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映画『Type-Σ Life Support Unit -マック・アダソン定期総合生命維持施術-』  作者: マック アダソン
第6章:現在 ——レマン湖畔の本社とマックの生命維持統括室
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第1節:本社地下最深部とマックの「第二の皮膚」最終修正版消すな

そして現在――時は2037年。

2035年にAGB PharmaTechが設立され、世界を再編するバイオ・医療帝国へと変貌を遂げてから、すでに丸二年が経過していた。その組織の心臓部であるレマン湖を望む本社地下には、一般社員が簡単には立ち入ることのできない生命維持医療区画がある。

そのさらに最深部。何重もの隔壁と資格認証システムによって守られた場所に、マック・アダソン専用の生命維持統括室が存在していた。

かつて兄ジェイムズとともに世界百二十五支社を持つIT企業でシステムエンジニアとして働いていた男は、2024年に両親を殺され、引き継ぐはずだった会社を失い、世界中から非難され、AIIBSOを変質させた。その後ロンドンで小さな神経化学研究所AGBを始め、麻薬学者として世界へ知られるようになり、アルティメットを生み、アルティメットウイルスを作り、自らをPROTO-TYPE 0――ゼロメキラとして研究対象にし、ポストヒューマニティという新しい人類の形を追い求めた。

 長年にわたる過酷な自己実験、劇薬投与による代謝異常、そして-15℃の強冷風に晒され続けたことによる頭皮血管の微小循環不全は、彼の毛母細胞からメラニン生成能力を根こそぎ奪い去っていた。かつて若き日を彩った鮮やかな金髪は完全に生気を失い、氷のように冷たく褪せた白髪へと変質している。さらに、新陳代謝が極限までストップ(仮死固定)したことで毛周期そのものが停止しており、新しい髪が生えてくることも、古い髪が抜け落ちることも二度とない。

マックにとって、髪を洗ったり整えたりする「身だしなみ」という人間的観念はすでに完全に捨て去られたものだった。洗髪やブラッシングといった行為は、生存やシステム稼働において何の意味もないばかりか、頭部に埋め込まれた神経インターフェースの端子やセンサー、傷口を塞ぐCryo-Gelの密閉保護膜を乱す不必要なノイズでしかなかったからである。

かつて整えられていたヘアスタイルという概念はとうに崩壊しており、前髪や側頭部の毛束は不規則に乱れたまま頭皮や額、耳周りへペタリと張り付いている。室温-15℃の極寒と強力な殺菌・防腐成分を含むCryo-Gel、そして絶え間ない強冷風が引き起こす永久結露(フロスト)が混ざり合うことで、他的な髪は一般的な生活臭や雑菌にまみれた不清潔な汚れではなく、「化学薬品と氷の結晶によって無菌的に固められた物質の塊」と化していた。水分でベトベトに濡れているのではなく、ジェルや凍りついた皮脂、微細な霜が混ざり合い、樹脂とガラスのように冷たくパリパリ・ネチャネチャとした異質な光沢を放つ束状の固形物として頭皮に固定されている。画像越しに覗き込んでももはや本来の髪型すら判別できないその惨状は、彼が「時間の流れ」や「日常の人間性」から完全に切断されたことを生々しく物語っていた。その体は自ら制御不能なほどの凄まじい代謝熱を生み出す生体機械と化し、今やAGB PharmaTechのCEOとして絶対的な頂点に臨している。

 しかし皮肉なことに、マック自身の身体は、かつて自分たちが開発してきた生命維持技術なしには生存できない状態にまで変わっていた。

体内で暴走する致命的な高熱を外側から打ち消すため、彼の全身を覆っているのがCryo-Gelだった。

青白く光る極低温の特殊冷却ジェル。普通の人間が素手で触れ続ければ一瞬で熱を奪われ、重度の低温熱傷や凍傷を起こす。しかし、絶えず過剰な熱を発し続けるマックにとって、その極低温こそが生命維持の絶対条件だった。

薄く塗るだけでは足りない。Cryo-Gelは全身へ分厚く塗布され、直後の高粘度ペースト状態からマックの高熱と極寒に反応して数秒で硬化し、風速30メートルの荒々しい暴風にも決して吹き飛ばされない「柔剛を兼ね備えた高分子の冷却皮膜(外装甲)」へと変質する。ジェルに含まれる生体適合性ポリマーが皮膚の微細な凹凸や傷跡に入り込んで強力にアンカー(生体密着)し、どれほど猛烈な風圧が叩きつけられても捲れ上がることはない。

