第78話 ふたつの太陽、ふたつの影
「誰ひとりとして切り離されない」
平然とした声で、ハルジオンが言った。
「お前がいつも言っているやつだ」
エンジュの目に悲しみが満ちた。
だけど視線は逸らさなかった。
「もっともな理念だ。だが、お前自身が体現していない」
ハルジオンは攻め込むような顔つきで言った。
——誰ひとりとして切り離されない。
以前エンジュが神殿で確かに言っていた。
でもそれってこの国の信仰じゃないの?
「ひとりで背負っているのはお前だろう、エンジュ」
ハルジオンとエンジュが真っ直ぐに向かい合った。
二本の柱みたいにふたりは並んでいる。
私は、その高さに届かない棒切れみたいに、ふたりを見上げた。
だから私は……。
目の前のお肉と向き合った。
さっき、ハルジオンは、全部食べていいって言った。
スープも冷めかけている。
ナナリエのことは伝えた。
ハルジオンとエンジュの問題は、ふたりで話せばいい。
私がまず解決すべきは、美味しいものを美味しいうちにいただくという問題だ。
「お前は何を背負っているんだ」
私はひとまずスープを飲んだ。
「……ごめん。言えない」
「なぜだ」
やっぱりちょっと冷めてる。どうせならもっと冷ますか。
「家門の伝承に関わることは言えない。それに……」
先にサラダを食べてしまおう。
「それに、言ったら現実になってしまいそうで怖いんだ」
「若宮司になったときに何か知らされたというのか」
「……ごめん」
「では、ソラリスの出自は?」
「心当たりはある。でも本人すら知らないかもしれないことを、僕からは言えない」
「先代の環王が亡くなったとき、お前は何かを見たのか」
「……それは」
よし、サラダが終わったから、いよいよお肉だ。
「……それも、言えないよ」
「だったら——」
フォークに刺したお肉が私の口を目掛けてやってくる。
なんていい赤身なんだ。
「——この子はなんなんだ」
あ?
高いところから、ふたりの男が、私の食事をまじまじと見ている。
「ヨルカもお前が背負うもののひとつなのか」
お肉。
食べようとしているのに。
そんなふうに見られてると、手が止まる。
「ヨルカ様は……」
エンジュが胸元に手を当てた。
「僕なんかが背負えるものじゃない」
苦しそうに、悔しそうに俯いた。
「だけど、ごめん。何も答えられない。全部同じことだ」
エンジュはすぐに顔を上げて、私を見た。
少しだけ微笑む。いつもの穏やかなエンジュだった。
琥珀と翡翠が並んで、とってもきれいだった。
「邪魔してごめんね」
「食事を続けろ」
エンジュは微笑み、ハルジオンは呆れた。
私はようやくそこで。
お肉を受けるために、ずっと口を開けたままだったことに気づいた。
恥ずかしい。
でも食べる。
私のお肉。
「だが」
ハルジオンの低い声が落ちた。
「ナナリエとソラリスが対であること。これはひとりで背負わなくて良かったんじゃないか」
……柔らかくて美味しい。
噛めば噛むほど肉汁が出てくる。
しっかり噛んで、飲み込み終わると、エンジュの弱々しい声が聞こえてきた。
「ナナリエと並ぶために、君がどれだけ努力してきたか……知ってる」
エンジュの声はとても慎重だった。
足元を踏み外さないように。
「……それを僕の手で壊すのが怖かったんだ」
でも、慎重に進んだからといって、踏み外さないとは限らない。
「壊す?」
ハルジオンが鼻で笑った。
「俺が壊れそうに見えたということか」
「違うよ、壊れるのはハルジオンじゃなくて……」
「そんなに弱く、頼りなかったのか。お前にとって俺は」
ハルジオンはエンジュの話を割と遮る。
「……そうじゃない。ハルジオンが誰よりも優しくて強いって、僕は知ってる」
そして不意を突かれると、エンジュの話は割と崩れやすい。
「そう思っているようには見えないが」
「思っている」
「傷つきやすくて脆い人間だとでも思っているんじゃないのか」
「そんなわけない!」
「俺ばかりが、お前に寄りかかっていた」
「違うよ……」
「お前が背中を預けられるような相手じゃなかったんだろう、俺は」
「どうしてわかってくれないの!」
エンジュの声は切実だった。
だけどハルジオンはどこまでも淡々としている。
「わからないな。お前が何も言わないから」
「……」
「お前が何か背負っていることを、俺は気づいていなかった」
「それは僕が隠していたから……」
エンジュががっくりと項垂れた。
ハルジオンも目を伏せた。
私は最後の一切れを口に入れた。
「だが、ナナリエとソラリスは気づいていた」
「……ハルジオン」
エンジュが涙ぐんだ目で顔を上げた。
