第3話「招待状が届かない」
あの人がいなくなって一週間。屋敷の空気が軽くなった——と、ベアトリーチェは思っていた。
朝食の席に、あの控えめな亜麻色の髪がない。食堂に入った時、気まずそうに目を伏せる顔がない。使用人たちに遠慮がちに指示を出す声がない。全てが、正しい場所に戻ったように感じた。この屋敷は母様の家だ。あの人がいなくなって、ようやく母様の空気が戻った。
デビューまで二週間。
ベアトリーチェは鏡の前に立ち、新しいドレスの仮縫いを合わせていた。薄い桃色の生地に、銀糸の刺繍。仕立て屋が「お母様に似て、黒髪に明るい色がよくお似合いで」と言った。嬉しかった。母に似ていると言われることが、ベアトリーチェの誇りだ。
「招待状の返事はどうなっているの」
侍女に尋ねたのは、三日前のことだった。
主要な貴族家に出欠確認の手紙を送らせたのに、返事が一通も来ない。最初は気にしなかった。皆忙しいのだろう。伯爵家の令嬢のデビューだ。当然来てくれる。
けれど、三日待っても一通も来ない。
「お嬢様、重ねてのお手紙を出してもよろしいでしょうか」
侍女が遠慮がちに聞いた。ベアトリーチェは頷いた。当然だ。伯爵家の名前で送っているのだから、見落としているだけだろう。
さらに三日が過ぎた。
返事は一通もなかった。
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ベアトリーチェは父の書斎を訪ねた。
「お父様、招待状の返事が来ません」
伯爵は書類から顔を上げ、少し眉を寄せた。
「どこに送った?」
「ベルクマン子爵家、シュトルツ男爵家、ヘルツォーク商会の夫人——」
名前を並べると、伯爵の表情が曖昧になった。それらの家の夫人と、いつ、どのように付き合いがあったのか、この人は知らないのだ。ベアトリーチェはそのことに、この時は気づかなかった。
「お父様の名前でもう一度送ればいいのでは?」
「……ああ、そうだな」
伯爵は頷いた。けれど、その頷き方には力がなかった。何かを思い出しかけて、思い出せないような顔をしていた。
「社交関連は——エーリカに任せていたから、正直、よく分からん」
あの人の名前が出た。ベアトリーチェは少し苛立った。たかが招待状の手配だ。あの人がやっていたことを、別の誰かに頼めばいい。伯爵家の名前があれば十分のはずだ。
「分かりました。私が手配します」
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手配した。伯爵家の正式な便箋で、伯爵の署名入りで、改めて主要十家に招待状を送り直した。今度こそ返事が来るだろう。
来なかった。
一通も。
「——なぜ返事が来ないの」
応接間で、ベアトリーチェは声を荒らげた。テーブルの上には、宛先だけが並んだ空の手紙受けがある。十通送って、十通とも無反応。伯爵家を侮っているのか。母様の友人たちが、母様の娘を無視するのか。
侍女頭のブリギッテが、静かに入ってきた。
「お嬢様」
「ブリギッテ、あなたなら分かるでしょう。母様の友人たちに手紙を送ったのに、誰からも返事が来ないの。伯爵家の名前で出したのに」
ブリギッテは少し間を置いた。この人が言葉を選ぶ時の癖だと、ベアトリーチェは知っている。何か言いにくいことがある時の間だ。
「お嬢様。社交界の招待は——家名だけでは動きません」
「どういうこと?」
「夫人同士の、個人的なお付き合いの上に成り立っております。どの家にいつ手紙を送り、どの茶会で何を話し、贈答品に何を選ぶか。全てお一人お一人との信頼の積み重ねで——」
「それは母様がなさっていたことでしょう? 母様の人脈があるのだから——」
「カタリーナ様がお亡くなりになって、五年が経ちます」
ブリギッテの声は穏やかだったが、揺るがなかった。
「五年の間、そのお付き合いを途切れさせずに維持なさっていたのは——」
「母様の友人たちが、母様の思い出のためにしてくれていたのでしょう?」
「いいえ」
ブリギッテが首を横に振った。その動きが妙にはっきりしていて、ベアトリーチェは言葉を飲んだ。
「全てのお取り計らいは——今の奥様です」
空気が止まった。
「……今の奥様?」
「エーリカ様です」
あの人の名前が、ブリギッテの口から初めて聞こえた。使用人たちも「奥様」としか呼ばなかったのに。
「毎月の手紙、季節のご挨拶、贈答品のお手配、茶会の出席。どの家の夫人が何を好み、どの話題を避けるべきか。お嬢様のデビューに向けた根回しも——全てお一人でなさっておいででした」
ベアトリーチェは何か言おうとした。でも、言葉が出てこなかった。
「伯爵家の社交が維持されていたのは、エーリカ様が三年間、毎日のように手紙を書き、茶会に出向き、一人一人の夫人と信頼を築いてくださっていたからです」
嘘だ、と言いたかった。あの人はいつも控えめで、目立たなくて、母様の影のようにこの家にいただけだ。重要な仕事をしていたなんて——。
けれど、ブリギッテの目は揺らいでいなかった。そして、ブリギッテがこの家の誰よりも正確に屋敷の中を見ていることを、ベアトリーチェは知っていた。
「……ブリギッテ、あなたは知っていたの?」
「はい」
一言だった。その一言に、何か重いものが混じっていた。知っていた。知っていて——何も言わなかった。
「なぜ、教えてくれなかったの?」
ブリギッテは答えなかった。答えなかったことが、答えだった。教えたところで、お嬢様は聞かなかっただろう。ベアトリーチェには、そう聞こえた。
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夜になっても、ベアトリーチェは眠れなかった。
ベッドの上で天井を見つめながら、ブリギッテの言葉を何度も反芻した。三年間。毎日のように手紙を。一人一人の夫人と。全てお一人で。
でも——あの人がしていたことは、所詮は事務的な作業ではないか。母様のような華やかさも、優雅さもなかった。あの人はただ、母様が築いた人脈を引き継いで維持していただけだ。
そう思おうとした。
でも、引き継いで「維持する」ことが簡単なら、なぜ今、招待状の返事が一通も来ないのか。
伯爵家の名前で送った。父の署名も入れた。それでも来ない。
ベアトリーチェは枕元に置いてあった手紙を手に取った。
一週間前、部屋の扉の下に滑り込まされていた、あの手紙。開いた時は一瞥しただけで引き出しにしまった。あの人の字だと分かったから。でも今夜、もう一度開いた。
「デビューのご成功をお祈りしています——エーリカ」
たった一行。
ベアトリーチェは、その一行を見つめた。余白が広い。紙の大半が白い。一行だけのために、わざわざ伯爵家の便箋を使っている。
なぜ、もっと書かなかったのだろう。
三年間この家にいて、一行しか書くことがなかったのか。言いたいことが、なかったのか。恨み言も、説教も、弁明も。何もなかったのか。
……いや。
紙を傾けると、裏に微かな筆圧の跡があった。何か書きかけて、消した痕。何度も何度も、力を入れて書いて、消して、最後に一行だけ残した——そんな跡に見えた。
言いたいことがありすぎて、書けなかったのかもしれない。
ベアトリーチェは手紙を胸元に伏せ、天井を見た。
あの人の名前を、自分が一度も呼んだことがないと気づいたのは——この夜が初めてだった。




