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嫌われていると知りながら三年間あなたの未来を準備していた後妻は、もう戻りません  作者: 九葉(くずは)


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第4話「子爵夫人の庭園」

 誰の機嫌も伺わなくていい朝は、こんなに静かなのだと知った。


 子爵夫人ヘレーネの別邸は、都から馬車で半日ほどの丘陵地にあった。小さな館で、使用人も最小限。庭には季節の花が気ままに咲いている。伯爵家の庭園のように計算された配置ではなく、咲きたい場所に咲いている——ただそれだけの花壇が、エーリカには眩しかった。


「朝食、もう少し寝てからでもいいのよ」


 ヘレーネは学生時代からの友人で、エーリカの事情を聞いても驚かなかった。「よく三年もったわね」とだけ言った。労いでも同情でもなく、事実の確認。それが心地よかった。


 自由だった。


 朝、好きな時間に起きていい。紅茶を自分で淹れて、好きな濃さで飲んでいい。庭に出て日差しを浴びても、「奥様、お客様が」と呼ばれない。誰にも手紙を書かなくていい。誰の贈答品も選ばなくていい。誰のデビューも準備しなくていい。


 そう分かっているのに、手が動く。


 三日目の朝、エーリカは机に向かっていた。便箋を広げ、ペンを取り、書き出しの文言を考えていた。——誰に? 何のために?


 宛先がなかった。


 ベルクマン子爵夫人への季節の挨拶。シュトルツ男爵夫人への贈答品の確認。ヘルツォーク商会の夫人への茶会の返事。三年間、毎朝やっていたことが、手の中に残っている。体が覚えている。習慣は、理由がなくなっても消えない。


 エーリカはペンを置いた。白い便箋を見つめた。


 自由なはずなのに、自由の使い方が分からなかった。三年間、自分のために時間を使ったことがない。自分が何を好きだったかも、思い出せない。結婚前は何をしていただろう。本を読んでいた気がする。でも、何の本だったか。


 ヘレーネが庭から花を摘んで戻ってきた時、エーリカの机の上には白紙の便箋が三枚、重ねて置かれていた。ヘレーネは何も聞かなかった。ただ、花瓶に黄色い小花を入れて、窓辺に置いた。伯爵家では飾ったことのない、名前も知らない花だった。


---


 一週間が過ぎた頃、来客があった。


「王弟殿下のレオンハルト様が、後見問題のご相談でいらっしゃいました」


 ヘレーネの使用人が告げた時、エーリカは庭で本を読んでいた。本の内容はほとんど頭に入っていなかったが、本を開いている時間は手紙を書かずに済んだ。


 応接間に通された客人は、穏やかな顔立ちの青年だった。王族らしい端正さはあるが、威圧感はない。ヘレーネと後見制度について話している間、エーリカは隣室で茶の準備を手伝っていた。来客の応対は体が勝手に動く。どんな茶菓子を出すか、湯の温度は、カップの向きは。三年分の習慣が、ここでも指先を支配する。


 茶を運んだ時、レオンハルトがエーリカの顔を見て、少し首を傾げた。


「——失礼。どこかでお会いしたことがありませんか」


「いえ、私はただの——」


「宮廷祭で、裏方の手配をされていた方では」


 エーリカは動きを止めた。


 宮廷祭。一年半前、伯爵家の名代として裏方の運営を引き受けた時のことだ。各国の大使夫人の席順調整、食事制限への対応、式次第の確認。大きな仕事だった。けれど表には出なかった。伯爵家の後妻として裏方を務めただけで、名前が記録に残ることはなかったはずだ。


「覚えていらっしゃるのですか」


「あの席順は見事でした。バルデス公国の大使夫人がアレルギー持ちであることを把握していたのは、あなただけだった」


 誰にも気づかれなかった仕事を、この人は見ていた。エーリカは不思議な感覚に襲われた。嬉しいとも違う。ただ、驚いていた。見る人がいたのだ。三年間、一度も見られなかった仕事を、一度で見ていた人がいた。


