第4節:防護服の装着と統括室への侵入
東崎が認証装置へ手を置いた。 「主任BMLST、東崎。施術統括、Cryo-Gel全身交換」 AUTHORIZED エレナが続いた。 「上級BMLST、エレナ・ヴァイス。Cryo-Gel、極低温生命維持担当」 AUTHORIZED ダニエルが静かに手を重ねる。 「上級BMLST、ダニエル・カーター。生体機械接続、生命維持装置担当」 AUTHORIZED
最後に三人同時の生体認証が走った。 THREE-PERSON TYPE-Σ AUTHORIZATION: CONFIRMED ACCESS GRANTED
同時に、隔壁の向こうにある生命維持統括室へAIのアナウンス音声が静かに流れた。 『マック・アダソン生命維持統括室へ通知します。入室担当、主任BMLST東崎。上級BMLSTエレナ・ヴァイス。上級BMLSTダニエル・カーター。定期総合生命維持施術を開始します』
マックは扉が開く前から、今日誰が自分の身体へ直接触れ、命の糸を繋ぎ止めるのかをシステム経由で把握していた。
ガシャコン――。 重厚な油圧音とともに、分厚い最終隔壁が左右へとゆっくり引き裂かれた。
――ッブォォォォォン……ッ!!
次の瞬間、耳を聾するほどの重厚な機械駆動音と狂った風切り音が三人の全身を襲った。 室内に設置された漆黒のタワーファン群とサーキュレーターが叩き出す風速30メートルの荒々しい冷却暴風が、濃密な白煙のような冷気と激しいダイヤモンドダスト(氷晶)の渦を伴って怒涛の勢いで押し寄せてきた。−15℃の極低温と嵐のような暴風が重なる室内は、肉眼であれば一歩先すら閉ざされる猛烈なホワイトアウトの状態と化している。
胸部生命維持ユニットの液晶表示が一斉に外部環境の異常を告げて切り替わり、同時に三人の防護服ヘルメットのバイザー内側(透過型HUD)にも、まったく同じステータス情報と環境警告のシームレスな文字が目元へとダイレクトに重畳投影された。 EXTERNAL: -15.3°C INTERNAL: 22.0°C THERMAL PROTECTION: ACTIVE ANTI-FROST: ACTIVE
だが、三人がパニックを起こすことも、激しい暴風と白煙に視界や足元を奪われることも一切なかった。 東崎たちのAGB Biohazard Maintenance Suitのバイザー内側には、胸部ユニットから転送された数値だけでなく、各種バイタルや周囲の環境データが半透明のグラフィックとしてリアルタイム投影されている。さらに、バイザー表面に施された二重層ナノ解氷グリッドとホワイトアウト防止用光学透過フィルターが即座に作動し、室内を舞い散る濃密な霜や氷晶の光学的ノイズをミリ秒単位でデジタル処理・キャンセルした。 ホワイトアウトの白銀はバイザー越しにクリアに透過補正され、三人は激しい吹雪の渦中でありながら、互いの防護服の輪郭、足元の氷、そして部屋の中央で重厚な床面アンカーに強固にロックされ微動だにせず佇むマックの姿と室内全域の構造を寸分の狂いもなくくっきりと視認していた。
ドシッ、ドシッ。 東崎が暴風の吹き荒れる統括室へ最初の一歩を踏み出した。 全身を叩きつける風速30メートルの凄まじい風圧と打ちつける氷粒に対し、スーツの腰部・胸部ジャイロユニットが瞬間的に反応し、自動ウエイト・重心制御を行って風圧のベクトルを相殺する。さらに足元では、靴底の『可変磁力アンカーブーツ』が床面に敷設された金属レールへ強力な電磁力で吸着し、氷の張った滑りやすい床面をガッチリと捉えて横転や滑走を完全に防いだ。 東崎たちは訓練されたBMLST特有の「低重心歩行術」を維持し、低姿勢で一歩一歩確実に足を磁着させながら進む。吹き荒れる暴風や極寒に煽られて姿勢を崩すことは決して許されない。転倒してマックの身体深部へ繋がる生命維持チューブや神経ワイヤーへ倒れ込もうものなら、一瞬で不可逆の命の破綻とウイルスの全館漏洩を引き起こすからだ。速く動くことではなく、絶対に転ばず、確実に動くこと――それこそがBMLSTへ徹底的に叩き込まれた鉄則であった。
スーツ内部は『BMLST胸部生命維持ユニット』と電熱ヒーターによって常時22度前後に保たれ暖かい。しかし、どれほど高度な防護服を着ているからといってこの現場が楽になるわけではなかった。 外装表面は急速に冷やされ、バイザーの縁には微細な霜が成長し始める。ヒーターがフル稼働しているものの、手足の表面はじんわりと冷気に包まれていく。今日の作業は短時間ではない。順調でも六時間から八時間、異常が重なれば十時間近くに及ぶ過酷な長丁場となる。その間、重密閉防護服を纏い、暴風に抗いながら体を曲げ、立ち、しゃがみ、触覚フィードバック型ナノグローブを介して数ミリ単位の精密手技を維持し続けなければならない。
風圧と重低音ノイズの渦をくぐり抜け、三人は車椅子の周囲へ到達し、所定の作業ポジションへと就いた。
