第一章 建国祭の夜
王国暦四百十二年、初夏。
王都リューデンの夜は、無数の灯火によって昼よりも明るく照らされていた。
年に一度の建国祭、その最後を飾る大夜会が王宮の白亜宮で開かれ、王国に爵位を持つ家々の当主やその子弟、外国から招かれた使節までが、磨き上げられた大理石の大広間に集っていた。壁際には季節の花が隙間なく飾られ、天井から吊るされた硝子の燭台には数百本の蝋燭が灯されている。
エレオノーラ・アルヴェインは、その中央近くに立っていた。
二十二歳。
王国最大の諸侯であるアルヴェイン公爵家の長女であり、十二歳の時から王太子アレクシスの婚約者だった。
濃紺のドレスは華美ではなかったが、胸元と袖口に公爵家の紋章である銀樹を象った刺繍が施されている。宝石も最小限であり、王太子妃となる者として目立ちすぎず、それでいて軽んじられぬ装いを選ぶことは、長い王妃教育の一部として身についた習慣だった。
十年間。
彼女は王太子の隣に立つことを当然の未来として生きてきた。
それは少女らしい夢というより、仕事に近かった。
領地経営、租税、王国法、外交儀礼、軍制、外国語、神学、歴史、宮廷作法。朝から夜まで続いた教育について、恨みを持ったことはない。
いつか王妃となるのであれば必要なことなのだと、そう考えていた。
アレクシスを愛していたのかと問われれば、エレオノーラ自身にも簡単には答えられなかった。
幼少期から隣にいた。
癇癪を起こした少年時代も、初めて馬から落ちて腕を折った日も、軍学校へ入る前日に不安を隠しながら強がっていた夜も知っている。
家族ではない。
恋人とも少し違う。
だが、未来を共有する相手であることだけは疑ったことがなかった。
だから、広間の奥に設けられた数段の壇上へアレクシスが進み、人々に音楽を止めるよう命じた時も、エレオノーラは何か公的な発表があるのだと思っていた。
楽団の音が途切れた。
人々の話し声も、遅れて静まった。
アレクシスは王太子を示す白い正装に身を包み、その隣には一人の令嬢を伴っていた。
リディア・フェルマー伯爵令嬢。
十八歳。
数か月前から宮廷で王太子と親しいと噂されていた娘である。
エレオノーラは噂を知っていた。
だが、問い質したことはなかった。
王太子には王太子の交友があり、自分には口を出すべき領分とそうでない領分がある。それだけのことだと思っていた。
壇上で、アレクシスが彼女を見た。
「エレオノーラ・アルヴェイン。前へ」
広間に集った視線が、一斉に動いた。
エレオノーラは手にしていた扇を閉じ、ゆっくりと歩き出した。
人々の間を通るあいだ、誰も言葉を発さなかった。
壇の前まで進み、裾を整え、一礼する。
「殿下、お呼びでしょうか」
「ああ」
アレクシスは一度リディアを見た。
その仕草だけで、エレオノーラには次に何が続くのか、ぼんやりと分かった。
しかし、分かったからといって、その場から去ることはできない。
「私は今夜、この場を借りて明らかにしておくことがある」
アレクシスは広間を見渡した。
「エレオノーラ・アルヴェイン。私は、そなたとの婚約を破棄する」
遠くで誰かが息を呑む音がした。
エレオノーラは目を伏せなかった。
十年間という時間が、胸の奥で音もなく崩れていくように思えたが、それを顔に出してよい場所ではなかった。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「そなたは長年、公爵家の権威を盾に私の行動を束縛し、リディアに対しても執拗な嫌がらせを行った。将来の王妃として、到底ふさわしいとは思えぬ」
エレオノーラは、リディアを見た。
少女は王太子の袖を握り、俯いている。
「フェルマー伯爵令嬢」
呼びかけると、リディアの肩がわずかに揺れた。
「私があなたに嫌がらせをしたとのことですが、具体的には、いつ、どこで、何をしたのでしょう」
「その必要はない」
答えたのはアレクシスだった。
「彼女をこれ以上追い詰めるな」
エレオノーラはしばらく彼を見つめ、それから静かに息を吐いた。
「分かりました」
その一言に、アレクシスの表情がわずかに緩んだ。
抵抗も泣き叫びもしないのなら、この場は自分の望んだ形で終わると考えたのかもしれない。
しかし、エレオノーラは続けた。
「では、一点だけ確認いたします」
「何だ」
「この婚約は、十年前、陛下とアルヴェイン公爵家当主である父との間で正式に締結され、その後、王国議会にも通知されたものと承知しております」
「ああ」
「婚約破棄について、陛下のご裁可は得ておられますか」
アレクシスの口元から笑みが消えた。
広間の空気が変わった。
「私の婚約だ」
「はい」
「ならば私が決める」
「殿下個人の恋愛であれば、私もそのように考えます。しかし、この婚約には王家と公爵家との間で交わされた複数の取り決めが付随しております」
「エレオノーラ」
「それらもすべて破棄されるという意味でしょうか」
アレクシスの頬がわずかに赤くなった。
大勢の前で、自分の決定に疑問を差し挟まれたことが気に入らないのだと、エレオノーラには分かった。
「次の国王となるのは私だ」
彼は言った。
「これは私の決定だ。父上が何と言おうと変わらぬ」
広間の奥で、一人の老人が立ち上がった。
現国王レオポルト三世だった。
その顔から血の気が引いている。
「アレクシス」
低い声が、広間を横切った。
王太子は振り返った。
王は何かを言おうとした。
だが、その前にエレオノーラが深く頭を下げた。
「承知いたしました」
そして、壇上の二人にはもう目を向けず、王に一礼した。
「陛下。長年にわたり賜りましたご厚情に御礼申し上げます」
「エレオノーラ、待て」
「父に報告しなければなりません」
彼女はそれだけ言い、背を向けた。
広間を横切る道が、先ほどよりはるかに長く感じられた。
誰も声をかけなかった。
誰も止めなかった。
扉の前まで来た時、エレオノーラは一度だけ足を止めた。
十年前、婚約が決まった日も、この広間だった。
十二歳の彼女と十三歳のアレクシスは、互いにぎこちなく頭を下げ、大人たちの笑い声に包まれながら手を握った。
あの時と同じ床。
同じ柱。
同じ王家の紋章。
違うのは、そこにいた少年と少女だけだった。
エレオノーラは扉を抜けた。
その瞬間にはまだ、誰一人として知らなかった。
この夜の一言が、四百年以上続いた王国から最も豊かな領土を切り離し、数万人の命を奪う戦争へつながることを。
そして二十年後。
まったく同じ広間で、同じ言葉がもう一度繰り返されることを。




