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嫌われていると知りながら三年間あなたの未来を準備していた後妻は、もう戻りません  作者: 九葉(くずは)


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第2話「最後の手紙」

 朝の光が、きれいに片づいた部屋を照らしていた。


 荷物は革の旅行鞄ひとつに収まった。着替え、最低限の身の回り品、実家から持ってきた母の形見の髪留め。それだけだった。三年間住んだ屋敷で、自分のものと呼べるものがこれしかないことに、今さら驚きはしない。この家のものは全て「伯爵家のもの」だった。エーリカ自身も含めて。


 机の上はすでに空だ。昨夜、全て棚にしまった。ただ、足元には丸められた紙が五つ転がっている。昨夜、手紙を書こうとした痕跡だ。


 最初の下書きは長かった。三年間のこと、デビューの準備のこと、各家の夫人方への対応の注意点。ベアトリーチェの好きな花の色や、苦手な話題や、笑うと少しだけカタリーナ様に似ること。書いているうちに、手紙ではなく遺書のようになった。丸めて捨てた。


 二通目は短くした。お元気で。それだけ。でも、嫌味に見える気がした。捨てた。


 三通目は謝罪を入れた。うまくできなくてごめんなさい。でも、謝る理由がエーリカにあるのかと考えて、手が止まった。捨てた。


 四通目は恨み言を書きかけた。一行目で自分が嫌になった。捨てた。


 五通目は白紙に近かった。何を書いても届かないという確信が、指を止めた。


 結局、六通目に一行だけ書いた。


 「デビューのご成功をお祈りしています」


 署名は、エーリカ。この家で誰も呼ばない名前を、自分の手で書いた。


 その手紙を懐に入れて、エーリカは部屋を出た。


---


 侍女頭のブリギッテは、廊下で待っていた。エーリカの旅行鞄を見て、表情が一瞬だけ動いた。けれどすぐに、いつもの落ち着いた顔に戻る。


「お出かけですか」


「はい。少し長くなります」


 ブリギッテは何も聞き返さなかった。聞かないことが、この人なりの礼儀なのだろう。あるいは、聞けばこちらが答えなければならなくなるから。


「いくつかお願いがあります」


 エーリカは、引き継ぎの言葉を並べた。


「棚の資料をお嬢様にお渡しください。各家の夫人への紹介状は三通まで仕上がっています。残りはスケジュール表を見ていただければ。取引先のヘルツォーク商会の夫人には、来月の茶会の返事がまだです。ザイデル家の奥様にはお子様の入学祝いを。贈答品は私の帳面に記録があります。あと——」


 ブリギッテの目が、少しずつ大きくなっていた。


「——カタリーナ様の墓前の花は、月命日に白百合をお願いします。あの方がお好きでしたから」


「奥様」


 ブリギッテの声が、わずかに震えた。


「全て——お一人でなさっていたのですか」


 エーリカは微笑んだ。三年間で最も穏やかな笑みだったかもしれない。


「前の奥様がなさっていた仕事を、引き継いだだけです」


 ブリギッテは何か言いかけて、飲み込んだ。この人も知っていたのだ。エーリカが一人で全てを回していたことを。知っていて、声を上げなかった。前の奥様への忠誠と、後妻への遠慮の間で、沈黙を選んだ。


 責める気持ちはなかった。この家では、エーリカのために声を上げることに価値がなかった。ブリギッテがそう判断したのも、間違いではない。事実、誰が声を上げたところで、何も変わらなかっただろう。


「長い間、ありがとうございました」


 エーリカが頭を下げると、ブリギッテは唇を引き結んで、深く頭を下げ返した。


---


 伯爵の書斎の扉を叩くと、短い返事があった。入ると、グスタフは窓際の机で書類に目を落としていた。エーリカが来たことに気づいて顔を上げたが、旅行鞄には目をやらなかった。