その三人の接近と正確な立ち回りを、中央に固定された超ハイテク車椅子の中でマックは静かに見つめていた。 狂った暴風と吹雪が統括室を揺るがし、ダイヤモンドダストが乱反射して視界を白く染め上げようとも、マックの全身を覆う硬化した『Cryo-Gel』の外装甲皮膜が暴風と氷晶の打撃を完全に弾き返し、顔面を気密密閉する『Cryo-Mask Σ』と瞳の不可逆デバイス『Cryo-Vision Σ』が彼の肉体と視界を鉄壁の防護で守り抜いていた。 『Cryo-Vision Σ』の全天候型光学フィルターと解氷グリッドが激しい吹雪を透過・数値化し、白煙の向こうに立つ三人の姿や車椅子の計器類を、白黒のシャープな輪郭として完璧に捉え続けている。
だが、マックの精神は、長年の過酷な自己実験、そして2024年に両親を無残に殺され引き継ぐはずだった会社を失い世界中から非難された強烈なトラウマから心を護るための無意識の防衛反応、さらには不可逆なデバイスと極低温環境がもたらす重度の離人症によって完全に支配されていた。
目の前に進み出てきた東崎、エレナ、ダニエルの三人。 かつて同じロンドン研究所で自らの命を託し、長年ともに歩んできたはずの東崎南の姿すら、今のマックの目には「生身の暖かな人間」としては一切映らない。 『Cryo-Vision Σ』によって色彩が完全に剥ぎ取られた世界は、昔の白黒テレビの映像のようにスモーキーなモノクロームに還元されている。目の前の人間は血の通った生身の生き物ではなく、まるで厚いガラスやスクリーンの向こう側――映画や夢の中、あるいは精巧なデータシミュレーションの光景としてしか知覚できない(現実感消失)。
さらに、彼の脳内では、自分自身の身体に対する凄まじい異物感が常態化していた。自分の地声は失われ、体内に深く埋め込まれたワイヤーやチューブに縛られ、車椅子なしには一秒も生きられない。自分の手足や呼吸すらも自らのものではなく、「古びて老朽化していく機械や人工臓器のパーツ」を遠く体外から冷ややかに見下ろしているような、激しい体外離脱感(離人感)が脳内を満たしている。すべての感情は麻痺し、冷たい思考の奥底へと固着・沈殿していた。
生存の代償として引き受けたその離人症の視界のすぐ表面(網膜直近)には、三人の防護服の胸元や頭上に追従するように、冷ややかに発光する青色のネオンデータが重畳投影されていた。
HIGASIZAKI, MINAMI / CHIEF BMLST
HEART RATE: 68 BPM STRESS
LEVEL: 12% SUIT PRESSURE: NORMAL
WEISS, ELENA / SENIOR BMLST
HEART RATE: 74 BPM STRESS LEVEL: 18% SUIT PRESSURE: NORMAL
CARTER, DANIEL / SENIOR BMLST
HEART RATE: 71 BPM STRESS
LEVEL: 15% SUIT PRESSURE: NORMAL
マックにとって、目の前の三人は「心拍数が何bpmで脈打っているかを示す、正確なメンテナンス・オブジェクト」に過ぎなかった。 だが、この人間的感情を完全に遮断された絶望的な離人症の視界とデータ処理能力こそが、彼から「迷い」や「情」というノイズを一切クレンジングし、ミリ秒単位の計算のみで巨大企業AGB PharmaTechを冷徹に統御する絶対的CEOとしての万能性を与えていたのである。
マックは密閉された透明な『Cryo-Mask Σ』の底から、ゆっくりと三人に視線を向けた。 密閉された高圧バルブと硬化したジェルの負荷、そして衰えた筋力により、彼の生声はもはや微弱な吐息程度しか出ない。だが、喉の微小な振動を拾ったマスクのマイクが車椅子のAI音声コンバーターへ信号を送り、重低音のファンノイズと暴風が吹き荒れる室内へ、一切の感情の揺らぎを含まない、機械のように冷徹で不気味な人工合成音声が滑らかに出力された。
『……定刻通りだな、東崎。これより、TYPE-Σ 定期総合生命維持施術の移行を承認する』
その言葉を受け、東崎が重厚なバイザー越しに姿勢を正し、力強く応答した。
「了解いたしました、マックCEO。これより本日の定期総合生命維持施術を開始いたします」
「全冷却システムおよび生体モニター、正常稼働中。施術中のバイタル変動に即座に対応します」
エレナが手元のコンソールへ視覚入力を飛ばしながら追従する。
「データライン、BMLST統括サーバーと完全同期完了。安全第一で執り行います」
ダニエルも深く頷き、車椅子の側方で微動だにせず構えた。
白濁した灰色のガラス玉のようなレンズの奥で、青白いバイオ・ルミネセンスの光がぼんやりと怪しく揺らめく。 白黒の世界と青白いデータの海の中で、マックは自らの生命を委ねる三人のメンテナンス・ユニットを、どこまでも冷酷に、アンド完璧な計算とともに見据えていた。




