第3節:神経薬理学と「AGB」の誕生
AIIBSOもまた、その影響を受けた。兄弟を将来の経営者として育てるための訓練組織だったものが、世界各国の諜報機関、民間情報企業、地下情報網を監視する本物の秘密情報機関へ変質していった。
やがて、「自分たちを超える諜報機関が現れた場合、完成する前に潰す」という新しい行動原則まで生まれた。旧サイバーサイジング社時代に存在していた共存という考え方は消え、他の情報組織は監視、介入、場合によっては排除の対象となった。
そして、その変質したAIIBSOの内部から、もう一つの組織が生まれた。
サイバーサイジング社でシステムエンジニアとして働いていたマックは、両親の死と会社の崩壊、そして後に「サイバーサイジング・ショック」と呼ばれる世界規模の混乱を経験するうち、人間の行動そのものを一つの不安定なシステムとして見るようになっていた。人は恐怖によって冷静な判断を失い、怒りによって本来なら選ばなかった行動を取る。一人の不安は周囲へ伝わり、集団全体を混乱させ、互いに信頼していた者同士でさえ恐怖や利害によって裏切り、同じ事実を見ながら感情の違いによって対立する。
サイバーサイジング社で扱っていたコンピューターなら、故障原因を特定し、プログラムを書き換え、壊れた部品を交換すれば正常な状態へ戻すことができた。しかし、人間はそうはいかない。その違いこそが、マックには次第に耐えがたいほど非合理的なものへ見えるようになっていた。社会を不安定にしている最大の原因は技術不足ではなく、人間そのものなのではないか。さらに言えば、人間の脳と神経、そしてそこから生まれる感情こそが、社会という巨大なシステムを不安定にしているのではないか。マックはそう考えるようになった。
もし恐怖や怒り、不安、依存といった神経反応を薬学によって調整できれば、過剰な感情によって日常生活が困難になっている人間の神経を安定させ、集中力や認知機能を適切な状態へ戻すことができるかもしれない。病気や障害によって失われた機能を、薬によって取り戻せる可能性もある。
その発想そのものは、最初から異常なものではなかった。マックが最初に注目したのは麻薬だった。彼にとって麻薬とは、犯罪や依存だけを意味する危険物ではなく、強力な作用を持つからこそ正しく制御すれば医学へ利用できる物質でもあった。アヘン由来のモルヒネのように、麻薬性を持ちながら癌などによる激しい疼痛を抑えるために用いられる薬があり、手術や集中治療では麻酔や鎮静薬が必要になる。強い依存性を持つ物質の作用機序を解析することで、逆に依存症そのものを治療する方法が見つかる可能性もあった。
だからマックは、麻薬を排除するのではなく研究しようとした。どの物質が脳のどこへ作用するのか、どの程度の作用なら治療となり、どこから依存や毒性へ変わるのかを調べ、その境界を人間の手で制御する。それが、彼が考える麻薬学だった。
この思想を実際の研究へ落とし込むため、AIIBSO内部に小さな神経化学研究部門が設けられた。American Gang Boy Neurochemical Laboratory――AGB。これが、後にAGB PharmaTechへ発展する組織の始まりだった。
AGBで研究されたのは、癌性疼痛を抑える鎮痛薬や手術時の麻酔・鎮静補助薬だけではなかった。神経障害による慢性疼痛を和らげる薬、依存症患者の離脱症状を抑える薬、不安や過剰な覚醒を安定させる薬、必要なときに注意や覚醒を適切な範囲へ調整する薬など、研究対象は次第に広がっていった。そこにはADHDやASDを含む神経発達特性に伴う困難への治療研究も含まれ、注意の切り替えが極端に難しい状態や、音や光などの刺激に強く圧倒される状態、不安によって思考が停止する状態、睡眠と覚醒のリズムが崩れている状態などを薬理学的に調整し、本人が生活しやすくすることが目指されていた。
少なくとも、その段階では、それは明確に治療だった。
しかし、マックはそこで思考を止めなかった。
一人の患者の不安を薬で抑えられるなら、集団の不安も同じように抑えることができるのではないか。注意機能を調整できるのであれば、人間の集中力そのものをもっと高い水準へ引き上げることもできるのではないか。身体的な苦痛を麻薬によって取り除くことが許されるのなら、恐怖や悲しみといった精神的な苦痛まで制御することは本当に間違っているのか。神経発達特性に伴う感覚過敏や強い不安を軽減できるなら、人間同士の神経状態そのものを近づけることで、社会から対立や混乱を減らせるのではないか。
こうしてマックの中で、「治療」という言葉の範囲は少しずつ広がっていった。最初は患者を治療するための医学だったものが、やがて集団を安定させる技術となり、さらに社会全体を一つの患者のように扱う発想へ変化していった。病気になった身体へ薬を投与するように、不安定な社会にも薬と神経科学を与えればいい。感情の暴走を抑え、恐怖を鎮静し、過度な依存を調整し、人間同士の神経状態を同じ方向へ近づけることで、社会そのものを巨大な一つの生体システムとして安定させる。
そこに、後のAGB PharmaTechへつながる思想の原型が生まれた。
マックの思想が歪んでいたのは、麻薬を医学へ利用しようとしたことでも、病気を治そうとしたことでもない。本来は患者本人の苦痛を軽減するために使われるべき医療を、本人が望んでいるかどうかとは無関係に、社会全体を自分の考える「正常な状態」へ修正する手段として見始めたことだった。




