第8話「許しと帰還は、別のものでした」
王宮の門をくぐるのは、これが初めてだった。
デビューで華やかに登場するはずだった場所に、ベアトリーチェは一人で来た。ドレスは地味な紺色。髪も簡素にまとめただけ。社交界の令嬢としてではなく、謝りに来た人間として。
取り次ぎの侍従に名前を告げると、少し待たされた。待っている間、中庭が見えた。手入れの行き届いた花壇と、白い石のベンチ。陽光が柔らかく差している。ここが今、あの人の場所なのだ。
エーリカが現れた時、ベアトリーチェは息を呑んだ。
変わっていた。
髪の色は同じ薄い亜麻色。背の高さも、控えめな顔立ちも変わらない。けれど纏っている空気が違った。伯爵家にいた頃のエーリカは、いつもどこか縮こまっていた。声を小さくし、目を伏せ、自分の存在を薄くしようとしていた。
今、中庭に立つエーリカは——まっすぐだった。
背筋が伸びている。目がこちらを見ている。穏やかだが、怯えていない。三年間、ベアトリーチェの前では決して見せなかった顔。いや——見せられなかった顔だ。あの家にいる限り、この人はずっと縮こまっていなければならなかった。
「ベアトリーチェさん」
名前を呼ばれた。
あの人の口から、自分の名前を聞いたのは初めてだった。伯爵家では「お嬢様」と呼んでいた。丁寧で、距離のある呼び方。今は「さん」付け。他人の距離だが、名前で呼んでいる。
「お久しぶりです。お元気でしたか」
エーリカの声は穏やかだった。敵意も、恨みも、皮肉もない。ただ——三年前に嫁いできた時のような、遠慮もなかった。
ベアトリーチェは中庭のベンチに案内された。向かい合って座った。エーリカがお茶を頼む声が聞こえた。他人の家ではなく、ここが自分の場所であるように振る舞っている。
本題を切り出さなければ。何日も考えた。手紙の束を全て読んだ。マルガレーテ様の言葉を何度も反芻した。ブリギッテの証言を思い出した。母の遺言を知った。
でも、実際にこの人の前に座ると、言葉が出てこなかった。
三年間、この人に向けた言葉を思い出す。「同席しないで」「母の代わりにはなれない」「あの人がいないだけで気持ちがいい」。どれも、取り消せない。言葉は、発した瞬間に相手の中に残る。エーリカは四十七回、ベアトリーチェの拒絶を聞いた。四十七回分の傷を、今から謝って消せるのか。
消せない。
でも——謝らなければ、始まらない。
「エーリカ……さん」
名前を呼んだ。初めて。声が震えた。
「私が——間違っていました」
エーリカは黙って聞いていた。
「母の名誉を守りたかったのです。母の場所を奪いに来た人だと思って——ずっと。でも」
喉が詰まった。
「母が望んでいたのは、あなたを追い出すことではありませんでした。あなたを家族として迎えることでした。母の遺言を——私は知りませんでした。知ろうともしませんでした」
頭を下げた。深く。髪が膝に触れるほどに。
「三年間——ごめんなさい。私のために全てをしてくださっていたのに。嫌われていると知りながら——」
声が途切れた。涙が落ちた。中庭の石畳に、小さな染みができた。
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### 後半 *視点:エーリカ*
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ベアトリーチェの頭が下がっている。黒い髪が揺れている。肩が震えている。
十七歳の少女が、三年分の過ちを背負って、ここに来た。一人で。父親に連れられてではなく、使用人を伴ってでもなく。自分の足で王宮まで来て、自分の言葉で謝っている。
エーリカは、手を伸ばした。
ベアトリーチェの手を取った。冷たい指だった。緊張で、血の気が引いているのだろう。
「顔を上げてください」
ベアトリーチェが顔を上げた。目が赤い。涙の跡が頬にある。その顔は——カタリーナ様に似ていた。肖像画の中の黒髪の女性に。
三年間、この顔を見るたびに思っていた。この子はカタリーナ様に似ている。笑い方も、怒り方も、真っ直ぐなところも。だからこそ、守りたかった。嫌われていても。
「あなたを許します」
エーリカの声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
ベアトリーチェの目が大きくなった。安堵と、希望と、何か別のものが混ざった顔。
「あなたは十四歳でお母様を亡くして、十五歳で知らない女が家に来た。怒るのは当然です。拒絶するのも当然です。あなたは悪い子ではなかった。悲しかっただけです」
ベアトリーチェが唇を噛んだ。
「では——戻って——」
「でも」
エーリカは、ベアトリーチェの手を握ったまま、続けた。
「私はもう、伯爵家の後妻には戻りません」
空気が止まった。中庭の鳥の声が、やけに近くに聞こえた。
「離縁は先日、正式に成立しています。お父様が署名してくださいました」
「……なぜ」
「三年間、あなたの未来を準備しました。各家の夫人への手紙、縁談の交渉、ドレスの手配。全て——嫌われていると知りながら、やりました」
ベアトリーチェの指が、エーリカの手の中で強張った。
「でも、私の未来は、あの家にはなかったのです」
ベアトリーチェが何か言おうとした。エーリカは静かに続けた。
「今は、自分の名前で仕事をしています。自分の名前で呼ばれています。自分の名前で手紙を書いています。三年間なかったものが、ここにはあります。——それを手放すことは、もうできません」
ベアトリーチェの目から涙がこぼれた。
エーリカの目からも、涙が出た。
二人とも泣いていた。中庭のベンチで、手を繋いだまま。鳥が鳴いている。風が花の匂いを運んでいる。穏やかな午後だった。
許した。
でも、戻らない。
この二つは矛盾しない。許すことと、自分を犠牲にして戻ることは、別のことだ。ベアトリーチェの謝罪は本物だった。三年間で初めて、この子はエーリカの名前を呼んだ。それだけで十分だった。十分で——やはり戻らないのだ。
「棚に残した資料を使ってください。各家の夫人の好みやスケジュールが書いてあります。あなたが自分で手紙を書けば、社交界は少しずつ開きます。時間はかかるけれど——あなたなら、できます」
ベアトリーチェは、泣きながら頷いた。
「……ありがとう、ございます」
ありがとう。
三年間、一度も言われなかった言葉だった。
エーリカはベアトリーチェの手をそっと離した。帰還ではなく、許しの手だった。この手はもう、あの家の帳簿を持たない。あの家の手紙を書かない。あの家の鍵を回さない。
でも——この子が自分の足で歩き始めるなら、それが三年間の仕事の、本当の意味での完成だ。
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ベアトリーチェは王宮を出ながら、振り返った。
中庭の奥に、エーリカの姿が小さく見えた。一人で立っている。王宮の陽光の中に。三年間、伯爵家の薄暗い廊下を歩いていた人が、光の中にいる。
あの人は「あなたを許します」と言った。
でも、「戻ります」とは言わなかった。
許しと帰還は——別のものだった。
ベアトリーチェは門を出て、馬車に乗った。膝の上で拳を握りしめた。泣き終わるのを待ってから、御者に告げた。
「帰って。——あの人の資料を、もう一度読むから」