「お前の苦しみに気づけなかった自分が許せない」
私の視界で、ハルジオンの拳が固く握られるのが見えた。
「……僕がソラリスのことを君に言わなかったから、君は僕に相談もせずに今回のことを決断したってこと?」
部屋の中に沈黙が落ちた。
横目でちらりと確認したとき、ハルジオンの拳はすでに緩んでいた。
「……そういうことにしておこう」
「ハルジオンは間違ってる」
柔らかい翡翠の瞳に精一杯力を込めて、エンジュが睨みつけた。
「仮に僕に怒っているなら、ナナリエには相談したら良かった」
ハルジオンは力の抜け切った手のひらを、そっと胸に当てた。
「……怖い」
声からも力が抜けている。
「ナナリエから答えを聞くのが怖かった——」
「ハルジオン……」
エンジュがそっと手を伸ばす。
その手が触れる直前で、ハルジオンが素早くエンジュの腕を掴んだ。
「——この答えなら、納得するか」
琥珀の目ではっきりと睨んでいた。
「……そんな言い方、ひどいよ」
翡翠の目が弾き返す。
「エンジュ、お前は間違っている」
エンジュの腕を掴む、ハルジオンの指に力が入る。
「常々お前の言う、誰ひとり切り離されない。それにお前は入っているのか?」
「それ……」
「私はお前を切り離させない」
「ねえ、それ……!」
エンジュが腕を引くと簡単にハルジオンの手は離れた。
「君の願いでもあるだろう?先生がいなくなってから、ふたりで決めたじゃないか!」
また、先生。
玉座から逃げられなかった、先生。
それって——
ハルジオンの逸らした視線が、こちらへ向く。
でも、私を見ているわけじゃないみたいだ。
「俺はいい。この国が安定して、そこに住む人々が苦しんでいなければ」
「忘れちゃったの……?」
「取り残される者がいないのなら、それで十分だ」
身体ごと、ハルジオンはエンジュに背を向けた。
「誰ひとり切り離さないって、最初に言ったのはハルジオンだろう!」
その背中にエンジュが声を投げかける。
「だから僕は、そんなハルジオンのそばにずっといるって決めたんだ」
「これからはナナリエとソラリスを支えればいい」
静かに目を伏せる。
「……それが若宮司の務めだ」
「いやだよ!」
エンジュが叫んだ。
そして再びハルジオンに手を伸ばしかけた。
そのとき。
「若君!こちらでしたか!」
部屋の中に緑色の髪の人たちが雪崩れ込んできた。
「おひとりで神殿をお出になられては困ります!」
神殿の若い神官たちだろうか。
エンジュに触れない程度に近づき取り囲んでいる。
「もう来ちゃったの」
エンジュは苛立ったように言った。
「エンジュ様」
大人たちに混じって、ひとりだけ背の低い少年がエンジュに近づいた。
「エンジュ様、神殿にお戻りください」
「……ナギ」
神殿の子どもの中で、特にエンジュからお遣いを任されることが多い少年、ナギだった。
エンジュは自分を取り囲む神官たちに冷たい目線を投げかけた。
「子どもを連れてくるなんて、ずるいじゃないか」
「エンジュ様」
ナギは屈託のない目で、エンジュを見上げた。
その純真さに負けたように、エンジュの力が抜けた。
「君には君の居場所がある」
いつもの落ち着いたハルジオンの声だった。
赤く染まった翡翠の目がハルジオンを見つめる。
「もう、何も言わなくていい」
ハルジオンがぽつりと言った。
「え……」
エンジュの肩がぴたりと固まる。
「ソラリスは、知らないまま背負うと言った」
「ナナリエは、君自身の口で話す日を待っている」
ハルジオンはエンジュを真っ直ぐに見つめた。
「ならば私は違う」
ただ真っ直ぐに言った。
「君が言えないなら、自分で辿り着く」
「ハルジオン……」
窓から入る陽射しがかげって、床に落ちる影が消えた。
「その日まで、もう何も言わなくていい」
ハルジオンはゆっくり扉に近づき、外へ出るよう促した。
エンジュはナギに押されるように部屋を出て行った。
神官たちが深々と礼をして立ち去る。
ハルジオンは静かに扉を閉めた。
誰ひとり切り離さない。
いつ、その願いはふたりのものになったんだろう。
言葉を交わしたのか。
それとも、同じ背中を見て歩くうちに、自然と同じ願いになったのか。
だけど、ふたりとも——
“誰ひとり”の中に、きっと自分のことだけ入れ忘れてしまったのかもしれない。
他の全てを大切に見つめても、自分のことだけ見てなかったんだ。
エンジュにはハルジオンの影が見えていた。
ハルジオンにはエンジュの影が見えていた。
だけど、後ろに伸びる自分の影だけは、気づかないふりをしていたのかもしれない。
春の陽は少しずつ夏へ向かい、足元の影は、ほんの少しだけ短くなっていた。




