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嫌われていると知りながら三年間あなたの未来を準備していた後妻は、もう戻りません  作者: 九葉(くずは)


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第6話「あの人がいたから」

 あの人の部屋に入るのは、初めてだった。


 三年間、同じ屋敷に住みながら、ベアトリーチェはこの扉を一度も開けたことがない。開ける理由がなかった。いや——開けたくなかった。あの人の部屋に入ることは、あの人の存在を認めることだと思っていたから。


 部屋は、驚くほど何もなかった。


 私物はない。装飾品もない。窓辺に花瓶だけが残っていたが、花は枯れていた。水を替える人がいなくなったのだ。ベッドは整えられ、クローゼットは空。三年間住んでいた人間の痕跡が、ほとんどない。


 ただ、棚だけが違った。


 ブリギッテが言っていた。「棚の資料をお嬢様にお渡しください」——あの人の引き継ぎ。ベアトリーチェは今まで見ようとしなかった。招待状が来ないことも、縁談が破談になったことも、取引先が離れたことも、全て「あの人がいなくても何とかなる」と思いたかったから。


 引き出しを開けた。


 紙の束が、整然と並んでいた。


 一段目。各家の夫人への手紙の下書き。ベルクマン子爵夫人、シュトルツ男爵夫人、ヘルツォーク商会夫人——全てあの人の筆跡。丁寧な、少し右に傾いた字。どの手紙にも、相手の家の近況への言及がある。「ご子息の入学おめでとうございます」「先日の茶会でのお話、大変勉強になりました」「お母様のご容態、お加減はいかがでしょうか」。一人一人の人生を覚えている字だった。


 二段目。スケジュール表と各家の情報メモ。どの夫人が甘い菓子を好み、どの夫人が最近義母を亡くし、どの話題を避けるべきか。禁句まで書いてある。「ルーデンドルフ夫人の前で子どもの話題は避ける(流産の経験あり)」。ベアトリーチェは息を呑んだ。こんなことまで把握していたのか。


 三段目を開けた時、指が止まった。


 縁談候補三家の交渉メモ。ヴァイス侯爵家の長男の読書の趣味。ライヒェルト伯爵家の次男の馬術の成績。フリードリヒ子爵家の当主夫人の人柄——「若い嫁を大切にする家風。ベアトリーチェに合うのではないかと思う」。


 その隣に、ドレスのサイズ記録があった。


「……これは?」


 ベアトリーチェは紙を手に取った。季節ごとに更新されたサイズ表。胸囲、腰囲、肩幅。三年分、六回の記録。


 後ろで、ブリギッテが口を開いた。


「エーリカ様は——嫌われていると知りながら、お嬢様のドレスのサイズを毎季測っておられました」


「……毎季?」


「はい。直接お聞きになれないので、お洗濯物のサイズ表示を私に確認させて。デビュー用のドレスも、仕立て屋にこっそりご相談なさっていました。薄紅色が——黒髪に似合うだろうと」


 ベアトリーチェの手が震えた。


「私は……知っていて、何も申し上げませんでした」


 ブリギッテの声が小さく揺れた。


「前の奥様への忠誠心から、新しい奥様の味方をすることが——裏切りのように感じられて。……申し訳ございません。お嬢様にも、エーリカ様にも」


 ベアトリーチェは答えられなかった。サイズ記録の下に、もう一枚の紙があった。私的なメモ帳のページを破ったような紙。あの人の字で、走り書きがあった。


 ——嫌われていると分かっています。それでもこの子が恥をかかないように。


 文字が滲んだ。


 涙だと気づくのに、少し時間がかかった。自分が泣いていた。


---


### 後半 *視点:マルガレーテ侯爵夫人*


---


 ヴォルフスブルク伯爵邸を訪ねたのは、もっと早くすべきだった。


 マルガレーテ・フォン・ハイデンは、玄関で侍女に案内されながらそう思った。カタリーナが死んで五年。親友の家がこんなふうに壊れるまで、自分は何をしていたのか。


 応接間に通されると、ベアトリーチェが待っていた。十七歳の少女の目は赤かった。テーブルの上に、紙の束が積まれている。見覚えのある筆跡——エーリカの字だ。


「マルガレーテ様」


 ベアトリーチェの声は、前に会った時よりずっと小さかった。あの時は「母の友人」として丁重に、しかし後妻の話題は一切しない態度だった。今は、何かに打ちのめされた顔をしている。


