第7話「名前を呼ぶということ」
宮廷の茶会準備は、エーリカにとって呼吸のようなものだった。
大テーブルの上に広げた席順表を前に、エーリカはペンを走らせていた。来月の茶会には各国の大使夫人が出席する。バルデス公国のロザリア夫人は乳製品にアレルギーがある。東方のカルーシャ大使夫人は宗教上の禁忌で豚肉を口にしない。フィエラ共和国のソフィア夫人は最近夫を亡くしたばかりで、結婚や慶事の話題は避けるべきだ。
席順は会話を決める。隣に座る人が話す相手になる。相性の悪い組み合わせは沈黙を生み、最悪の場合は外交問題になる。逆に、適切な組み合わせは一度の茶会で数年分の信頼を築く。
エーリカはペンを止め、全体を見渡した。二十四席。食事制限、宗教、政治的立場、個人的な好悪、最近の慶弔——全てを考慮した上で、隣り合う二人の間に必ず共通の話題がひとつ以上あるように配置した。
「……これは」
背後でレオンハルトの声がした。席順表を覗き込んでいた。
「バルデスとカルーシャを隣にしたのですか。この二国は通商問題で——」
「はい。ですが、ロザリア夫人とカルーシャ夫人のご息女が同じピアノの師に師事しています。政治ではなく子どもの話題で繋げれば、夫人同士の関係は温まります。通商交渉の場ではなく、茶会ですから」
レオンハルトが黙った。席順表を一人ずつ指で追い、注記を読み、顔を上げた。
「これほどの仕事を——伯爵家は、無償で使っていたのですか」
エーリカは少し戸惑った。無償という言葉を、自分に向けられたのは初めてだった。
「家の仕事ですから、報酬という考え方は——」
「家事の延長ではありません」
レオンハルトの声は穏やかだったが、明確だった。
「各国の大使夫人の食事制限、宗教的禁忌、家族構成、最近の慶弔、政治的立場——これらを把握し、最適な席順を組む仕事は、専門技能です。外交官にもできる人は多くない。あなたの仕事には、対価が必要です」
エーリカは何と答えていいか分からなかった。三年間、誰にもそんなことを言われたことがない。伯爵家では「妻の務め」として当然だった。感謝もなく、報酬もなく、名前もなく。
レオンハルトが席を立ち、廊下に出た。侍従長と話す声が、半開きの扉から聞こえた。
「——この人を手放すわけにはいきません。来月の茶会だけでなく、秋の叙勲式、冬の舞踏会——継続的に顧問をお願いしたい」
手放すわけにはいかない。
仕事の文脈だと分かっている。顧問としての評価だ。それでも、その言葉がエーリカの胸のどこかに小さく刺さった。三年間、「いなくていい」と言われ続けた人間に、「手放せない」と言う人がいる。
レオンハルトが戻ってきた時、エーリカは席順表の最後の調整をしていた。
「一ヶ所だけ変えました。フィエラのソフィア夫人の隣に、ロイター商会の夫人を。ロイター夫人もご主人を亡くされていて——同じ経験を持つ方が隣にいると、安心なさるかもしれません」
レオンハルトが席順表を見て、小さく息をついた。
「あなたは——いつも、こういう仕事を?」
「はい。伯爵家でも、各家の夫人方のお好みや事情を把握して、茶会の席順を——」
「好きでなさっていたのですか」
以前聞かれた時と同じ質問だった。あの時は「私しかいなかっただけです」と答えた。
今は——少し、違う答えが浮かんだ。
「これは——私がやりたいからやっています」
言ってから、自分の言葉に驚いた。
伯爵家では、主語はいつも「お嬢様のために」「伯爵家のために」「カタリーナ様のために」だった。「私が」と言ったことが、三年間で一度もなかった。
レオンハルトが足を止めた。振り返った。
「今の言葉を、もう一度聞かせてください」
「え?」
「あなたが『私が』と言ったのは——初めてです」
二人の目が合った。レオンハルトの表情は柔らかかった。評価でも同情でもない。ただ、変化を見つけた人の、静かな喜びだった。
