第5話「名前を呼ばなかった男」
三通の手紙が、書斎の机の上に並んでいた。
ヴァイス侯爵家。ライヒェルト伯爵家。フリードリヒ子爵家。いずれも、ベアトリーチェの縁談候補として名前が挙がっていた家だ。三通とも、同じ趣旨だった。
——ヴォルフスブルク伯爵夫人にお話をいただいておりましたが、夫人がいらっしゃらないのであれば、改めて。
伯爵夫人に話をいただいていた。
グスタフは三通を順に読み返した。縁談の「根回し」が行われていたことを、今初めて知った。ベアトリーチェのために、誰かが各家の夫人と個別に交渉し、息子の性格や趣味まで調べ、相性を検討していた。
誰が。
答えは分かっていた。分かっていて、認めたくなかった。
同じ日の午後、ヘルツォーク商会から書簡が届いた。取引条件の再検討——信用状の見直し。文面は丁寧だったが、意味は明快だった。信頼関係の基盤が消えたので、これまで通りにはいかない、と。
グスタフの手が、わずかに震えた。ヘルツォーク商会は伯爵家の主要取引先だ。領地の木材取引の三割がこの商会を通じている。信用状が見直されれば、秋の出荷に間に合わない。
ヘルツォーク商会の夫人は、月に一度の茶会でエーリカと会っていたはずだ。ブリギッテの引き継ぎ報告にそう書いてあった。エーリカが去った時、ブリギッテが残した走り書き——「ヘルツォーク商会の夫人には来月の茶会の返事がまだです」。あの一行の意味を、グスタフはようやく理解した。
社交の信用が、商取引の下地になっていた。夫人同士の関係が崩れれば、取引条件が見直される。社交はただの体裁ではない。経済の基盤だった。そしてその基盤を一人で支えていたのが——。
続いてザイデル家からも同様の通知。グスタフは書簡を持つ手が定まらず、紙の端を皺にした。一日に二件の取引見直し。明日は何件来る。
夕方、ベアトリーチェが茶会から帰ってきた。目が赤かった。侍女に聞くと、紹介者がいないため「どちら様ですか」と言われたらしい。伯爵家の令嬢が、名前も知られずに追い返されたのだ。
ベアトリーチェは何も言わず、自室に入った。扉の向こうで物が倒れる音がした。
グスタフは書斎に戻り、椅子に座った。机の上には、縁談辞退の三通、取引見直しの二通、未処理の離縁状——全てが積み上がっている。壁の時計が鳴った。いつもなら夕食の時間だが、食堂に行く気力がなかった。
使用人たちの目が変わっていた。以前は何も考えていないように見えた視線に、今は何かが混じっている。ブリギッテは相変わらず完璧に職務をこなしていたが、グスタフと目を合わせなくなっていた。この家の使用人たちは知っていたのだ。誰がこの家を回していたか。そして、誰がその人を追い詰めたか。
「後妻を追い出した家の——」
ベルクマン子爵夫人がそう囁いていた、とも聞いた。
追い出した。グスタフは机に両肘をつき、額を手で覆った。追い出したのではない。あの人が勝手に出ていったのだ。離縁状を置いて、一方的に——。
本当に?
