第77話 ふたりの誤差
「どうしてひとりで決めたんだ」
エンジュの声は低く響いた。
ゆっくりとハルジオンに歩み寄る。
「議会で告げた。異議は出なかった」
ハルジオンの声はひどく落ち着いていた。
「そうじゃなくて……」
エンジュの声はもどかしそうに震えていた。
その続きを言うのを躊躇うように、エンジュは視線を落とした。
視線を落としたまま、質問を変えた。
「……どうして降りたの?」
「答えのわかっていることをわざわざ聞くんだな」
ハルジオンは棘のある声で言った。
そしてその声は自分すらも突き刺すように言う。
「別解が出た」
冷たい目を一度だけ細める。
「……ソラリスだ」
ソラリス。
その眩しい顔が、焼き付くように脳裏に浮かんだ。
ハルジオンはエンジュから目を逸らさない。
目の前の友人の一挙一動を逃さず測るようだった。
エンジュは顔を上げた。
真っ直ぐハルジオンを見る。
「そっか」
エンジュは力無く笑った。
「ハルジオンも気づいてしまったよね」
それはいつもの、萎れているときのエンジュだった。
「……翡翠の血を引いてるもんね。王位を継ぐ者としても」
弱々しく笑うエンジュに、ハルジオンは少しも優しくならなかった。
「それはもう降りた。——いや、正確には当主会議を待たねばならないが」
……ソラリスが理由。
「じゃあ、ソラリスとナナリエが……」
私はハルジオンの顔を見上げた。
ハルジオンは冷め切った目でエンジュを見つめたままだ。
「聞く相手が違う」
その言葉に、私はエンジュを見た。
エンジュはゆっくりと目を閉じた。
閉じるまぶたに力が入る。
「そうだよ」
再び翡翠の瞳がその姿を現した。
「僕は気づいてしまったんだ。ふたつの太陽に」
透き通るような美しい瞳は、今度こそハルジオンから逸らされることはなかった。
ハルジオンの肩が少しだけ強張るのが見えた。
「だけど」
エンジュの声がはっきりとした輪郭を取り戻す。
「僕の気づきなんて重要じゃない」
声に怒りがこもる。
「どうして、ナナリエに何も相談しなかったんだ」
「……もうナナリエに会ってきたのか」
ハルジオンの声に勢いがなくなる。
エンジュはかまわず踏み込む。
「会っていないよ。一番に君のところへ来た」
「だったら……」
「わかるよ。ナナリエに相談していたらこうはならなかった」
「結果は同じだ」
「違うよ」
「議会で、彼女の答えはすでに聞いている」
「それは——」
「ナナリエは」
エンジュの言葉を遮るようにハルジオンは一段語気を強めた。
「私のことは二つ返事で手放した」
「……だが、この子のことは、強く抵抗した」
琥珀の瞳が私を捉えた。
この目だ。
あのときもナナリエの背中に向けられていた。
訴えるような、祈るような、すがるような目。
——私の大切な友人。
その言葉が、どれだけ嬉しかったか。
そして同時に、その言葉がどれだけハルジオンを傷つけたのか。
ハルジオンには、突然現れた私の方がナナリエの心を動かしたように見えたのかもしれない。
でも。
「いや……」
私の口から言葉が漏れた。
「違う気がします」
「何が違うと言うんだ」
私は知っているかもしれない。
ナナリエが、受け入れた理由を。
『……お兄様、今の仕事を楽しんでいるの』
手に持った布巾をぎゅっと握りしめて言った、その言葉を私は忘れていない。
『でも王になったら、もう統治には関われない』
ナナリエはハルジオンのことをよく見ている。
何が好きなのか、どんなときに苦しむのか。
そしてハルジオンが、決めたら迷わない人だって。
私にそう言った。
「それは……」
だけど私も、今回のことをナナリエに確認したわけじゃない。
勝手に人の心を決めることはできない。
「それは、ハルジオン殿下がナナリエに直接聞かなければ意味がないことです」
「すでに聞いたと言っただろう」
ハルジオンは顔をしかめた。
「ナナリエがソラリスを探している。それが答えだ」
「たしかにソラリスを探すとは言ったけど」
エンジュがハルジオンの肩をそっと掴んだ。
「それは検証しようとしているんだと思う」
「検証だと?」
ハルジオンが怪訝そうにエンジュを睨んだ。
ハルジオンの肩を掴むエンジュの手に、ぐっと力が入るのが見えた。
「君は状況証拠が揃えば動く。だけどナナリエは仮説を立てている段階だ。ソラリスが自分と対になる存在なのか」
「国庫を費やしている。婚礼準備だけは止めなければならなかった」
「王位継承権については当主会議に差し戻した。仮説を検証する時間は十分にあるだろう。それに……」
ハルジオンはエンジュの手を振り払った。
「ナナリエの仮説が実証されたら解は同じだ」
さっきまで私に見せた迷いの色は、もう何もなかった。
言葉にしながら、自分自身を納得させていっているのかもしれない。
エンジュは眉を少し下げて言葉を探しているみたいだった。
ハルジオンが付け加えるように鼻で笑った。
「……まあ、次の春まで何が最適だったのか、理解できる者はいないだろう」
いつも厳しいけど、他人を見下すような人じゃないと思う。
でも今のハルジオンは、誰かを見下しているというより、自分以外の誰も信じられなくなっているように見えた。
「そうだね。次の結環の儀まで……きっと証明されない」
エンジュが目を伏せた。
たった二ヶ月前に開催された春のお祭り。
来年のその日まで待たなければ、本当の王様はわからないってこと?
