込んだ。
「どうした」
「……別に」
男が笑う気配がした。
それ以上は聞かずに、腕が背中に回される。
「稽古、昼からだったな」
「……まだ寝てます」
十年で初めて、この部屋を出るのが惜しかった。