しかし、その極低温の特殊冷却ジェルが果たす役割は、単なる熱交換だけにとどまらない。それは顔面を守る『Cryo-Mask Σ』や瞳を守る『Cryo-Vision Σ』と同様に、室温マイナス十五度の極寒と風速30メートルで叩きつけられる荒々しい冷却暴風、そして室内を舞い散る鋭利な霜や氷晶(ダイヤモンドダスト)の直撃から、彼の青白く痩せ細った素肌を直接保護する物理的防壁(外骨格)でもあった。もしこの硬質なジェル皮膜がなければ、他的な皮膚は狂った風圧と氷粒によって一瞬で乾燥壊死を起こし、裂け散ってしまう。高熱を冷却しながら、同時に外側の物理的破壊からも肉体を守る――それこそが、マックが纏う「第二の皮膚」のもう一つの必然性だった。

とはいえ、どれほど強固に密着したジェル皮膜であっても、狂った風圧と氷晶の打撃、内側からの異常な代謝熱に晒され続ければ、時間の経過とともに徐々に微小な亀裂や乾燥剥離を起こしていく。ジェルが剥げ落ちて生肌が暴風に晒されれば、即座に組織の壊死や熱暴走を招く――。だからこそ、二週間に一度、古いジェルをすべて剥ぎ取って新しく塗り直す過酷なメンテナンスを止めるわけにはいかなかったのである。

絶えず超低温のジェルに直接さらされ続ける彼の皮膚は、組織の深部において慢性的な低温熱傷の痛みを常に受けている。さらに、長年にわたる自己実験の果てに、他的な肉体はジェルによる火傷の痕だけでなく、無数の注射痕や度重なる穿刺による生々しい傷跡で埋め尽くされていた。それは自分の暴走する高熱を抑え込んで生き延びるために、自らの肉体が背負う過酷な代償だった。

 さらにマックが座る超ハイテク車椅子には、姿勢保持、冷却、生体監視、薬液供給、神経インターフェース、通信、情報処理、非常電源、そしてCEO業務用コンピューターに至るまでが統合されていた。彼はもはや車椅子から自力で立つことができない。仮に誰かが身体を持ち上げたとしても、多数の生命維持ラインや外部機器から簡単に切り離すことはできない構造だった。なぜなら、無数のワイヤーやチューブは単に表面に這わせているだけでなく、肉体の深部にまで直接埋め込まれており、そこから繋ぐために執り行われたのは、肉体の限界を試すようなあまりにも過酷で絶望的な難手術の連続だったからである。それらはもはや二度と外すことができない。仮にマスクやワイヤー、チューブを外せば、一瞬たりとも生き延びることはできず、他的な肉体は即座に崩壊し死に至る。マックにとって車椅子は移動補助器具ではなく、自分の身体の外側に存在する巨大な人工臓器であり、第二の身体そのものだった。そして、その第二の身体ごとマックを包み込んでいるのが、本社地下最深部の生命維持統括室だった。


 午前七時。

窓のないその部屋は分厚い隔壁によって外界から完全に切り離され、室温は常時マイナス十五度前後に保たれていた。壁を走る冷却配管は白い霜に覆われ、部屋の四隅に聳え立つ漆黒のタワーファンや最新型サーキュレーター、さらには天井やマックの車椅子自体にまでギッシリと埋め込まれた大小数えきれない冷却ファン群が、耳を聾するほどの「ブォォォン……ッ」という重厚な低音の機械駆動音と絶え間ない風切り音を室内全体に轟かせていた。向かい合うファンや巡回扇風機からは、風速30メートルに及ぶ荒々しい冷却暴風が狂ったように吹き荒れ、マックの身体へ絶え間なく叩きつけられている。空気の熱的境界層を強引に吹き飛ばし、マックの脳が放つ異常な局所熱流量やCryo-Gelの熱交換効率を極限まで高めるため、この激しい騒音と暴風は絶対不可欠な生命維持装置だった。

