表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
嫌われていると知りながら三年間あなたの未来を準備していた後妻は、もう戻りません  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/9

第3話「招待状が届かない」

 あの人がいなくなって一週間。屋敷の空気が軽くなった——と、ベアトリーチェは思っていた。


 朝食の席に、あの控えめな亜麻色の髪がない。食堂に入った時、気まずそうに目を伏せる顔がない。使用人たちに遠慮がちに指示を出す声がない。全てが、正しい場所に戻ったように感じた。この屋敷は母様の家だ。あの人がいなくなって、ようやく母様の空気が戻った。


 デビューまで二週間。


 ベアトリーチェは鏡の前に立ち、新しいドレスの仮縫いを合わせていた。薄い桃色の生地に、銀糸の刺繍。仕立て屋が「お母様に似て、黒髪に明るい色がよくお似合いで」と言った。嬉しかった。母に似ていると言われることが、ベアトリーチェの誇りだ。


「招待状の返事はどうなっているの」


 侍女に尋ねたのは、三日前のことだった。


 主要な貴族家に出欠確認の手紙を送らせたのに、返事が一通も来ない。最初は気にしなかった。皆忙しいのだろう。伯爵家の令嬢のデビューだ。当然来てくれる。


 けれど、三日待っても一通も来ない。


「お嬢様、重ねてのお手紙を出してもよろしいでしょうか」


 侍女が遠慮がちに聞いた。ベアトリーチェは頷いた。当然だ。伯爵家の名前で送っているのだから、見落としているだけだろう。


 さらに三日が過ぎた。


 返事は一通もなかった。


---


 ベアトリーチェは父の書斎を訪ねた。


「お父様、招待状の返事が来ません」


 伯爵は書類から顔を上げ、少し眉を寄せた。


「どこに送った?」


「ベルクマン子爵家、シュトルツ男爵家、ヘルツォーク商会の夫人——」


 名前を並べると、伯爵の表情が曖昧になった。それらの家の夫人と、いつ、どのように付き合いがあったのか、この人は知らないのだ。ベアトリーチェはそのことに、この時は気づかなかった。


「お父様の名前でもう一度送ればいいのでは?」


「……ああ、そうだな」


 伯爵は頷いた。けれど、その頷き方には力がなかった。何かを思い出しかけて、思い出せないような顔をしていた。


「社交関連は——エーリカに任せていたから、正直、よく分からん」


 あの人の名前が出た。ベアトリーチェは少し苛立った。たかが招待状の手配だ。あの人がやっていたことを、別の誰かに頼めばいい。伯爵家の名前があれば十分のはずだ。


「分かりました。私が手配します」


---


 手配した。伯爵家の正式な便箋で、伯爵の署名入りで、改めて主要十家に招待状を送り直した。今度こそ返事が来るだろう。


 来なかった。


 一通も。


「——なぜ返事が来ないの」


 応接間で、ベアトリーチェは声を荒らげた。テーブルの上には、宛先だけが並んだ空の手紙受けがある。十通送って、十通とも無反応。伯爵家を侮っているのか。母様の友人たちが、母様の娘を無視するのか。


 侍女頭のブリギッテが、静かに入ってきた。


「お嬢様」


「ブリギッテ、あなたなら分かるでしょう。母様の友人たちに手紙を送ったのに、誰からも返事が来ないの。伯爵家の名前で出したのに」


 ブリギッテは少し間を置いた。この人が言葉を選ぶ時の癖だと、ベアトリーチェは知っている。何か言いにくいことがある時の間だ。


「お嬢様。社交界の招待は——家名だけでは動きません」


「どういうこと?」


「夫人同士の、個人的なお付き合いの上に成り立っております。どの家にいつ手紙を送り、どの茶会で何を話し、贈答品に何を選ぶか。全てお一人お一人との信頼の積み重ねで——」


「それは母様がなさっていたことでしょう? 母様の人脈があるのだから——」


「カタリーナ様がお亡くなりになって、五年が経ちます」


 ブリギッテの声は穏やかだったが、揺るがなかった。


「五年の間、そのお付き合いを途切れさせずに維持なさっていたのは——」


「母様の友人たちが、母様の思い出のためにしてくれていたのでしょう?」


「いいえ」


 ブリギッテが首を横に振った。その動きが妙にはっきりしていて、ベアトリーチェは言葉を飲んだ。


「全てのお取り計らいは——今の奥様です」


 空気が止まった。


「……今の奥様?」


「エーリカ様です」


 あの人の名前が、ブリギッテの口から初めて聞こえた。使用人たちも「奥様」としか呼ばなかったのに。


「毎月の手紙、季節のご挨拶、贈答品のお手配、茶会の出席。どの家の夫人が何を好み、どの話題を避けるべきか。お嬢様のデビューに向けた根回しも——全てお一人でなさっておいででした」


 ベアトリーチェは何か言おうとした。でも、言葉が出てこなかった。


「伯爵家の社交が維持されていたのは、エーリカ様が三年間、毎日のように手紙を書き、茶会に出向き、一人一人の夫人と信頼を築いてくださっていたからです」


 嘘だ、と言いたかった。あの人はいつも控えめで、目立たなくて、母様の影のようにこの家にいただけだ。重要な仕事をしていたなんて——。


 けれど、ブリギッテの目は揺らいでいなかった。そして、ブリギッテがこの家の誰よりも正確に屋敷の中を見ていることを、ベアトリーチェは知っていた。


「……ブリギッテ、あなたは知っていたの?」


「はい」


 一言だった。その一言に、何か重いものが混じっていた。知っていた。知っていて——何も言わなかった。


「なぜ、教えてくれなかったの?」


 ブリギッテは答えなかった。答えなかったことが、答えだった。教えたところで、お嬢様は聞かなかっただろう。ベアトリーチェには、そう聞こえた。


---


 夜になっても、ベアトリーチェは眠れなかった。


 ベッドの上で天井を見つめながら、ブリギッテの言葉を何度も反芻した。三年間。毎日のように手紙を。一人一人の夫人と。全てお一人で。


 でも——あの人がしていたことは、所詮は事務的な作業ではないか。母様のような華やかさも、優雅さもなかった。あの人はただ、母様が築いた人脈を引き継いで維持していただけだ。


 そう思おうとした。


 でも、引き継いで「維持する」ことが簡単なら、なぜ今、招待状の返事が一通も来ないのか。


 伯爵家の名前で送った。父の署名も入れた。それでも来ない。


 ベアトリーチェは枕元に置いてあった手紙を手に取った。


 一週間前、部屋の扉の下に滑り込まされていた、あの手紙。開いた時は一瞥しただけで引き出しにしまった。あの人の字だと分かったから。でも今夜、もう一度開いた。


 「デビューのご成功をお祈りしています——エーリカ」


 たった一行。


 ベアトリーチェは、その一行を見つめた。余白が広い。紙の大半が白い。一行だけのために、わざわざ伯爵家の便箋を使っている。


 なぜ、もっと書かなかったのだろう。


 三年間この家にいて、一行しか書くことがなかったのか。言いたいことが、なかったのか。恨み言も、説教も、弁明も。何もなかったのか。


 ……いや。


 紙を傾けると、裏に微かな筆圧の跡があった。何か書きかけて、消した痕。何度も何度も、力を入れて書いて、消して、最後に一行だけ残した——そんな跡に見えた。


 言いたいことがありすぎて、書けなかったのかもしれない。


 ベアトリーチェは手紙を胸元に伏せ、天井を見た。


 あの人の名前を、自分が一度も呼んだことがないと気づいたのは——この夜が初めてだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