第十章 婚約の意味
王国暦四百三十六年。
和平交渉開始から三年。
正式な王公友好条約の調印日が決まった。
それに伴い、セシリアとユリウスの結婚も翌年に予定された。
公国側では祝賀ムードが広がった。
国境軍の一部解散も始まった。
長年兵士だった者が農村へ戻り、空いた砦の一部は税関施設へ転用された。
王国側でも商人や都市住民の多くは和平を歓迎した。
だが王宮では、別の流れが強くなっていた。
アレクシス王は高齢となり、病床にいる時間が増えた。
国政の中心はユリウスへ移りつつある。
そして、そのユリウスを取り囲むのはヴァレリー侯爵を中心とする一派だった。
「条約を締結すれば、西方領への権利を永久に放棄することになります」
「停戦条約で既に独立を認めている」
「祖父君の時代です」
「王家が署名したものだ」
「間違った条約を、子孫まで守る義務がありましょうか」
ユリウスは黙っていた。
以前なら即座に否定したかもしれない。
今は違った。
「公女との婚姻を利用し、公国を再び王国へ戻す方法もございます」
別の貴族が言った。
ユリウスは顔を上げた。
「どういう意味だ」
「殿下と公女の間に子が生まれれば、その子は双方の継承権を持つ」
その場が静かになった。
「公国を併合せよと言うのか」
「本来、一つの国だったのです」
その理屈は、妙に耳に残った。
一方、セシリアは王太子の変化を明確に感じ始めていた。
会議で公国側の提案に必要以上に反論する。
国境軍撤退の時期を遅らせる。
そして、ヴァレリー侯爵家のイザベルと過ごす時間が増えた。
ある夜。
セシリアはユリウスに尋ねた。
「婚約を後悔しておられますか」
王太子は驚いた。
「突然、何を」
「最近の殿下を見ていれば」
「君は何でも政治に結びつける」
その言葉に、セシリアは口を閉じた。
ユリウスも気づいたようだったが、謝らなかった。
「私たちの婚約は政治ではないのですか」
「そういう意味ではない」
「では、どういう意味でしょう」
答えがなかった。
二人の間に長い沈黙が落ちた。
「私は」
セシリアが先に口を開いた。
「殿下を愛している、と申し上げたことはありません」
ユリウスの表情が強張った。
「ですが、信頼していました」
「過去形か」
「そうならないようにしたいと思っています」
彼女は立ち上がった。
「私たちは、二十年前の戦争を終わらせるために婚約したはずです」
扉へ向かう。
「セシリア」
呼ばれて振り返った。
「君は」
ユリウスはそこで言葉を止めた。
公女なのか。
婚約者なのか。
それとも、公国の使者なのか。
彼自身にも、何を聞こうとしたのか分からなかった。
「何でしょう」
「……いや」
セシリアは一礼して部屋を出た。
その夜、彼女は母へ手紙を書いた。
最後の一文に、こう記した。
――母上。私たちはようやく、二十年前を乗り越えられると思っていました。
書いた後。
セシリアは「いました」の三文字を長く見つめた。