 その中央にマックがいた。青白く痩せ細った身体。霜とジェルで束状に固まったボサボサの白髪。顔の下半面を覆うのは、元々は極地医療用の気密保護シールドであり、他的な痩せこけた顔面ラインに合わせてカスタム改造された透明な高機能密閉マスク「AGB Cryo-Respirator 'Cryo-Mask Σ'(クライオ・マスク シグマ)」である。硬質なチタンフレームの中央には頑丈な透明特殊樹脂のシールドが嵌め込まれており、荒々しい風速30メートルの暴風の直撃による顔面組織の凍結壊死を防ぐ物理的防壁であると同時に、その透明な窓の向こう側では、マックの痩せこけた口元やわずかな息の白み、そして内部で絶えず循環する冷気の気流が生々しく透けて見えていた。このマスクは外部の狂った風圧に対抗して、計算された温度の酸素や神経麻痺用ガス、肺胞保護フッ素キャリアガスを最適な高圧で気管へと直接送り届ける役割を果たしていた。

 硬化したCryo-Gel。身体各部から伸びる無数のワイヤーとチューブ。その周囲には酸素系統、医療ガス系統、栄養供給装置、輸液、輸血、各種薬液、冷却装置、ポンプ、神経インターフェース、生体モニターが密集している。

特筆すべきは、PROTO-TYPE 0であるマックの周囲や呼気フィルター、体液循環ラインの近辺には、彼自身が作り出したアルティメットウイルスをはじめとする強力な病原体や変異因子が常に高濃度で内包・滞留しているという点だった。そのため、防護服や厳重な資格認証なしに無防備で彼に近づくことは、即座の人体への致命的な感染や組織崩壊を意味する。漏洩すれば通常の人間に有害となる猛毒やウイルス的リスクを含め、この統括室そのものが絶対的な隔離要塞であった。

 しかし、マイナス十五度の室内にあるからといって、それらの液体や気体までが凍結するほど冷やされているわけではない。液体ボトルやカートリッジは独立した恒温設備で管理され、細い供給チューブにも厳重な断熱と加温機構が備わっていた。酸素などのガス系統も圧力と温度が別系統で制御されていた。部屋そのものは極低温の冷気とファンの重低音で満たされ、マックの表面を冷やし続けるクーラーの役割を果たしている一方で、体内へ送り込まれる酸素や栄養、血液はそれぞれ最適な温度に保たれている。身体を冷やすべき表面と、絶対に冷やしてはならない体内が完全に切り分けて制御されているからこそ、彼はこの極寒の環境で命を繋ぎ止めることができていた。

 新しい人類の形(ポストヒューマニティ)を求めて自らを実験台にした結果、他的な肉体は青白いCryo-Gelと透明なCryo-Mask Σの底で極限まで消耗しきっていた。密閉されたマスクのフィルターと高圧バルブを通さなければ呼吸できない構造や、胸郭や首の動きをガチガチに制限する硬化したジェル、そして痩せ細った筋力により、他的な地声はもはやかすれた微弱な吐息程度しか出ない。一言を発するだけでも胸元を激しく上下させ、息切れを伴うほど体力を消耗する。肉体的な活動能力は一般人以下であり、自力で長く言葉を紡ぐことすら困難を極めていた。そのため、彼が発話する際は、Cryo-Mask Σ内部の微小マイクが喉の微小な振動とわずかな呼気を拾い上げ、車椅子のAI音声コンバーターが合成した冷徹でクリアな人工音声へとリアルタイムで翻訳・出力される仕組みになっていた。

 すべてを支配する巨大企業のCEOでありながら、あの体内に深く埋め込まれ、二度と外すことのできないワイヤー、チューブ、透明なマスク、そして極低温のCryo-Gelが組み込まれたハイテク車椅子や統括室の設備がなければ、もはやマックは一瞬たりとも生きていくことができない。自らの肉体が暴走する凄まじい代謝熱やウイルスに耐えられず、人工の機械とジェルに全身を縛られなければ生きられない――。その命の根幹は、いつか必ず擦り切れていく無機質なワイヤーやチューブの稼働に完全に依存していた。マックの命を繋いでいる車椅子や生命維持システム、配管や冷却ユニットは、彼の暴走する凄まじい代謝熱や高濃度のウイルス・化学物質に常に晒され続けているがゆえに確実に老朽化や腐食の道をたどっており、機械のメンテナンスや部品の交換が追いつかなくなった時、あるいはシステムそのものが限界を迎えた時、それはそのままマック自身の寿命の限界に直結する。すべてを支配しているはずの圧倒的な巨頭が、実は老いゆく機械と朽ちゆく肉体の鎖に最も縛られているという、逃れられない運命の脆さと深い悲壮感がそこにあった。

