第12話
物事から逃げることをまるでとんでもない悪事であるかのように語る人がいるが、俺はそうは思っていない。もしそれが立ち向かわなくてはならない問題であったとするならば、今、ぶつかって負けるというのなら一旦引き下がるというのも勝つための手段ではなかろうか。こと、人間関係においてはその事実が当てはまることも多い。全てが全てでないにせよ、感情の暴走というのはごく当たり前に起きうる時間によって解決できる問題なのだ。そんな当たり前なことを今思う。
つまるところ、アメの主張する問題意識を無理に変えようとするのは、今は悪手であるということだ。俺が考えるに、動物園にいる動物たちはその命や生活をないがしろにされている訳ではないし、彼らは彼らの楽しみを持っているかもしれない。そのことを俺たちがとやかく言って、やれ不幸だ、やれ自由がないというのはおかしなことだと考えているが、それを今のアメに言い続けたところで彼女を悲しませてしまうだけだろうと思われた。
であるからして、今は、ひとまず、そのことは外に置いておき、動物園を楽しむべきだ。
「食べ終わったか、行くかー」
「うん」
「なんだ? まだ気にしてるのか?」
ともあれ、簡単に気分を変えるのは難しかろう。想像と違っていたという事実は間違いないようだし……。となると、どうするか。俺は、考えた。そして、思いついた。
「あ、これ見にいかないか?」
指さしたのはキリンのところ。実はこのキリン、お昼過ぎの時間帯に餌をあげることができるのだ。動物園にはよくあるサービスではあるが、アメにとってはとても新鮮であろう。
「うん」
未だに落ち込んでいる様子のアメであったが、俺は半ば強引にアメの手を引き、意気揚々と歩き出す。
少し歩くと、わいわいと人だかりが出来ているところがある。キリンがいる辺りだ。
「よーし、あれ、並ぶぞ」
「……?」
首を傾げるアメであった、しかし、次の瞬間、アメは足を止めてしまう。
「ん、どうした?」
「あれ、あれ!」
アメはどうやら、しょんぼりしきって足を止めてしまったのではないようだった。アメが指さす先にいるのは、二頭のキリンだ。広いスペースに野放しにされている二頭のキリンは、のそのそと歩き、徐々に、客たちの近くへと近づいてきているようだった。
「あれだぞ、キリン! でかいなぁ~」
当たり前のことを言う。すると、客たちが集まる中心にいた飼育員が話し始める。
「それでは、今から、キリンのおやつをあげたい方の募集をします~」
周りにいる子供たち数名がはいはいと手を上げている。元気な光景である。ん。
「あれ」
いない。隣にいたアメがいない。どこいったんだ! いや、いるわ! 目の前に!
「はい、はい!」
何と驚くべきことに、子供たちに混ざって軍服もどきの服を着た小さな女の子が一人、手を上げているではないか。いつの間にそんなに元気になったんだと突っ込む暇さえなく、アメの気力は全回復しているようであった。まぁ、確かに、さっきの肉食獣たちと違って、囚われている感が薄いには薄いが……それでいいのか、アメよ。
「は~い、皆元気ですね~。じゃあ、ここにいる人たち皆におやつをあげてもらおうかな~」
統制力の高い飼育員お姉さん。子供たちは、やったー、と各自が喜びの声を上げる。小学生や中学生に混ざっているアメであるが、低身長が幸いし、なんとか、ギリギリ、いや、ダメ、どうみても、お姉さんだ、飛びぬけてお姉さんだ。しかし、ここは優しい世界。誰もアメのはしゃぎっぷりに突っ込みを入れる人はおらず、どうやら無事受け入れられているようだった。
「じゃあ、その前に、皆にキリンさんについて勉強してもらおうかな~」
勉強という言葉に、一部の子供たちは、えー、と少々不満げな声を上げるが、それにお姉さんはにっこりと笑顔を返す。慣れている。
「この子二人はアミメキリン、っていいます。名前の通り、体には網目状の模様があるね。この子たちは、ここでは木の葉っぱやくだものをあげてるの。ほら、あそこに葉っぱが入ったバケツみたいなのがつりさげられているでしょ? それを自由に食べることができるようにしてあるの。さて、このキリンさん、主に首が長いのと、もう一つ、とーっても長いものがあるんだけど、何か分かるかな?」
