第六章 二つの教科書
セシリア・アルヴェインが初めて王都リューデンを訪れたのは、二十一歳の春だった。
母が二十年前に去った都。
祖父が最後まで帰ることのなかった都。
馬車の窓から見る街並みは、母から聞いていたものよりも古びて見えた。
城壁は高く、王宮は今も巨大だった。
だが、大通りの石畳には補修されぬ亀裂が目立ち、郊外の水路には泥が溜まっている。
それでも王国の首都だった。
人口は公国領都の三倍近い。
長い歴史の重みは、二十年程度では失われない。
セシリアがここへ来た理由は、和平交渉だった。
公国と王国は戦争こそしていなかったものの、正式な和平条約は停戦条約以降ほとんど更新されず、国境では高い関税が課されていた。
双方とも利益を失っていた。
王国側から関係改善を提案してきたのは、一年前だった。
そして交渉の象徴として持ち上がったのが、
王太子ユリウスと公女セシリアの婚約だった。
母エレオノーラは最初、反対した。
「政治のために娘を差し出すつもりはありません」
公王である父も同意した。
しかし、セシリア本人が受け入れた。
「私が嫌なら断っていいのですよ」
出発前夜。
母はもう一度言った。
「はい」
「本当に」
「分かっています」
セシリアは母の手を取った。
「母上も、二十年前に誰かからそう言ってもらえたら、違ったでしょう」
エレオノーラは何も答えなかった。
「私一人の結婚で、国境から兵を減らせるなら」
「結婚は、それだけで決めるものではありません」
「王族の結婚は、昔からそういうものだったでしょう」
「だからと言って、あなたまで」
「母上」
セシリアは笑わなかった。
「私は王国に嫁ぎたいのではありません。戦争が起こらない未来へ嫁ぎたいのです」
母は娘を見た。
二十年前の自分より、少し強い目をしていると思った。
王都で、セシリアは初めて王太子ユリウスと会った。
二十二歳。
背が高く、軍学校を優秀な成績で卒業した青年だった。
礼儀正しい。
少なくとも最初は。
「長旅、お疲れでしょう」
「お気遣いありがとうございます」
「王都は初めてですか」
「はい」
ユリウスは少し迷った後、尋ねた。
「母君は?」
「二十年ぶりになるから行かない、と」
青年の表情がわずかに曇った。
「……そうでしたか」
彼は過去について知っている。
しかし、それはセシリアが知る過去と同じではなかった。
二人がそれに気づいたのは、婚約式から一か月ほど後だった。
王立学院を訪問した時のことだった。
歴史教室で、セシリアは一冊の教科書を手に取った。
第一次王公戦争。
見慣れた言葉だった。
しかし、その下に続く文章は違った。
――王太子妃の地位を失った娘の処遇に不満を抱いたアルヴェイン公爵ヴィクトールは、王命を拒絶し兵を挙げた。
セシリアはしばらくページを見つめていた。
「どうかしましたか」
隣のユリウスが尋ねた。
「公国では、違うのです」
「何が」
「戦争の始まりです」
青年は教科書を見た。
「これは王立史料院の正式な記録に基づいています」
「公国にも記録があります」
「もちろん、そちらにはそちらの見方があるでしょう」
何気ない一言だった。
だが、セシリアは教科書を閉じた。
「殿下は、アルヴェイン家が反乱を起こしたと思っておられるのですね」
「思うというより、そう教わりました」
「私の祖父は、王国軍が越境してくるまで一度も王家への忠誠を撤回していません」
「それは公国側の記録でしょう」
「はい」
「ならば、双方の記録を照らし合わせればいい」
ユリウスは悪意なく言った。
セシリアは少し驚いて彼を見た。
「そうしてくださいますか」
「婚約者の祖父を、一方的に反逆者だと思ったまま結婚するのも妙でしょう」
その時、セシリアは初めて、彼との結婚は案外うまくいくかもしれないと思った。
その期待が、後になって最も重い記憶となる。