書斎の窓から、庭が見えた。裏庭の小高い丘に、カタリーナの墓がある。白い石碑の前に、いつも花が供えてあった。白百合だった。
あの花は、誰が。
ブリギッテが言っていた。「月命日に白百合をお願いします。あの方がお好きでしたから」——エーリカの引き継ぎの言葉。カタリーナの好きな花を、後妻が毎月供えていた。
グスタフは目を閉じた。五年前の記憶が蘇る。
カタリーナの最後の手紙。病床で、震える字で書かれた遺言。「ベアトリーチェに母親が必要です。家のためにも、あなたのためにも——再婚してください」。あの言葉に従って、子爵家のエーリカを迎えた。けれどグスタフにとって再婚は、カタリーナへの裏切りだった。だからエーリカを愛さなかった。名前を呼ばなかった。名前を呼べば、人として向き合わなければならない。向き合えば、カタリーナの場所が揺らぐ。
愛さないことが、死んだ妻への最後の誠実だと信じていた。
それが、もう一人の女性を三年間消耗させていたことに——今、ようやく気づいた。
遅すぎた。
だが、取り返しがつかないかどうかは、まだ分からない。そう信じたかった。
「馬車を用意しろ。子爵夫人ヘレーネの別邸へ向かう」
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### 後半 *視点:エーリカ*
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庭で本を読んでいると、ヘレーネが来た。
「お客様よ。……伯爵が来たわ」
声の調子で、ヘレーネが良く思っていないことが分かった。エーリカは本を閉じた。栞を挟む手が、少しだけ震えた。
応接間に入ると、グスタフが立っていた。レオンハルトも——仕事の打ち合わせで来ていたのだ——窓際の椅子に座っていた。
グスタフはエーリカの顔を見て、何か言おうとして、止まった。二週間ぶりに会う妻の顔——いや、もう妻ではない。離縁状はまだ正式に処理されていないが、エーリカの中では終わっている。
「——戻ってきてくれないか」
前置きなく、グスタフは言った。
「ベアトリーチェのデビューが近い。招待状の手配が必要だ。縁談の根回しも。君がいなければ——」
「ベアトリーチェのために、ですか」
エーリカは静かに聞き返した。
グスタフは一瞬、言葉を止めた。そしてまっすぐにエーリカを見て、頷いた。
「ああ。ベアトリーチェのために」
三年間と同じだった。
この人は三年前、「ベアトリーチェのために」エーリカを迎え、「ベアトリーチェのために」家の仕事を任せ、「ベアトリーチェのために」エーリカが傷つくことを見て見ぬふりをした。そして今、「ベアトリーチェのために」戻れと言っている。
エーリカのために、とは一度も言わない。
怒りはなかった。もう、ない。三年間で使い果たした。残っているのは、透明な確信だけだ。この人は変わらない。変われないのだ。
窓際で、レオンハルトが立ち上がった。
エーリカの方を見た。伯爵を見なかった。穏やかな声で、短く言った。
「ここで待っていますから、ご自分で決めてください」
そして、部屋を出た。扉を閉める背中に、迷いはなかった。
介入しなかった。助けなかった。庇わなかった。
——選ばせた。
エーリカは、閉じた扉を一瞬だけ見つめた。あの人は、自分の代わりに怒ってはくれない。代わりに断ってもくれない。それが正しいと、エーリカは思った。三年間、誰かの代わりに生きてきた。もう、誰かに代わってもらう必要はない。
グスタフに向き直った。
「伯爵」
名前ではなく、爵位で呼んだ。三年間、そうしてきたように。この人が名前で呼ばなかったから、エーリカも名前で呼ばなかった。それが夫婦の距離だった。
「三年間、ベアトリーチェのために生きました」
声は穏やかだった。
「お嬢様のデビューのために、各家の夫人方と手紙を交わし、茶会に出向き、縁談を交渉し、ドレスを手配しました。カタリーナ様の墓にも毎月花を供えました。全て一人で。報酬も、名前も、感謝もなく」
グスタフの顔が強張った。
「……知らなかった」
「はい。知らなかったのでしょう」
責めてはいなかった。事実を述べているだけだ。事実は、責めるよりずっと痛い。
「もう十分です」
グスタフが口を開きかけた。エーリカは静かに続けた。
「あなたがベアトリーチェのために私を必要としていることは分かります。けれど——私が私のために何を必要としているかを、あなたは一度も聞いてくださいませんでした」
沈黙が落ちた。
グスタフは何か言いたそうに唇を動かしたが、言葉が出てこなかった。三年間、この人の沈黙は逃避だった。今回の沈黙は——言い返せないのだ。言い返すための言葉を、一度も準備してこなかったから。
「お元気で」
エーリカは軽く頭を下げて、応接間を出た。
廊下で、レオンハルトが壁にもたれて待っていた。エーリカの顔を見て、何も聞かなかった。ただ、少しだけ頷いた。
「お茶を淹れましょうか」
「……はい。お願いします」
二人は台所に向かった。後ろの応接間から、物音はしなかった。
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グスタフが帰ったのは、それから一時間後だった。
門を出る伯爵の背中を、エーリカは二階の窓から見ていた。見送る義務はもうない。ただ、見ていた。あの人の肩が、少しだけ落ちていた。
三年間、エーリカの名前を呼ばなかった人が、今日も名前を呼ばなかった。「戻ってきてくれないか」と言った時も、「知らなかった」と言った時も、一度も「エーリカ」と言わなかった。
最後まで、「君」だった。
伯爵の馬車が並木道を去っていく。エーリカはカップを持ったまま、窓辺に立っていた。レオンハルトが淹れてくれた紅茶は、まだ温かかった。
名前を呼ばれないまま三年間を過ごし、名前を呼ばれないまま去りを告げられた。
伯爵は気づいただろうか。
自分が今も、妻の名前を呼んでいないことに。




