第三章 国境の向こう
アルヴェイン公爵領は、王国の西から北西にかけて広がっていた。
王都から馬車で十日。
王国最大の河川であるレーネ川の下流域を押さえ、北には鉄鉱山、西には海へ通じる港を持ち、南部の平野は王国でも屈指の小麦産地として知られている。
四百年前、王国建国に加わったアルヴェイン家の祖先へ与えられた土地は、代々の婚姻と開拓、戦争によって拡大し、一つの小国に匹敵する規模となっていた。
それでも、この地の人々は自分たちを王国人だと思っていた。
ヴィクトールも同じだった。
領都へ戻った翌日から、彼は軍ではなく行政官を集めた。
王都への穀物出荷を続けること。
関所で王国商人を妨害しないこと。
領内にいる王家直属官吏へ危害を加えないこと。
そして、兵を勝手に動かさないこと。
「こちらから口実を与えるな」
公爵は繰り返した。
しかし王都では、アルヴェイン領が軍備を増強しているという報告が上がった。
実際には例年の夏季訓練だったが、王太子派の者たちは違う意味を与えた。
「反乱準備です」
王国議会で若い伯爵が断言した。
「公爵は王都から逃げ、領内で兵を集めています」
国王は否定した。
しかし、病を得ていたレオポルトの政治力は以前ほど強くなく、何より王太子自身が父の判断へ公然と反発するようになっていた。
「父上はヴィクトールを信じすぎています」
「私は四十年、あの男を知っている」
「だからこそ欺かれているのです」
その会話から三か月後。
王国政府は公爵領の国境に三千の兵を配置した。
名目は治安維持だった。
ヴィクトールは対抗措置を取らなかった。
さらに一か月後。
五千となった。
それでも動かなかった。
そして秋。
王都から、一通の命令書が届いた。
アルヴェイン領内の主要都市へ、王国軍一万二千を駐留させる。
兵糧と宿営地は公爵家が提供する。
王国軍は公爵領軍の武器庫を監査する権利を持つ。
ヴィクトールはその文面を三度読んだ。
側近たちは誰も口を開かなかった。
「これは」
長い沈黙の後、軍務卿が言った。
「武装解除と同じです」
「分かっている」
公爵は命令書を机へ戻した。
エレオノーラもその場にいた。
「受け入れれば、戦争にはならないのではありませんか」
父は娘を見た。
「一度はな」
「一度?」
「一万二千の王国軍を主要都市へ入れ、武器庫の位置を知らせる。次に何を要求されても、我々には拒む力がなくなる」
「それでも」
「エレオノーラ」
ヴィクトールは静かに遮った。
「私は王に仕える臣下だ。だが同時に、この領地の領主でもある」
窓の外には領都の屋根が並んでいた。
「ここには七十万を超える人間が暮らしている。王宮の都合で、その全員の首を差し出すことはできない」
回答期限は十日。
ヴィクトールは八日目に返書を出した。
王国軍の駐留を拒否する。
ただし王家から監察官を受け入れ、軍備状況の確認には応じる。
同時に国王への忠誠を改めて表明する。
妥協案だった。
王都では、拒否の二文字だけが強調された。
十一月初頭。
アルヴェイン公爵ヴィクトールに対し、「反逆の疑いあり」との王命が発せられた。
まだ反逆者ではない。
だが、その二日後には王国軍二万が国境を越えた。
ヴィクトールは領都の軍議室で、その報告を受け取った。
「先頭部隊は?」
「第三王国騎兵団です。国境守備隊へ武装解除を命じています」
「こちらは」
「拒否しております。まだ戦闘には至っていません」
公爵は立ち上がった。
壁に掲げられた王国地図の前まで歩いた。
その地図に、アルヴェイン領と王国の境界線はない。
同じ国だからである。
ヴィクトールは長くそれを見ていた。
「父上」
背後からエレオノーラが呼んだ。
「……まだ戻れますか」
「分からん」
それが、父が娘へ初めて口にした弱い言葉だった。
翌朝。
国境近くの砦で、王国兵と公爵領兵の間に小規模な衝突が起きた。
矢を最初に放ったのがどちらだったのかは、後世まで分からなかった。
十二人が死んだ。
王国兵七人。
公爵兵五人。
王国四百年の歴史を裂くには、それで十分だった。




