第九章 母の記憶
春。
セシリアは半年ぶりに公国へ帰った。
エレオノーラは娘を迎えた時、すぐに何かが変わったと気づいた。
「痩せましたね」
「母上ほどではありません」
「昔の話です」
二人は庭を歩いた。
独立戦争の後に植えられた楡の木が、今では高く枝を伸ばしている。
セシリアはしばらく黙っていた。
「母上」
「何です」
「王太子殿下は、祖父を反逆者だと思っています」
エレオノーラの歩みが止まった。
それだけだった。
「そう」
「怒らないのですか」
「二十年、そう教えられてきたのでしょう」
「ですが」
「あなたが生まれてから、公国で何を教えましたか」
セシリアは答えなかった。
「王国軍が侵攻した。祖父は最後まで和平を求めた。公国は自衛のために独立した」
「事実です」
「ええ」
エレオノーラは歩き出した。
「けれど、それだけを教え続ければ、私たちもいつか、王国人は皆愚かだったと思うようになる」
「母上は違うと?」
「王国側にも、戦争を止めようとした人はいました。国王陛下もその一人です」
父の友人だった老王を思い出しているのだろう。
エレオノーラは遠くを見た。
「人は、後から歴史を見ると簡単な話にしたがります。正しい者と間違った者。被害者と加害者。それなら覚えやすいから」
「実際には?」
「誰かが一度間違え、その間違いを認めるより次の間違いを重ねる方が楽だった。それが何十回も積み重なって、最後には誰にも止められなくなった」
セシリアは母を見た。
「母上は、今も王国を憎んでいないのですか」
「憎んだことはあります」
即答だった。
「戦争中は毎日のように」
エレオノーラは少し笑った。
「だから、憎しみが国家の判断になってはいけないことも知っています」
セシリアが王都へ戻る前日。
母は一冊の古い帳面を渡した。
ヴィクトール公王の日記だった。
「これは?」
「お祖父様が戦争中につけていたものです」
「読んでも?」
「そのために渡します」
セシリアは表紙に指を置いた。
「王太子殿下にも?」
エレオノーラは少し考えた。
「あなたが必要だと思うなら」
娘は頷いた。
その夜。
セシリアは日記を読んだ。
そこには英雄の言葉はなかった。
迷い。
後悔。
死者数。
食糧不足。
国王への何通もの手紙。
娘を守ろうとしたことが間違いだったのではないかという記述さえあった。
最後の方に、一文だけ強く線が引かれている。
――我々は今日勝ったのではない。戻る道を一つ失っただけだ。
セシリアは本を閉じた。
王都へ持っていこうと思った。
しかし、結局、その日記がユリウスに読まれることはなかった。