ほのぼのした雰囲気だ。俺は、エサやりには参加せず、黙って後ろで保護者のふりをして見ているが、一緒に考えてみる。考えても分からないものは分からない。
「足!」
「顔!」
「手!」
さすが子供たちだ。いや、足とか見えてるじゃん、顔長くなくね、手ってどこだよ、という俺みたいな大人が感じる疑問をものともせずに、各々が思ったことをスバスバいってのける。
「うーん、惜しいな~。答えは~、この後すぐに分かるよ!」
引きつけるのもうまい。なるほど、なんとなく俺には答えが見えてきたが、ここで、はいはーい、分かりましたー、といって入っていく訳にもいかないので、ここは黙ってエサやりを見つめていることにしよう。
「はい、じゃあ、順番に並んでください~。最後までエサはあるから、慌てなくても大丈夫だからね」
そうはいっても子供たちは我先にとみるみる内に列を作っていく。ぼんやりしていると取り残されてしまうぞ、アメ、と声をかける間もなく、そもそも列が何なのか分かっているかさえ怪しいアメは一人ポツンと取り残されてしまう。
「おい、ほら、アメ、一番後ろに並ぶんだ」
俺が声をかけると、なんだか泣きそうな顔になりながら一番後ろに並ぶ。大丈夫だ、そんな顔しなくても、最後までエサあげさせてくれる、って言ってたから。
まず一人目の子供に、お姉さんが棒を手渡す。その棒の先に、お姉さんが何かをつける。
「はい、この棒を差し出して、キリンさんにあげてね~」
リンゴだ。果実を食べる、といっていた。
キリンは、エサが貰えることを分かっているのだろう。子供が棒を差し出すまでもなく、その長い首をグイと伸ばして柵の近くへと顔を近づける。すぐそこにキリンの顔があるのだ。その迫力はなかなかのものだろう。
子供は、おぉー、とか、すげぇー、だとか言いながら、手にしている棒をキリンの顔へと近づける。次の瞬間、ぎゅるん、とキリンの口から舌が出る。
「ながーい!」
アメだけでなく、子供たちが声を上げる。そう、お姉さんが、首の他にもう一つ長いものがあるといっていた答えはこれだったのだ。その長い舌を、リンゴのかけらに巻き付けるようにしてくるりと包み込むと、軽く棒から外し、口へと運ぶ。もご、もご、とアゴが動き、リンゴを咀嚼しているのが分かる。
「はーい、じゃあ、次の子は、隣のキリンさんにあげてね~」
次、次、と子供たちの棒の先にリンゴが差し込まれ、それらがキリンの口へと運ばれていく。なるほど、楽しいじゃないか。見ているだけではわからないが、キリンがリンゴどれくらいの力で引っ張るのかということも多少なりとも伝わってくるだろう。直接触れ合うという訳にはどうしてもいかないだろうが、それでも、これだけ近くでキリンの食事が見られるというのは面白い。もごもごと動いている口を見ているだけなのに、何故か興味深い。見た事がないものを見るというのは面白いものなのだ。
さて、子供たちのエサやりが終わり、最後にいよいよアメの番。勿論、リンゴのストックはなくなることなく、緊張しているアメの持つ棒に、お姉さんがリンゴをつけてくれる。
「……む、むむ」
しかし、アメは、棒をキリンに近づけようとしない。怖い目つきで、エサをねだってくるキリンを恐れるかのように睨みつけている。恐怖を覚えているのだろう。アメの前に何人もの小さい子がエサをあげていたのだから、そんな感情を抱く必要なんてないのに。でも、恐れてしまうのは仕方がないし、アメは今一歩踏み出せないでいた。
「はい、大丈夫だよ、そのままあげてね~」
まるで小さい子を諭すようにお姉さんが話しかけてくれるが、それでもなお、アメは動こうとしない。キリンとにらめっこだ。キリン側にしてみたら、何やってんだ、この人間、早くリンゴくれよ、といったところだろうか。
このままでは拉致があかない。そう感じた俺は、ふぅ、と一つ小さく息をつくと、アメの隣へと近づいた。
「ほら、何も怖くないから」
