第二章 父の答え
アルヴェイン公爵ヴィクトールは、娘の話を最後まで遮らなかった。
王都にある公爵邸の書斎は、夜半を過ぎても灯りが消えず、机の上には夜会から帰ってきたエレオノーラが外した銀の髪飾りが置かれていた。
ヴィクトールは五十歳を超えたばかりで、王国でも古参の重臣の一人だった。
三代の王に仕えた。
現王レオポルトとは少年時代から知り合い、若い頃には同じ戦場で肩を並べたこともある。
アルヴェイン家は王家に次ぐ広大な領地を持つが、その権勢の多くは代々の王に仕えることで築いたものだった。
エレオノーラが話し終えると、長い沈黙が落ちた。
父は机の上で両手を組んだまま、しばらく何も言わなかった。
「父上」
「婚約を戻してほしいか」
思いがけない問いだった。
エレオノーラは答えるまでに少し時間を要した。
「いいえ」
「十年だぞ」
「だからこそです」
彼女は膝の上で指を重ねた。
「十年の最後が、あのような形だったのです。今さら元に戻されても、以前と同じようにはできません」
ヴィクトールは目を閉じた。
娘の答えを聞いて安堵したのか、別のことを考えているのか、エレオノーラには分からなかった。
「そうか」
「申し訳ありません」
父は目を開いた。
「何を謝る」
「私のために、家に迷惑を」
「違う」
言葉は静かだった。
だが、エレオノーラは口を閉じた。
「お前が誰と結婚するかという話なら、私は怒りはしても、国王陛下と酒でも飲みながら話をつけた。王太子殿下が別の女を愛したというのなら、それも人の心だ。十年を無駄にされたことについて拳の一つも振るいたくはなるだろうが、それで国は揺れん」
ヴィクトールは椅子から立った。
窓辺まで歩き、暗い王都を見下ろした。
「だが、殿下は大勢の諸侯と外国使節の前で、お前を罪人のように扱った。そして、王と公爵の間で交わされた取り決めを、次期国王である自分の判断一つで破棄できると言った」
「……はい」
「これはもう、お前と殿下の問題ではない」
翌朝。
ヴィクトールは王宮へ赴いた。
要求は四つだけだった。
エレオノーラへの虚偽の告発を撤回すること。
王太子が公式に名誉回復を宣言すること。
嫌がらせの事実があったかどうか調査を行うこと。
そして婚約解消自体は受け入れること。
王は、そのすべてを受諾する意向を示した。
「すまなかった」
国王レオポルトは執務室で、長年の友人に頭を下げた。
「息子のしたこととはいえ、王家の責任だ」
「陛下がお謝りになることではありません」
「いや」
王は首を振った。
「公の場で行われたことだ。公の場で正さねばならぬ」
この時点で問題が終わっていれば、その後の歴史は大きく違っただろう。
しかし、王宮には王だけがいるわけではなかった。
王太子を支持する若手貴族。
公爵家の権力を以前から快く思っていなかった大臣。
アルヴェイン領の豊かさを妬む諸侯。
彼らにとって、公爵の要求は別の意味を持った。
「王太子殿下に謝罪を要求した」
その一言だけが、宮廷を走った。
「公爵が王家を屈服させようとしている」
翌日にはそう変わり、
「アルヴェイン公爵は娘を王妃にできなければ王家へ従わぬと言っている」
三日後には、そこまで形を変えていた。
ヴィクトールは噂を耳にしても、しばらく何もしなかった。
長い宮廷生活の中で、噂は放っておけば消えることも知っていたからである。
だが、一週間後。
王太子派の大臣によって、アルヴェイン公爵家が王都に保有していた一部倉庫の監査命令が出された。
続いて公爵領から王都へ入る穀物に追加検査が課された。
さらに、公爵家に近い二人の官僚が突然地方へ転任させられた。
小さな出来事だった。
一つ一つならば。
だが、ヴィクトールは長年政治の中にいた。
ばらばらに見える出来事が、同じ方向へ動き始めた時、それが偶然でないことを知っていた。
十日後。
彼は領地へ帰ることを決めた。
王都を発つ朝、国王が自ら公爵邸へやって来た。
「ヴィクトール」
「陛下」
「少し時間をくれ」
公爵は答えなかった。
「アレクシスを説得する。議会も私が抑える。だから領地へ帰っても、早まった真似だけはしないでくれ」
「私は反乱など考えておりません」
「分かっている」
王は言った。
だが、その声には、自分自身へ言い聞かせるような響きがあった。
ヴィクトールは馬車へ乗り込む前に、長年仕えた王宮を見上げた。
「私も、そうありたいと思っております」
馬車が動き出す。
エレオノーラは向かい側の席に座り、窓の外へ流れていく王都の街並みを見ていた。
「父上」
「何だ」
「戦争になるのでしょうか」
ヴィクトールはすぐには答えなかった。
街道の両側には朝市の準備をする人々がいた。
兵士でも貴族でもない。
婚約にも政治にも関係のない人々だった。
「ならぬようにする」
やがて公爵は答えた。
「そのために帰る」
エレオノーラは頷いた。
その言葉を信じたかった。
おそらく父自身も、そう信じていた。




