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嫌われていると知りながら三年間あなたの未来を準備していた後妻は、もう戻りません  作者: 九葉(くずは)


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第1話「母の代わりにはなれません」

「社交界デビューに、あなたに同席してほしくありません」


 義娘の言葉を、エーリカは数えていた。同じ趣旨のことを、この三年間で四十七回聞いている。言い回しは少しずつ変わった。「来ないでほしい」から「いないでほしい」になり、やがて「同席してほしくない」という、貴族の令嬢らしい丁寧な拒絶に整った。


 成長したのだと思う。言葉遣いだけは。


 夕食の席だった。燭台の灯りが銀器に反射して、食堂は穏やかに見える。ベアトリーチェは真っ直ぐにエーリカを見ていた。十七歳の瞳には怒りよりも確信がある。自分は正しいことを言っている、という確信が。


「母の友人たちがいらっしゃるの。あなたがいたら気まずいでしょう? 母の代わりにはなれないのだから」


 テーブルの向こうで、伯爵グスタフがフォークを置いた。


「ベアトリーチェ、言い方を——」


「お父様、事実でしょう?」


 沈黙が落ちた。


 伯爵は目を伏せ、それ以上何も言わなかった。皿の上のローストが冷めていく音すら聞こえそうな静けさの中で、使用人たちも壁際で目を逸らしている。誰もエーリカを見ない。誰もエーリカの名前を呼ばない。


 この沈黙を、エーリカは知っている。三年間で最も慣れ親しんだものだ。そして、三年間で最も鋭い刃だった。


 ベアトリーチェの言葉は痛い。けれど、はっきりしている分だけ受け止められる。本当に堪えるのは、隣にいるはずの人の沈黙だ。言い返さないのではない。言い返す価値を、この場に見出していないのだ。エーリカという人間の痛みに、言葉を使う価値を。


「——分かりました」


 四十七回目の「分かりました」だった。


 声は平坦で、震えてもいなかった。三年前の最初の一回は、確かに受容だった。この家に嫁いだのだから、義娘との関係を築くには時間がかかる。分かっている。我慢しよう。そう思えた。


 十回目あたりで、それは忍耐に変わった。


 三十回を過ぎた頃には、諦めになっていた。


 四十七回目の「分かりました」は——降伏だった。


 もう、何も変わらない。


 エーリカはナプキンを膝から取り、静かに畳んだ。食事はほとんど手をつけていなかったが、誰も気づかない。ベアトリーチェは満足そうにスープを掬い、伯爵は窓の外に視線を逃がしている。


「お先に失礼いたします」


 椅子を引く音が、やけに大きく響いた。ベアトリーチェが一瞬だけ顔を上げたが、すぐにスープに視線を戻した。伯爵は窓の外を見たままだった。


 食堂を出る時、エーリカはふと振り返りたくなった。自分が座っていた席を見たかった。でも、やめた。見たところで何も変わらない。あの席は三年前からずっと、「客人の席」だった。家族の席になったことは、一度もない。


---


 自室の扉を閉めると、静けさが変わった。食堂の、誰かに見られている静けさとは違う。ここだけが、エーリカの場所だった。


 机の上には、書きかけの手紙が二十通ほど積まれている。各家の夫人への挨拶状。季節の贈答品の礼状。デビュー前の根回しの手紙。全てエーリカの筆跡で、全て伯爵家の名前で送られる。ベルクマン子爵夫人には桃の砂糖漬けのお礼を、シュトルツ男爵夫人には次女の婚約への祝辞を。ヘルツォーク商会の夫人には来月の茶会の日程確認を。どの手紙にも相手の好みと事情が反映されている。誰が甘い菓子を好み、誰が最近義母を亡くし、誰の息子が士官学校に受かったか。三年かけて積み上げた、他人の人生の地図だ。


 その隣には、ベアトリーチェのデビュー関連の資料が並んでいる。縁談候補三家の家系図と交渉メモ。ヴァイス侯爵家の長男は読書家で、趣味が合うかもしれない。ライヒェルト伯爵家の次男は馬術が得意で、ベアトリーチェの乗馬好きと話が合うだろう。フリードリヒ子爵家は家柄は控えめだが、当主夫人が教養深く、若い嫁を大切にする家風がある。どの家の母親とも、エーリカは個人的に手紙のやり取りを重ね、茶会で顔を合わせ、信頼を築いてきた。


 ドレスの生地見本帳。ベアトリーチェの成長に合わせて、毎季こっそりサイズを確認し、デビュー用のドレスを仕立て屋に相談していた。本人に聞けないから、ブリギッテに頼んで洗濯物のサイズ表示を確認してもらった。薄紅色が似合うと思った。カタリーナ様に似た黒髪に映える色だ。


 ベアトリーチェは、この部屋に一度も入ったことがない。


 エーリカはしばらく、机の上の書類を眺めていた。手紙の下書き。交渉メモ。日程表。生地見本。三年分の、誰にも見られなかった仕事が、ここにある。


 この家で「エーリカ」と名前で呼ぶ人は、一人もいなかった。使用人たちは「奥様」と呼ぶ。それは敬称であって、名前ではない。ベアトリーチェは「あの人」と言う。伯爵は——名前自体を口にしない。三年間、一度も。


 嫌われていると分かっていた。


 感謝されないと分かっていた。


 それでも、この家の娘が社交界で恥をかかないように準備した。それが後妻の務めだと思った。カタリーナ様の遺された場所を、誰かが守らなければならないと思った。


 けれど今夜、四十七回目の「分かりました」を口にした時、何かが静かに、音もなく折れた。


 もう一度だけ頑張れば。もう少しだけ我慢すれば。そう思って三年間を過ごしてきた。でも「もう少し」の先には、また「もう少し」があるだけだった。待っていたのは感謝ではなく、次の「分かりました」を差し出す場面だった。


 エーリカは椅子に座り、書類を一枚ずつ手に取った。


 そして、棚にしまい始めた。


 手紙の下書きは、宛先ごとに分類して。交渉メモは時系列順に。日程表には各家の夫人の好みと禁句を注記して。生地見本帳にはサイズ記録を挟んで。誰が見ても分かるように、丁寧に整理した。


 最後に残ったのは、私的なメモ帳だった。日々の記録。茶会の反省。贈答品の効果検証。そしてページの隅に、自分だけに宛てた走り書き。


 ——嫌われていると分かっています。それでもこの子が恥をかかないように。


 エーリカはそのメモ帳も棚に入れた。入れてから、少し迷った。この一節は見られたくなかったかもしれない。でも、もういい。見る人がいるかどうかも分からないのだから。


 三年分の仕事が、引き出し三段に収まった。


 思ったより少ない。


 いや——三年分の人生が引き出し三段に収まる方が、異常なのだ。


 エーリカは引き出しを閉め、鍵をかけなかった。鍵をかければ、誰にも読まれない。それでは意味がない。せめて、デビューの資料だけは使ってほしかった。嫌われていた人間の字であっても、中身は正確だ。


 窓の外では、月が中天にかかっていた。穏やかな夜だった。三年間住んだ屋敷の、最後の夜になるかもしれない夜が、何の変哲もなく静かなことに、エーリカは少し笑った。


 劇的なことは何もない。泣きたいわけでもない。ただ、もう「分かりました」を言う気力が、四十八回目の分まで残っていないだけだ。


 翌朝、エーリカは荷物をまとめた。持ち物は驚くほど少なかった。この家に自分のものと呼べるものが、ほとんどなかった。


 棚の書類だけは残しておいた——読める人がいれば、の話だが。

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