「こちらに署名をいただけますか」


 差し出した紙を、伯爵は受け取った。目を通して、眉をひそめた。


「離縁状か」


「はい」


「……急な話だな」


 三年間、名前も呼ばれなかったことの、どこが急なのだろう。エーリカはそう思ったが、口にはしなかった。口にしたところで、伯爵には「急な話」にしか聞こえないだろう。


「しばらく実家で休むといい。落ち着いたら、また話そう」


 離縁状を受け取りながら、伯爵はそう言った。署名はしなかった。机の端に、読みかけの書類と一緒に置いた。エーリカの三年間が、未処理の書類と同じ場所に重ねられた。


「一ヶ月もすれば戻るだろう」


 その言葉を聞いて、エーリカは確信した。この人は最後まで、自分が何をしていたか知らないまま終わるのだ。そしておそらく、エーリカの名前をこの先も口にしない。


「——そのようにお考えいただいて結構です」


 それが、夫に対する最後の言葉になった。


---


 屋敷の裏庭を抜け、小さな丘の上にある墓所に向かった。カタリーナ・ヴォルフスブルクの墓碑は、朝日に白く光っている。石の前に、白百合を一輪供えた。花屋に頼んで、今朝届けてもらったものだ。月命日にはまだ早いが、次の月命日には、もうここにいない。


「カタリーナ様」


 声に出すと、朝の空気に溶けるように消えた。


「三年間、お世話になりました。あなたの娘を守ろうとしましたが、嫌われたまま終わりました」


 風が草を揺らした。カタリーナ様がどんな方だったか、エーリカは直接知らない。肖像画の中の女性は黒髪で、目が大きくて、笑っていた。ベアトリーチェに似ている。いや、ベアトリーチェがカタリーナ様に似ているのだ。


「せめてデビューだけは、と思いましたが、同席するなと言われました」


 白百合が風に揺れた。


「あなたの家で、私の名前を呼ぶ人は——一人もいませんでした」


 墓石は何も答えない。当然だ。生きている人すら答えなかったのだから。


 エーリカは立ち上がり、墓碑に手を添えた。冷たく滑らかな石の感触が、指先に残った。


---


 屋敷に戻り、二階の廊下を歩いた。ベアトリーチェの部屋の前を通らなければ、玄関には出られない。


 扉の向こうから、笑い声が聞こえた。


「デビューの日、あの人がいないだけで、こんなに気持ちがいいの」


 侍女と話しているのだろう。声が弾んでいた。三年間聞いたことのない、明るい声だった。


 エーリカは足を止めた。


 不思議と、怒りはなかった。悲しみとも少し違った。ただ、とても静かな気持ちで、懐から手紙を取り出した。


 一行だけの手紙。三年分の想いが指先まで来て、でも紙の上には一行しか残らなかった手紙。


 扉の下の隙間に、滑り込ませた。


 読まれるかどうかは分からない。読まれなくてもいい。これはベアトリーチェのためではなく、エーリカ自身のための最後の儀式だ。三年間、この家の誰かのために手紙を書き続けた人間の、最後の一通。


 笑い声は続いていた。エーリカは足音を立てず、廊下を歩き出した。


---


 玄関で靴を履き替え、門の前に停めてあった馬車に乗り込んだ。御者には昨夜のうちに行き先を伝えてある。学生時代の友人、子爵夫人の別邸。遠すぎず、近すぎない場所。


 馬車が動き出した。


 砂利道の振動が、革の鞄を揺らした。窓の外を、見慣れた並木が流れていく。三年間、毎朝この並木を見ていた。茶会に出かける時も、贈答品を届けに行く時も、カタリーナ様の墓に花を持っていく時も。


 門が近づいた。


 振り返れば、屋敷が見える。あの屋敷の一番奥の棚に、引き出し三段分の三年間が残っている。読める人がいれば、ベアトリーチェのデビューはまだ間に合うかもしれない。読む人がいなければ、それまでのことだ。


 馬車が門を出た時、エーリカは一度も振り返らなかった。


 振り返れば、戻ってしまいそうだったから。

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