そこまで保留にできないから、ハルジオンはひとりで決行したの?
「……でも、それでも」
私は疑問に思っていたことを口にした。
「せめて議会で、別の候補者がいるから一度保留にしてって言えばよかったじゃないですか」
ハルジオンが鋭い目で私を睨んだ。
「本人の意思を確認していない」
「本人の意思?」
「議会前にソラリスに会えなかった。議会で周知すればソラリスは逃げられなくなる」
「ソラリスが逃げる……?」
私にはこの国の王のあり方がわからない。
王になれるって言って、なりたくない人がいるってこと?
たしかにソラリスなら言いそうではあるけど。
ハルジオンの握った拳が震えた。
「見つかってしまったら、玉座からは逃れられない……」
泣きそうな目だった。
エンジュの、息を呑む音がした。
「ハル……もしかして、先生のことを言っているの……」
エンジュの声に動揺が混じっている。
先生。
誰のこと?
そういえば以前、エンジュの心にずっと残っている先生がいるって言っていた。
幼い頃、エンジュが翡翠宮の学舎でハルジオンと一緒に学んだ、そのときの先生。
ふたりにとって大切な存在だったんだろうか。
エンジュも言葉を失っていた。
私だけが、その意味を知らなかった。
完全な部外者だ。
この場で、何も知らない私に言えることなんてない。
でも……。
ひとつだけ言いたいことがある。
「本人の意思の確認というなら」
きっとハルジオンは受け止めてくれないけど。
友達のことだけは、言わせてもらってもいいだろうか。
「ナナリエの気持ちを確認してください」
「だから何度も……」
「ナナリエは殿下が決断したから了承した。殿下が軽く決断する人じゃないって信頼しているから。でも、その返事だけでは、ナナリエがどうしたかったのかはわかりません」
ナナリエはハルジオンをよく見ている。
ハルジオンもナナリエをずっと見てきたんだろう。
ふたりの間には時間をかけて積み重ねてきた「信頼」がある。
とても強い「信頼」が。
「信頼」が、このふたりから「言葉」を奪っているんだとしたら。
「どうしたいのか、聞いてください」
答えはわからない。
でも勝手に推し量ってはいけないと思う。
「さっき殿下が消そうとしたもの。今までの積み重ねとか、迷いとか、消したかったもの。たぶんそれ、ナナリエからも奪っています」
お互いにしか、確かめられないことがある。
確かめなければ、埋まらない誤差がある。
「美しくないものだとしても、消すんじゃなくて、伝えるべきことなんじゃないですか」
「……感情、と言いたいのか」
ハルジオンは納得できないという顔で首を振った。
「国の安定より優先されるものはない。それはナナリエも理解している」
……私の言葉が、簡単に届くとは思っていない。
それに、私が動かせるものじゃない。
ナナリエが今後どうするかも含めて、私には何もわからない。
少しだけ肩の力が抜けた。
その目の前でエンジュが一歩だけハルジオンに詰め寄った。
「……ハルジオンの気持ちは?」
エンジュがやるせない声で問う。
「より拾う価値のないものだ」
静かな声で、ハルジオンは言い切った。
「どうしてひとりで決めたんだ」
エンジュが再び、同じ問いを口にした。
最初の問いとは違って、全身を震わせて、絞り出すような声だった。
「ひとりで背負う必要なんてなかったじゃないか」
ハルジオンは突き刺すような視線をエンジュに向けた。
その言葉を待っていたように、小さく口が開く。
「君がそれを言うのか」
議会で発言したときから、ハルジオンはエンジュを待っていたのかもしれない。