アメと一緒に棒を持って、棒をキリンへと近づける。若干のアメの抵抗を感じつつも、アメの体ごと棒はキリンへとじりじり近づいていく。
「~~~っ!」
声にならない悲鳴を上げつつも、決して目を閉じることはせず、棒とキリンを注視しているアメ。そんな緊張も虚しく、キリンは何事もないかのように、優雅に舌をべろりと出して、リンゴを棒から引き抜きスルリと口へ入れる。もご、もご、とリンゴを食べるキリン。そんな咀嚼の様子を見る俺とアメ。
ちらとアメの様子を伺う。そこには、満面の笑みで、キリンを見つめているアメがいた。最初は怖いと思っていたのだろうが、全くそんなことはなかったのである。そして、きっと、自分でキリンにエサをあげれたことが嬉しく、楽しかったのだろう。
「はーい、ありがとうございました~。これでエサやりは終わりです~。皆、集まってくれてありがとうね!」
アメが、ふぅ、と一息つく。
「動物園、初めてなんですか?」
子供たちがほとんどその場からいなくなった後で、バケツや棒の片づけをしていたお姉さんが俺とアメに問うてくる。正しくは、アメが、初めてか、ということだろう。
「あー、ええ、そうなんです、えっと」
「北日本の方、ですよね?」
ギクリ、とした。何で分かるんだ、と戸惑う。もしかして、ここには北日本の監視員でもいるのか、もしやもしや、アメを監視している人間がいて、それがこの陽気なお姉さんだというのか、そんな馬鹿な、あり得ない、と訝るが、どうやら、やっぱり、そうではないらしい。
「あ、いえ、別に、北日本の人だからとって、どうだという訳じゃないんですよ! ただ、なんとなく分かるんです、ほら、ここって北日本から一番近い動物園なので、北日本の観光客の人も結構来るんです」
俺は、少しホッとする。
「俺は違うんですけどね、こいつが、その、はい」
「そうなんですね! へぇ~、えっと、ではでは、残りの時間も楽しんでいってください!」
お姉さんがそう言って立ち去ろうとした時、
「あの」
アメがそのお姉さんを呼び止める。首を傾げ、言葉を待つお姉さんに、アメは、思わぬことを聞く。
「ここの動物って、その、幸せなんですか?」
いきなりの質問だった。
「あ、ええーと、あの、いいんです! こいつ、ちょっと、変なこと考えがちっていうか」
俺が慌てて止めに入ろうとしたが、そんな俺をお姉さんは微笑みを向け一瞥すると、アメを見て言った。
「うーん、それは、私には分からないなぁ~。でもね、私は、この子たちが好きだし、お世話するのは楽しいよ~」
その答えを聞き、アメはきょとんとしていたが、俺が一言お礼を言うと、お姉さんは、いえいえ、といって相変わらずの笑顔で去っていった。残された俺とアメ。
「まだ、気にしてたのか、あのこと」
「そりゃあ、そう」
「そりゃ、そうかぁ」
アメという女の子が一体何を考えているのか、俺にはあまり深くは理解しかねたが、それは、俺がキリンが何を考えているのか推測するようなもんだと思ったから、仕方ないことなのかなと思った。
「キリン、迫力あった!」
唐突に変わる話題に少し戸惑いつつも、
「確かになー」
と返す。キリンは、もうここにエサを与えてくれる人がいないということを理解したのか、柵から距離を話、ぶら、ぶら、と歩いている。食べているのを見るのも面白かったが、こうして、ただ歩いているだけの姿を見るのもまた面白い。そして、歩いている姿を見て、思った。
「……わかんねーよなー」
「何が?」
「ほら、お姉さんも言ってたろ。キリンが幸せかどうか、キリンが自由かどうかなんて、わかんねーよな」
「……そうかも、しれない」
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。その答えを持っているのは間違いなくキリンだけなのだ。それを今、何がどうだととやかく言う必要はないんじゃないだろうか。
お姉さんが言ってたことは、特別で尊いことなんかじゃなくて、ただ当たり前で、一つの真実なんだろうと感じていた。少なくとも、この時、この俺は。