 しかし、その過酷な地獄こそが、マックにとっては唯一の安息の空間だった。室内を揺らす冷却ファンの「ブォーン」という絶え間ない重低音も、皮下神経に突き刺さる強冷風の痛みも、チタンインプラントの収縮圧も、彼にとっては脳の熱暴走を相殺して思考速度を無限に加速させるための心地よいクリア・ステートであり、自身とシステムが境界線なく溶け合うこの環境を、マック自身は「快適だ」と感じていた。

 床面のアンカーで微動だにせず固定された車椅子の中で、彼は自らの瞳に装着されたAGB Ocular-Protect Sub-System "Cryo-Vision Σ"(AGB 眼球保護サブシステム 『クライオ・ビジョン シグマ』)を通して世界を捉えていた。

それは単なる脱着式のコンタクトなどではない。元々はAGBの軍事部門が、極地戦闘やバイオハザード下の極限戦場で兵士を「恐怖や動揺を知らない完璧な兵器」へと変貌させるために開発していた軍事用生体インプラントだった。戦場での脱落や敵による強奪を物理的に防ぐため、一度装着すれば二度と取り外すことのできない不可逆の仕様であり、装着者の脳から「赤」などの暖色を排除して白黒のモノクローム視界に変異させることで、血の赤や戦場の恐怖といった人間的ノイズを極限まで削ぎ落とす冷徹な兵器システムであった。72時間に及ぶ危険な外科手術によって生体角膜を切削・固定され、視神経の根元や脳幹へ直接チタン・光ファイバー線が打ち込まれたそのデバイスを、マックは自らの意思で受け入れ、PROTO-TYPE 0としての己の瞳へと組み込んだのである。

 -15℃の極低温と暴風環境下でなければ起動しない環境応答型インターロックを備えたその瞳は、第三者の目から見れば、視神経や生体回路といった内部の機械的機構が剥き出しで見えているわけではない。表面を覆う多層光学コーティングや防凍バイオポリマー、そして解氷グリッドが外部の強烈な光や室内の青白い照明を複雑に乱反射させるため、外からは生気を完全に失い、白濁した灰色やスモーキーな白色に濁った「まるで凍りついたガラス玉や、硬質な半透明のカラーコンタクト(あるいは義眼)」にしか見えなかった。しかし、その不気味な白濁ガラスの奥深くでは、脳演算と同期した青白いバイオ・ルミネセンスの光がぼんやりと怪しく揺らめいており、対峙する者に「感情のない冷徹な機械のレンズと向き合っている」という底知れぬ恐怖と威圧感を与えていた。

 このデバイスは、マックにとって生存と企業統治の両面において絶対になくてはならない不可欠な臓器であった。風速30メートルの暴風によって部屋中に舞い散る霜や氷晶、透明なCryo-Mask Σの排気バルブから微量に漏れ出る高圧の薬効ガス、さらには全身や顔周りに塗布されて硬化・剥離を繰り返す極低温のCryo-Gelがメンテナンス時や作業時に眼球へと飛び散り、流れ込むのを完全に物理ブロックして失命や組織壊死を絶対的に防ぐための「最強のアイ・シールド」として機能している。さらに、室内の激しい吹雪やダイヤモンドダストによるホワイトアウトを光学フィルターで物理的に透過・数値化し、完全な視認性を確保する超高度な「全天候型光学センサー」でもあった。

 加えて、このデバイスには「涙が出ないようにする機能(涙液分泌の抑制・完全ブロック機能)」が備わっている。その理由は、過酷な生体環境とデバイスの構造上、絶対的な必然性があったからである。第一に、-15℃の極低温下および毎秒30メートルの強冷風に晒された瞬間に眼球表面の水分(涙)が一瞬で凍結し、無数の微細な氷の結晶へと変わって角膜を内側から傷つけるのを防ぐため。第二に、レンズ表面のナノサイズ解氷グリッドや生体電子回路に水分が流れ込み、電気回路のショートや導電率の異常(システム誤作動・機能停止)を引き起こすのを防ぐため。第三に、マスクの隙間から漏れ出る高圧の薬効ガスやCryo-Gelの微粒子と涙が混ざり合って生じる化学的失明や角膜溶解のリスクを遮断するため。そして第四に、肉体的な苦痛や精神的負荷によって生じる「生理的な涙」や「まばたき」を物理的・電気的にブロックし、世界を冷徹な計算のみで統御するPROTO-TYPE 0にとって不要な生体ノイズを強制的に排除するためである。

