第9話「エーリカ・ミュラーの舞踏会」
招待状は、白い封筒に入って届いた。
宮廷の紋章が押された封蝋。宛名は、金の細い筆記体で記されている。
エーリカ・ミュラー様。
伯爵夫人ではない。ヴォルフスブルクの名前ではない。エーリカ・ミュラー。旧姓の、自分だけの名前。それが宮廷の正式な招待状に、初めて記された。
エーリカは封筒を開いた。宮廷秋季舞踏会への招待。社交行事顧問としての出席依頼。自分が席順を組み、話題を配分し、裏方の全てを設計した舞踏会に——今度は、客として招かれている。
裏方ではなく。影ではなく。名前を持った一人の人間として。
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前夜、執務室で最後の確認をしていると、レオンハルトが入ってきた。
「明日の準備は整いましたか」
「はい。席順表は侍従長にお渡ししました。食事の手配も、音楽の選定も」
「それは仕事の話です」
レオンハルトが少し笑った。
「あなた自身の準備は?」
エーリカは戸惑った。自分自身の準備。舞踏会に「出る」準備。三年間、裏方しかしたことがない。席順は組めるが、自分がどこに座るかは考えたことがなかった。
「私が——隣にいていいのでしょうか。王弟殿下の隣には、もっとふさわしい方が」
レオンハルトの表情が少し変わった。穏やかなまま、けれど真剣になった。
「ふさわしいかどうかは、私が決めます」
一拍、間を置いた。
「……いいえ、違う。あなたが決めることです。いてほしいのは私です。でも——選ぶのはあなたです」
三年間、「いなくていい」と言われ続けた。「同席しないで」と言われた。食堂の席は客人の席で、家族の席にはなれなかった。
今、「いてほしい」と言う人がいる。
でもこの人は、「いろ」とは言わない。「選べ」と言う。
「私は——」
エーリカは自分の声を聞いた。震えていない。
「あなたの隣にいたいです。エーリカ・ミュラーとして」
レオンハルトが微笑んだ。月明かりが窓から差し込んでいた。あの夜、初めて名前を呼び合った時と同じ光だった。
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舞踏会の当日。
ドレスは、薄紅色だった。仕立て屋は——三年前、ベアトリーチェのために通っていた店だ。あの頃はベアトリーチェの体に合うドレスを相談していた。今度は、同じ仕立て屋が、エーリカのために仕立ててくれた。
「黒髪に薄紅色が映えると、以前おっしゃっていましたね」と仕立て屋は言った。「でも、亜麻色のお髪には——もっと映えますよ」
鏡に映る自分を見た。伯爵家にいた頃は、控えめな色のドレスしか着なかった。後妻が華やかにしては目障りだと思ったから。今日のドレスは、自分のために選んだ色だ。
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視点:レオンハルト
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舞踏会場のシャンデリアが、百の灯りで天井を照らしていた。
招待客が集まり、音楽が静かに流れている。レオンハルトは入口に近い柱の傍に立ち、人の流れを見ていた。
エーリカが現れた時、会場がわずかに——ほんのわずかに、静まった。
薄紅色のドレス。亜麻色の髪を緩くまとめた、控えめだが品のある装い。三年間、裏方に徹していた人がこんなにも光に映えるのだと、レオンハルトは思った。知っていた。宮廷祭の裏方で初めて見た時から、この人は光の中にいるべきだと。
エーリカの前に歩み出た。手を差し出した。
「エーリカさん」
名前で呼んだ。会場の誰もが聞こえる声で。
「後妻でも、前妻でもなく——あなたとして踊りたいのです」
エーリカが目を見開いた。そして——笑った。あの走り書きに「嫌われていると分かっています」と書いた人が、光の中で笑っている。
エーリカの手が、レオンハルトの手に重ねられた。
温かかった。
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視点:ベアトリーチェ
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客席の隅から、ベアトリーチェはその光景を見ていた。
舞踏会の中心で、エーリカが踊っている。王弟と。シャンデリアの光が二人を照らしている。薄紅色のドレスが回るたびに、光を弾いている。
あの人は——あんなふうに笑う人だったのだ。
伯爵家では、一度も見たことがない笑顔だった。いつも控えめで、目を伏せていて、声を小さくして。あれは——萎縮していたのだ。自分が追い詰めていたのだ。
ベアトリーチェは目を逸らさなかった。見なければならないと思った。あの人が光の中にいる姿を。あの家の暗い廊下ではなく、ここにいるべきだった人の姿を。
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視点:エーリカ
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舞踏会が終わり、宮廷の自室に戻った。
ドレスの裾を整え、髪留めを外し、椅子に座った。窓の外に月が見える。静かな夜だった。三年前の最後の夜も静かだった。あの夜は、引き出し三段に人生をしまった。今夜は——。
机の上に、手紙が置かれていた。
侍従が預かっていたらしい。封筒に、見覚えのある家紋。ヴォルフスブルク伯爵家の紋章。
開いた。
長い手紙だった。
ベアトリーチェの字で、何枚にもわたって書かれている。あの夜、エーリカが一行しか書けなかった手紙への返事のように、ベアトリーチェは何枚も書いていた。
あなたが準備してくださった資料を全て読みました。縁談候補の交渉メモも。各家の夫人への手紙の下書きも。ドレスのサイズ記録も。「嫌われていると分かっています」と書かれたメモも。
自分がどれだけ残酷だったかを知りました。母を亡くした悲しみを、あなたにぶつけていただけでした。母が望んでいたのは、あなたを追い出すことではなく、あなたを家族として迎えることだったのに。
棚の資料を手がかりに、自分で手紙を書き始めました。まだ返事は少ないけれど、一通だけ、シュトルツ男爵夫人から「お待ちしております」と届きました。あなたが三年かけて築いたものの上に、私の名前で手紙を書いています。
最後のページ。字が少し揺れていた。泣きながら書いたのかもしれない。
嫌われていると知りながら、三年間、ありがとうございました。
エーリカは手紙を膝の上に置いた。
一行の手紙に、長い手紙が返ってきた。三年分の拒絶の後に、何枚もの言葉が届いた。遅かった。遅すぎた。でも——届いた。
涙が一粒、手紙の上に落ちた。
拭わなかった。
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窓の外の月を見上げた。
嫌われていると知りながら三年間、あの子の未来を準備した。
でも——もう戻らない。
私の名前はエーリカ・ミュラー。この名前で、自分の未来を生きていく。自分の名前で招待され、自分の名前で呼ばれ、自分の名前で踊る。
棚の引き出しには、もう何もしまわない。
これからは——自分のために、手紙を書く。