「棚の——あの人の部屋の棚に、これが」


「知っているわ」


 マルガレーテは椅子に座った。


「エーリカさんが、あなたのデビューのために三年間準備をしていたことは。各家の夫人方から聞いていたの。『伯爵夫人が丁寧にお手紙をくださる』『いつも気遣いが行き届いて』と。あの方がいなくなってから、何人もの夫人が私に聞いてきたわ。『エーリカ様はいつお戻りですか』と」


 ベアトリーチェが唇を噛んだ。


「でも、あの人は——母様の代わりなんかじゃ——」


「代わり?」


 マルガレーテは少し声を低くした。


「ベアトリーチェ。エーリカさんは、あなたの母の代わりをしようとはしていなかったわ。エーリカさんはエーリカさんとして、あの家を支えていたの。カタリーナとは違うやり方で。カタリーナにはできなかったやり方で」


 ベアトリーチェが黙った。


「そしてもうひとつ——あなたは知らないでしょうけれど。エーリカさんは毎月、カタリーナの墓に白百合を供えていたの」


「……白百合?」


「カタリーナが好きだった花よ。あなたも知っているでしょう?」


 知っていた。母の好きな花。でも、あの人がそれを知っていたことは——あの人が毎月墓に通っていたことは——知らなかった。


「なぜ……あの人が、母様の墓に」


「敵ではなかったからよ」


 マルガレーテはまっすぐにベアトリーチェを見た。カタリーナの娘だ。黒い髪も、大きな瞳も似ている。けれど今、この子の顔に浮かんでいるのは、母にはなかった表情だった。打ちのめされた、しかしまだ認めたくない、けれど認めざるを得ない——そういう表情。


「ベアトリーチェ。あなたに伝えなければならないことがあるの」


 マルガレーテは一呼吸置いた。カタリーナ、許してね。でも、もうこの子には知る権利がある。


「あなたの母——カタリーナは、遺言を残しています。『ベアトリーチェに母親が必要です。家のためにも——再婚してください』と」


 部屋の空気が凍った。


「嘘——」


「嘘ではないわ。私がこの目で読んだの。カタリーナは自分が死んだ後のことを心配していた。娘が母のない家で育つことを。だから再婚を願った。あなたのお父様が再婚したのは、カタリーナの遺志よ」


 ベアトリーチェの手が、テーブルの上の紙の束を掴んだ。指が白くなるほど力が入っていた。


「私は——母様のために——あの人を——」


「ええ。あなたは母の名誉を守るために後妻を追い出した。でも、あなたの母が生きていたら、エーリカさんに感謝していたでしょうね」


 マルガレーテは言葉を止め、少し考え、続けた。


「——いえ。きっと友人になっていたわ」


 ベアトリーチェが顔を覆った。嗚咽は聞こえなかった。ただ、肩が小さく震えていた。十七歳の少女が、三年分の過ちの重さに押し潰されようとしている。


 マルガレーテは立ち上がり、窓辺に目をやった。この子を責めすぎてはいけない。十四歳で母を亡くした少女が、悲しみの形を間違えただけだ。悪意ではなかった。悲嘆の防衛だった。けれど、防衛の陰で傷ついた人がいる。それは事実として残る。


「私ももっと早く来るべきだった。エーリカさんが三年間、誰にも助けを求めずに一人で全てを背負っていたことを——私も知っていて、手を差し伸べなかった。同罪よ」


 ベアトリーチェが顔を上げた。目が赤い。手の中で、エーリカの手紙の束が皺になっていた。


「マルガレーテ様——あの人の字を、私は三年間、見ないふりをしていました」


「ええ」


「嫌われていると分かっていて——それでも、私のために——」


 声が途切れた。


 マルガレーテは何も言わなかった。言うべき言葉はもう全て言った。この先は、この子自身が考えることだ。


 ベアトリーチェは手紙の束を、胸に抱えた。


 三年分の「あなたのために」が、腕の中で重かった。宛先も、署名も、全てエーリカの字で書かれた手紙。この家で誰も呼ばなかった名前で、署名された手紙。


 あの人は、嫌われていると知りながら。


 そして私は——知ろうともしなかった。

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