 さらには、自らの意志と歪んだ精神状態のもと、72時間に及ぶ危険な不可逆手術を経てこのデバイスを装着・接続したその瞬間から、彼の視界からは温かみのある色彩感覚が完全に奪われていた。感情や生体ノイズを削ぎ落とし、AGBの全システムを脳で直接統御して思考を最適化するため、彼は暖色系を自ら進んで物理的にカット(フィルトレーション)させたのである。その結果、他的な視界のベースは、まるで「昔のモノクロ(白黒)テレビの映像」そのものへと変貌していた。目の前にいる東崎南や幹部たちの姿も、どれほど鮮やかな服を着ていようとも、マックの目にはすべて昭和の白黒テレビ画面のような「黒・灰色・白の濃淡階調(スモーキーなモノクローム)」としてしか映らない。温かい色彩や生の表情という人間的な温もりは一切消え去り、世界は命のぬくもりが根こそぎ奪われた「氷の檻」のように冷え切っていた。

 しかし、その白黒テレビのような無機質な背景のすぐ表面(網膜直近)には、自身のバイタル数値や相手の心拍数、ストレス値、決裁ウィンドウが、冴え冴えとした青白(アイスブルー)や半透明の緑のネオン光のグラフィックとしてクッキリと浮き上がり、重畳投影されていた。この「昔のモノクロテレビのような冷たい映像背景」と「青白く冷たく発光するハイテクデータ」のギャップこそが、彼が自ら選び取ったPROTO-TYPE 0としての絶対的な視覚世界だった。

 目を閉じても、彼に暗闇が訪れることはなかった。まぶたを閉じても網膜のすぐ裏側でバイタルデータや警告表示の残像、青白い光のノイズ(光学的幻覚)がチラつき続ける。そのため、彼には一般的な「夜」や「リラックスする時間」が存在しない。自力で「眠る」「休む」ことが不可能なため、意識を休めるには医療用麻酔ガスや神経麻痺薬の投与、あるいは二週間に一度のCryo-Gel全身交換時の強制的なシステム停止・仮死状態に頼るしかなかった。

 脳幹へ常時過負荷をかけ続けるインプラントの代償として、目の前にいる人間を見ても、そこに肌の温もりや表情のニュアンスは一切映し出されない。視界に広がるのはサーモグラフィのような冷たい階調と、心拍数・発汗量・嘘の判定アルゴリズムを示す数値データの羅列だけだった。他者が「自分と同じ血の通った人間」ではなく、「心拍数が何bpmで動いている肉体の標本」や「制御しやすいデータオブジェクト」としてしか見えないその絶望的な離人症の中で、彼の会話や意思決定はどこまでも冷酷・機械的になっていく。相手が傷ついても、彼にはその感情の機微を色彩や表情として受け取る手段がなかった。

 かつての記憶に対するわずかな郷愁や悲哀を感じたとしても、涙腺が完全に物理・電気ブロックされているため、涙が一滴も流れることはない。まばたきすら抑制されているため、感情のアウトプット(フィードバック)が肉体から完全に遮断され、感情は逃場を失って体内の冷たい思考の奥底へと固着・沈殿していく。日光の暖かさや鮮やかな花の色といった人間の幸福を象徴するものが永遠に失われていることが、彼を「自分は世界から完全に切り離された異形だ」という圧倒的な孤立感へ縛り付け続けていた。

 しかしマックは、これらの副作用や色彩の喪失を「生身の人間としての死」であると同時に、強烈な苦痛(地獄)をも伴うものでありながらも、「思考を極限まで加速させ、絶対的な支配者(PROTO-TYPE 0)であり続けるために支払った必要な代償」として半ば肯定的に受け止めていた。常に頭の奥で響く神経性のノイズや眼精疲労を、彼は「思考を純粋な計算だけに研ぎ澄ませるクリア・ステート」として無理やり脳の奥底へ押し込め、冷徹な計算の海へと沈んでいく。昔の白黒テレビのような冷たい映像と青白いデータの海の中で、彼だけが静かに計算を続けながら、全システムをミリ秒単位で統御し、相手の微小な動揺すらも瞬時に看破していたのである。

