第1節:マックと五人の研究者、そして東崎南の記録
最初のAGBは現在の巨大企業とは比べものにならないほど小さかったが、研究の中心にはマック・アダソン、イーサン・グレイ、リアム・カーター、ノア・ブラックウェル、アレックス・モーガンの五人がいた。そして、その五人を記録、安全管理、通訳、研究補助という立場から支えていたのが東崎南だった。
六人は、マックが提示した「人間の神経を理解することで、苦痛をどこまで減らし、どこまで安定した存在へ変えられるのか」という問いを共有していた。ただし、全員が同じ答えを求めていたわけではない。
マックは麻薬学、神経薬理学、生体神経化学を専門とし、麻薬性物質によって痛みや恐怖、覚醒、集中、情動、依存がどこまで変化するのかを研究した。彼の特徴は、薬剤によってどの神経伝達物質が変化したか、どの濃度で鎮痛効果が現れたか、副作用がどの程度生じたかという薬理学的な分析だけでは終わらず、その結果を人類社会そのものへ当てはめて考えたことにあった。恐怖を抑制できるなら戦争は減るのか、怒りを抑えられれば犯罪は減るのか、不安を取り除けば人間はより合理的な判断をするのか、たとえ人間性の一部が失われても社会全体が安定するのであれば、それを治療と呼ぶことはできないのか。マックの論文は、最後には必ず人類そのものへ行き着いた。
イーサン・グレイは神経薬理学者として、同じ研究理念をより医学的に追究した。自身をPROTO-TYPE 001、ニューロスとして実験対象にし、『神経伝達物質調節による認知機能維持と情動抑制の解析』をまとめ、集中力や判断力を維持しながら不安や過剰な興奮だけを抑えることが可能なのかを調べた。
リアム・カーターは心理学と認知神経科学の立場から、PROTO-TYPE 002、エンパスとして自己実験を行った。『感情境界低下が意思決定および対人認識へ及ぼす影響』では、感情の境界が弱まったときに共感能力や倫理判断、対人認識がどう変わるのかを心理検査や面接、自己報告を通じて分析した。
ノア・ブラックウェルは医療工学と神経工学を専門とし、PROTO-TYPE 003、クロノスとして長時間神経同期状態へ入りながら、心拍、脳波、筋電図、血圧、呼吸を計測した。彼の研究は人体だけに向けられていたわけではなく、患者を安全に監視するためのセンサー、輸液ポンプ、警報システム、神経モニター、長時間生命維持設備そのものの改良にも及んでいた。
アレックス・モーガンはAIと情報解析を担当し、PROTO-TYPE 004、ネクサスとして自己実験へ参加しながら、大量の生体データを人工知能へ入力し、人間の神経活動が次にどう変化するのかを予測する研究を行った。一人の患者を対象にすれば、それは発作や精神状態悪化の予測に使える医療技術だったが、対象を数千人、数万人へ広げれば、集団全体の感情変化や行動を予測する技術にもなり得た。
そして、その全員より先に自分自身を被験者としたのがマックだった。彼の管理番号はPROTO-TYPE 0、被験者名はゼロメキラ。番号が000ではなく0なのは、彼がAGBで最初に自己実験を開始した研究者だったからである。
東崎南もまた、当初からマックの研究理念を完全に否定していたわけではない。麻薬性物質を医学へ転用し、神経疾患を治療し、痛みを減らし、患者が自分の生活を取り戻せるようにする。その目的には研究する価値があると考えていたからこそ、通訳として研究成果を世界へ伝え、実験に立ち会い、安全管理と医学的観察を担当していた。
しかし、マックが治療の先へ進むほど、二人の見ているものは少しずつ違っていった。マックが「適応」と呼んだ現象を、東崎は異常反応として記録した。マックが「神経進化」と書いたとき、東崎は同じ時刻の体温、血圧、呼吸数、意識レベルを残した。マックが「次段階への移行」と表現した変化について、東崎は高熱、悪寒、吐き気、嘔吐、食欲消失、幻聴、攻撃反応、呼吸異常と記録した。同じ実験を見ながら、マックは進化の証拠を残し、東崎は生命を守るための医学記録を残していった。
その経験が、はるか後に東崎を生命維持技術の道へ進ませ、マック専属BMLSTへと変えていく遠い原点となった。