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### 中盤 *視点:レオンハルト*
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夜の執務室は静かだった。
茶会の準備は終わり、エーリカは残務の整理をしている。窓の外には月が出ていた。書類の山に囲まれた小さな机で、エーリカがペンを動かしている。ペンだこのある指。三年分の手紙を書き続けた指だ。
レオンハルトは窓辺に立ち、少し迷ってから口を開いた。
「ひとつ——打ち明けてもいいですか」
エーリカがペンを止めて顔を上げた。
「私も、名前で呼ばれたことがありません」
エーリカが少し目を見開いた。
「いつも殿下か、王弟です。国王の弟として必要とされることはあっても——レオンハルトとして必要とされたことが、ない」
言ってから、自分でも少し驚いた。こんなことを口にしたのは初めてだ。王族の孤独を語ることは弱さの開示であり、弱さは政治的には隙になる。そう分かっていて、この人の前では言えてしまった。
エーリカは何も言わなかった。
しばらく沈黙が続いた。伯爵の沈黙とは違う。あの男の沈黙は逃避だった。エーリカの沈黙は——考えている沈黙だ。言葉を選んでいる。
「では——」
エーリカが少し間を置いた。
「レオンハルトさん」
呼ばれた。
名前で。
殿下でも、王弟でも、王族の敬称でもなく。名前の後に「さん」をつけた、穏やかな呼び方で。
レオンハルトは少しだけ目を見開いた。
そして——笑った。
自分でも気づかなかった。笑っていた。月明かりの中で、書類の山の向こうで、名前を呼ばれて、ただ嬉しくて、笑っていた。
「……レオンハルトさん?」
エーリカが不安そうに聞いた。失礼だっただろうかという顔をしている。
「いえ——」
レオンハルトは首を振った。
「名前を呼ばれて笑うことが、こんなに嬉しいとは——知りませんでした」
エーリカの表情が変わった。驚き、戸惑い、そして——微かに、本当に微かに、頬が赤くなった。
三年間、名前を呼ばれなかった人が、名前を呼んだ。名前を呼ばれたことがない人に。
互いに、名前を返し合った。それだけのことだった。
それだけのことが、こんなにも温かかった。
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### 短い挿入 *視点:ベアトリーチェ*
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同じ夜、伯爵家の廊下に、灯りがひとつ残っていた。
ベアトリーチェはエーリカの元自室に座り込み、手紙の束を一通ずつ読んでいた。何時間も。夕食も取らずに。
一通一通の手紙の下書きが、あの人の字で書かれている。丁寧で、少し右に傾いた字。どの手紙にも相手への気遣いがある。どの手紙にもベアトリーチェの名前が出てくる。「お嬢様のデビューに際し」「伯爵家の令嬢をよろしくお願いいたします」「この子が社交界で——」。
この子。
あの人は、手紙の中でベアトリーチェを「この子」と呼んでいた。
廊下の先に、母の肖像画が掛かっている。暗がりの中、黒髪の女性が微笑んでいる。ベアトリーチェは肖像画の前に立ち、長い間見つめた。
「お母様、私は——」
声が途切れた。何を言えばいいのか分からなかった。母の名誉を守りたかっただけだ。母の場所を奪いに来た人を排除したかっただけだ。でも母は、再婚を望んでいた。あの人は母の墓に花を供えていた。あの人は母の代わりではなく、母の遺志を継ごうとしていた。
認めたくなかった。認めれば、三年間の自分の行動が全て間違いになる。
でも——認めざるを得なかった。
ベアトリーチェは肖像画の前に座り込んだ。手紙の束を膝の上に載せたまま、目を閉じた。
謝らなければならない。
でも、まだ動けなかった。十七歳の少女が三年分の過ちと向き合うには、もう少しだけ——時間が必要だった。




