涙とライブTシャツ
その夜は、なかなか眠れなかった。
やっぱり紫雨が好きっていう気持ちと、紫雨とヒナを見た時に感じた嫉妬。
それに、気持ちを伝えてくれた優雨にどう話そうかという思いでグルグルしていた。
そう、まず優雨にちゃんと言わなきゃ。
部活の朝練で早くに家を出たら、ちょうど同じように家を出てきた優雨に会った。
「おはよう亜美、朝練行くの?」
黒い竹刀のケースを肩に掛け、黒のリュックを背負った姿勢のいい優雨は、今朝もやっぱり変わらず落ち着いて見える。
逆に私は、優雨を見た瞬間からドキドキして緊張してる。
「うん。おはよう優雨。あの、この前の返事がしたいんだけど、話せる時間ある?」
何気なく一緒に歩き始めた彼は一瞬の間の後で、「亜美が今日がいいんなら、俺はいつでも」と言ってくれた。
「じゃあ、帰りでいいかな」と私は言ってまた歩き始めた。
他の友達に会える広い通りのバス停までは、しばらくこのまま二人きり。
でも優雨は急に立ち止まると、私の目を見つめて低く言った。
「いや、やっぱり今返事が聞きたい。言って、亜美」
ちょっと身をかがめた優雨が私の前に立った。
少し長めの前髪がさらりと流れて。
あ、優雨の顔が近い。
「え……今言うの?」
「そう今、ここで。誰もいない。何か困る?」
急に問い詰めるような口調で訊く優雨の切れ長の目が鋭く感じる。
テストを挟んだけど二週間近くも返事を引き伸ばしてしまったせい、かな。
そう思ったら優雨に済まなくて逆らえない気がして、答えた。
「わかったよ、優雨」
覚悟を決めた私は、目の前の端正な優雨の顔を見上げた。
「返事が遅くなってごめんね。私、優雨の気持ちは嬉しいけど、付き合えないの」
言ってしまった、ついに。
優雨は私の前に立ったまま、少し考えるように眉をひそめて言った。
「気持ち嬉しいって言ったのに。どうして?俺わからない」
優雨は言ったけど、わからないって言うのが本心なのか掴めない。
ずっとぴたっとあてられた優雨の視線に縛られたみたいで、口調も冷ややかというか意地悪、な気がする。
「それは、優雨とはずっと友達と思ってて、彼氏としてとかそういう風には……」
「なら俺の気持ちはいらないって、はっきりそう言いなよ」
私の言葉を遮って優雨が言った。
「ごめん……ごめんなさい優雨」
「亜美、ほかに好きなやついるの?答えて」
また優雨に訊かれた。
それは今とても言えない、でも言わなきゃいけないの?
問い詰めないで優雨、困るよ。
無理……言えない。
そう思った時。
「いや。やっぱり知りたくない」
優雨が言った。
私が早くはっきりしないせいで、優雨を待たせた挙句にきっと傷つけてしまった、きっとそうだ。
ごめんね、優雨。
そう思ったら悲しくなって涙が出て来る。
こんな外で泣いてしまうなんて嫌だな、恥ずかしい。
けれど歩きながらちょっと啜りあげてしまい、ハンカチを探す。
そしたら優雨がポケットティッシュを渡してくれた。
「ほら。亜美、俺こそごめんね。本当にごめん、俺が悪い。わざと困らせた」
口調も態度も、もういつもの優雨だった。
「わざとなの……?でも私が悪かったんでしょう」
「いや違う。さっき亜美が帰りに話すって言った時に俺、ああ振られたって気が付いてた」
「ごめんね優雨。できたらこれからも友達でいたい。でも優雨がいやなら顔合わせないようにする」
そう言ったら首を振って優雨が言った。
「大丈夫。今すぐは無理だけど、だんだん普通の気持ちになれるから」
涙を拭いたらちょうど広い通りに出て、いつも乗るバス停が見えて私はホッとしていた。
同じ部の私の友達と、別の高校に通っている中学時代の同級生の男子が先にバスを待っていて、私と優雨に声をかけて来た。
涙ぐんだせいか友達に「亜美、なんか目赤いね」と言われ、「昨日すごく寝つき悪かったせいかも」と答えた。
朝から気持ちの波立ちがありすぎて妙に疲れてしまった。