 彼が神経インターフェース、視線入力、そして透明なCryo-Mask Σと直結したAI音声合成入力を駆使し、かすかな呼吸の乱れをシステムで補正しながら世界規模の企業を動かしていくなか、他的な網膜上には全社を統御するための膨大な最高機密情報が常時投影されていた。自身の核心体温(CORE TEMP: 20.4℃)や体表温度(SURFACE TEMP: -11.8℃)、Cryo-Gelの導電率(94.2%)、人工心臓の血流圧や薬物(ANESTHERA)の血中濃度といったリアルタイムのバイタル数値、周囲の風速(30.2 m/s)データ、さらには視線の先で対峙する東崎南や科学幹部たちの心拍数・ストレス値・嘘の有無を示す網膜スキャンデータ、世界各地の極秘ラボの稼働率やCEO決裁用承認ウィンドウが、多重情報レイヤーとして他的な冷徹な視界を埋め尽くしていた。

 「欧州部門、第三四半期報告……っ、はあっ……」

透明なマスクの奥で口元がわずかに痙攣し、排気バルブが微かな白煙を吹き出す。重低音のファンノイズを突き抜けて、喉の微動を拾ったマイクから車椅子のAI音声コンバーターが作動し、冷徹で均一な人工合成音声がスピーカーから滑らかに響いた。

『表示します』

 目の前の大型モニターに幾重ものデータが映し出された。それと同時に、他的な瞳に埋め込まれた『Cryo-Vision Σ』のHUD上にも、半透明の緑色に発光する欧州部門の経営マトリクスやCEO決裁用承認ウィンドウがダイレクトに重畳投影された。

白濁した灰色のガラス質のレンズの奥で青白いバイオ・ルミネセンスが激しく明滅し、視界の隅々では絶え間なく過酷な環境データやCEO業務に必要な最高機密ステータスが明滅している。

CORE TEMP: 20.4℃、SURFACE TEMP: -11.8℃、FAN SPEED: 30.2 m/s、CRYOGEL INTEGRITY: 94.2%。

目を閉じても消えることのないデータ表示は、他的な脳幹に常時過負荷をかけ、網膜の隅にチラつくデータ残像や光学的幻覚といった深刻な神経的副作用を引き起こしていた。それでも、統括室を満たすマイナス十五度の極寒の暴風と漆黒のタワーファンが叩きつける冷気の渦がレンズの防凍バイオポリマーと解氷グリッドによって完璧に処理され、吹雪によるホワイトアウトも視覚ノイズとして消去されている。

マックはその冷徹な視野に浮かび上がるCEO業務用情報――欧州統括責任者たちの生体データ(心拍数の微小な高ぶりや発汗によるストレス値)や、承認待ちの全社予算データ――を網膜スキャンと視線入力で一瞥し、相手のわずかな嘘や動揺すらも瞬時に看破していく。

「研究開発費増額案は……承認する。臨床部門予算は維持……」

マスクの奥の微小な息漏れをAIが瞬時に解析し、クリアな合成音声としてシステムへ決裁信号を送信する。

『承認記録を作成しました』

「次……」

そのとき、経営資料の上へ別の表示が重なった。それは彼の眼球に埋め込まれた『Cryo-Vision Σ』の視界内にも、緊急警告ポップアップとして同期してダイレクトに映し出された。視界の四隅が警告色である淡い青白色のフラッシュに変わり、網膜の直近で文字データが浮かび上がる。


TYPE-Σ SCHEDULED MAINTENANCE

07:30

CRYO-GEL FULL BODY REPLACEMENT

LIFE SUPPORT SYSTEM GENERAL INSPECTION


 今日はおよそ二週間に一度行われるCryo-Gel全身交換の日だった。日々の状態確認や小さな亀裂の部分補修とは違う。古い第二の皮膚を全身にわたって区画ごとに剥離し、新しいCryo-Gelへ置き換え、その間に生命維持機器まで総合点検する大規模施術である。順調でも六時間から八時間。状態によっては十時間近くに及ぶ過酷な時間となる。

マックは画面を見つめ、自身のバイタルデータ(心拍数と呼吸統御の数値)がわずかに波打つのを網膜上のグラフで確認しながら、かすかに息を整えた。

「CEO業務を一時停止する……」

透明なマスクの奥からAI合成された静かな音声が部屋に響く。

『確認しました』

視界の端で点滅していたAGBグローバルネットワークの経営データや生体スキャンのレイヤーがスッと後退し、モニターの経営資料とともに静かに消えていった。

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