「裏方がお好きなのですか」


 レオンハルトが穏やかに聞いた。好奇心とも、世間話とも違う声色だった。


 エーリカは少し考え、正直に答えた。


「好きなのではなく——私しかいなかっただけです」


 言ってから、自分の声の平坦さに気づいた。怒りでも悲しみでもない。ただ事実を述べただけだ。三年間、誰も代わりがいなかった。誰も手伝ってくれなかった。だから全部やった。好きでも嫌いでもなく。


 レオンハルトは少し黙った。その沈黙は、伯爵の沈黙とは違った。伯爵の沈黙は逃避だった。この人の沈黙は、言葉を選んでいる沈黙だった。


「——ひとつ、お願いしたいことがあります」


 レオンハルトは姿勢を正した。


「宮廷で、社交行事の顧問をお引き受けいただけないでしょうか。あなた個人に。報酬と肩書をご用意します」


「……個人に?」


「はい。伯爵家の夫人としてではなく、エーリカ・ミュラーさんとして」


 エーリカ・ミュラー。旧姓だ。結婚してからは一度も使っていない名前が、他人の口から聞こえた。


「三年間、誰の名前も冠されずにお仕事をなさってきたのでしょう。これからは、ご自身の名前でなさいませんか」


 報酬。肩書。自分の名前。


 三年間、そのどれもなかった。伯爵家のために、ベアトリーチェのために、カタリーナ様の遺した場所を守るために。全て無償で、名前もなく、感謝もなく。


「……少し、考えさせてください」


「もちろん。断る権利も、常にあります」


 レオンハルトはそう言って、微笑んだ。穏やかだったが、軽くはなかった。


---


### 後半 *視点:レオンハルト*


---


 帰りの馬車の中で、レオンハルトは窓の外を見ていた。


 丘陵地の緑が流れていく。あの小さな別邸の庭に、薄い亜麻色の髪の女性がいた。茶を運ぶ手つきに迷いはなかったが、カップを置いた後、一瞬だけ手が所在なさそうに宙を彷徨った。次にすべき仕事を探す手の動き。三年間、常に次の仕事があった人の癖だろう。


 「私しかいなかっただけです」


 あの言葉を、レオンハルトは反芻していた。


 声は平坦だった。怒りも恨みもなかった。それが最も重い。怒りがあれば、まだ戦っている。恨みがあれば、まだ繋がっている。何もないということは——諦めきっているということだ。


 「私しかいなかった」。


 それは言い換えれば、「誰も助けてくれなかった」だ。


 三年間、あの伯爵家で、彼女は一人で社交の全てを回していた。宮廷祭の裏方で見た手際の良さは、天性のものだけでは説明がつかない。何百通もの手紙を書き、何十もの家の事情を記憶し、一人一人の夫人と信頼を積み上げてきた人間の仕事だった。あれだけの能力を持つ人間を、誰も助けなかった。誰も評価しなかった。報酬も、名前も、感謝も与えなかった。


 だから自分は、「助ける側」として声をかけなかった。


 助けは、上から差し出されるものだ。同情も、救済も、庇護も。伯爵家で三年間、誰かの都合で使われ続けた人に必要なのは、もう一人の庇護者ではない。


 仕事を依頼した。報酬を提示した。名前を呼んだ。


 それが正しかったかどうかは、まだ分からない。彼女が引き受けるかどうかも分からない。ただ、あの別邸の机の上に、白紙の便箋が重ねてあったのが見えた。宛先のない手紙を書こうとして、書けなかった跡だ。


 手紙を書く相手がいないのに、手紙を書く手が止まらない。それは自由ではない。まだ、あの家に囚われている。


 エーリカ・ミュラーに必要なのは、宛先だ。


 自分の名前で送る手紙の、新しい宛先。


 レオンハルトは馬車の窓を閉め、手帳を開いた。宮廷の社交行事の一覧。来月の茶会、再来月の園遊会、秋の叙勲式——どれも、あの人の力を必要としている。


 助けたいのではない。


 あの人の仕事に、正しい名前と対価を渡したい。


 それが恋心ではないことを、この時のレオンハルトはまだ信じていた。

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