だから朝練が済んでからクラスに行って、いつも通り友達と笑っている紫雨の姿を見たら何だかすごく安心した。
昨日ヒナと一緒に歩いてた紫雨の背中も忘れて、ただ嬉しかった。
それから数日後の夕方。
「亜美、ちょっと頼まれてー」と階下からお母さんに呼ばれた。
声がした台所に行くと、大きなボール箱が開かれていてふわっと桃の香りがしている。
箱を覗くと綺麗で大きい桃がずらっと並んでいた。
これは福島の叔母さんからだ。
「美味しそうだね、今年もたくさん送ってくれたわー。これからおすそ分け配達ね。夕飯前に配ろう」
「あー、うん」と歯切れの悪い返事をしてしまう。
「お母さんは八木さんと島津さんとこ行ってくるから。亜美は時任兄弟のとこね」
あー、ほらやっぱり。
悪い予感が的中した。
時任家は、帰宅部の紫雨はいるはず。
この時間だと優雨はまだ部活かな、もう戻ってるかな。
紫雨が出てくれたらいいけどなぁ。
隣だからめったに使わないけど、LINEで紫雨に「これから桃届けるよ」って言うかなあ。
でも、わざわざそんなことするの変だし。
既読にならなかったら、結局詰みだし。
もしか優雨と顔を合わせることを思うと気がひけた。
けど、だんだん普通の気持ちになれるから、と言ってくれた優雨を思い出して気持ちを引き締めた。
桃の入った紙袋を手に時任家のインターホンを押すと、「はーい」と紫雨の声がした。
よかった、紫雨だ。
玄関に出て来た紫雨は黒いハーフパンツに、去年紫雨とクラスの友達と四人でライブに行った時に買った、大好きなバンドのライブTシャツを着ていた。
バンド名のロゴはなくて個性的なイラストが描かれたダークグリーンのTシャツ。
その日行った友達とみんなで色違いで買ったんだ。
「あ、そのTシャツ」と思わず言う。
「あー、はは。かぶったねえ」と紫雨が笑った。
私も今偶然、同じデザインの水色のTシャツを着てたんだった。
色違いのお揃いになって、なんか照れる。
あれこれ気にしていたせいで、このTシャツ着てたことを忘れていた。
桃を渡すと「いつもごちそうさまです。うわーい、冷やしといて優雨に剥いてもらおう」と紫雨は嬉しそうだった。
廊下の奥で、ドライヤーの音がしてる。
優雨はお風呂なんだな。
紫雨の温かな笑顔に癒されて帰ろうとしたら、彼がぽそっと「昨日、ヒナがまたウチまで来たんだ」と言った。
「そうなの?」
途端に、せっかく紫雨にもらったヒーリングパワーが消費される。
ヒナも帰宅部だし、機会をとらえては紫雨に接近するヒナの心の強さ。
その強さが一ミリでも私に備わっていたら。
いやいや、その前に私には可愛さが不足しています、と思う。
「そしたらちょうど庭にキジトラのヤツがなあ、来てたんだよ。俺がヒナに帰れー、言ったそのタイミングで」
「ヒナ喜んでたでしょ?見たがってたもん」
野良猫までもがヒナに味方する展開かあ。
「そう。めっちゃテンション上がってなかなか帰んないから、部活帰りの優雨と会っちゃって『だれ』って言われたし」
そして紫雨は急に真剣な目になると、声を落として私に尋ねた。
「亜美ヒナから聞いちゃった?喧嘩のこと」
「あ、うん聞いた。でも言ってないよ、誰にも」
「良かった。そうして、頼む。家族に言ってないんだ。喧嘩して怪我したとかさあ、心配かけるから」
「うん、言わないよ。大丈夫」
やっぱりそうだったんだね、紫雨。
「ありがと亜美」
そう言われたらまた、気持ちが温かくなる。
「じゃ、帰るね。お邪魔しました」
そう言った時、ふわっと湯上りのいい香りがして廊下に白いTシャツと黒のハーフパンツの優雨が出て来た。
「あれ?亜美来てたの」
「うん、今年も親戚から桃もらったからおすそ分け。お母さんがどうぞって」
「そっか。いつもありがとう。おばさんに、ご馳走様ですって伝えてね」
少しかがんで穏やかにそう言った優雨の前髪がさらっと流れて。
あの朝、顔を寄せて私の気持ちを問い詰めた、彼の記憶がよぎった。