第75話 「解」
正午。
王都の中心にそびえる時計塔から、腹に響く鐘の音が鳴り渡る。
十二色相環の盤面では、琥珀が陽の光のように輝いていた。
正午は、琥珀の時間だ。
いつもなら議長が議会の終わりを告げ、議員たちは誘い合いながら昼休憩に向かう頃。
けれど今、誰ひとり動かなかった。
空気すら止まっていた。
その中で唯一揺れていたのは、立ち上がったハルジオンの金糸のような髪だけだった。
「両陛下の御前にてひとつ、言上申し上げたい」
ハルジオンは北側の玉座を見上げた。
自分の父親と母親に向けるものとは思えない、色のない事務的な目だった。
玉座へ深々と一礼すると、ハルジオンは議場に響く声で告げた。
「本日をもって、私スヴェロギ・ハルジオンと、我が従妹ユニワ・ナナリエとの婚約を解消する」
議場から温度が消えた。
誰もその意味を測れずに静止した。
「ならびに我々二人の王位継承の再考を求める」
議場内には、小さく息を呑む音だけが漏れた。
「本件は私情によるものではない。王国の安寧を鑑み、より適切な形を求めんとする熟慮の結果である」
熟慮の結果。
常に状況を正確に読み、適正な配置をするハルジオンの結論。
その言葉の重さを、誰もが理解していた。
目の前で青が動いた。
東側の後方に座る瑠璃宮の議員たちが驚きのあまり立ち上がったのだ。
「我らが姫の資質を疑うというのか」
「落ち着け。王子殿下は両者の王位継承の再考を求めると言っている」
「別の組み合わせを検証しろと言うことか」
別の組み合わせ。
その言葉に、ソラリスの顔が一瞬よぎった。
夜空のように深い青の議員たちが、静かに状況を整理している。
右手側ではサファイヤ宮の議員たちも静かに囁く。
「王位継承の見直しは議会の管轄外ですね」
「ええ。継承者の選定は四宮当主会議の権限です」
「……婚約の解消については、本議会の議決事項ですが」
左手側のアメジスト宮は少しだけ感情が漏れていた。
「我々東側は王女殿下を支持する」
「そうだ。王女殿下ほど、聡明で国を想っておられるお方はいない」
議場内のざわめきは拡大していった。
南側では赤い人たちが、西側では黄色い人たちが。
立ち上がったり、隣同士で顔を見合わせたりして、険しい顔で言い合っている。
だけど、気づいた。
ざわめく議場の中で、中心部だけが静まり返っていることを。
最前列の大臣たちは沈黙していた。
目を見開いてハルジオンの顔を見る者、心配そうにナナリエを見つめる者、目を伏せ静かに理解する者。
十二の宮の大臣たちは、それぞれにハルジオンの発言を受け止めているようだった。
——何が起きたんだろう。
大臣たちの表情に、私はようやく、何か大変なことが起きているのだと理解した。
婚約の解消?
王位継承の再考?
わからない。
何がどう繋がっているのかわからない。
いつも通りの議会で、ハルジオンはいつも通り議論を回していて、ナナリエもいつも通りハルジオンを信頼していたのに。
どうして最後に、ハルジオンはそんな発言をしたの?
どうしていつも通りの淡々とした口調と表情なのに、あんなに苦しそうなの?
楽しそうに婚礼の進捗を確認していた大臣たちは、どうして何も言わないの?
ナナリエは今、何を考えているの?
大丈夫なの?
ナナリエの動かない背中。
祈るようにその背中を見つめたとき、議場内の視線がひとつの方向に吸い寄せられていることに気がづいた。
「ご令息がこのような決断をなされても、双王陛下は沈黙を貫くのか」
議場のどこかから、小さな声が漏れた。
上段の玉座では、結王陛下と環王陛下が静かに議場を見下ろしていた。
表情は動かない。
親として引き留めるでもなく、王として裁くでもない。
自ら決断をしたひとりの青年を、そのまま受け止めているようだった。
皆が玉座を仰ぐ中、ハルジオンとナナリエだけが視線を合わせていた。
ナナリエもまた、音もなく立ち上がった。
皆の視線が再び議場の中心へ集まる。
その背筋は、いつもと変わらず真っ直ぐだった。
だから私は、希望を持ってしまった。
最前列の大臣たちも真っ直ぐにナナリエを見つめた。
ナナリエは静かに会釈をしてから、口を開いた。
「ハルジオン殿下の仰せのままに」
迷いのない声だった。
ハルジオンの目がわずかに見開かれる。
琥珀の目が水分を含んで揺れた。
彼の周囲で大臣たちが静かに目を伏せた。
ハルジオンは目を逸らさずに、ナナリエを見つめる。
「……それでよいのか、ナナリエ」
声はいつも以上に低かった。
少しだけ震えているみたいだった。
ナナリエは身動きもせずに答える。
「はい。殿下がお決めになられたことですから」
——違う。
ナナリエは、ただ従っているわけじゃない。
いいとか、いやだとか、ナナリエはそういうことを言っているんじゃないんだ。
何度も聞いた。
「お兄様の判断はいつも正しい」と。
ナナリエは盲目的にハルジオンを信じているわけじゃない。
ハルジオンがいつもどれだけ考え抜いて、苦しい時ほど迷い、それでも決断してきたことを。
ナナリエは、誰より知っているんだ。
「……承知した」
静かな声。
何かが足りない。
そう思った。
でも私はまだ、その何かに辿り着けていない。
ハルジオンは一度だけ目を伏せた。
その一瞬がとても長く感じられた。
でも、開けられた目には、もう何の迷いも残っていなかった。
真っ直ぐに、目が合った。
私だ。
私を見ている。
私だって何度も彼の足りない言葉に振り回されてきた。
言葉は足りなくても、そこには考え抜かれた最適解がある。
「また、ナナリエに侍従している、そこなる魔女よ」
胸に重くのしかかる。
「そなたの纏う磁場はこの王国の均衡を乱している」
ずっと私に向けて囁かれていた噂と、静かに刺さる人々の視線。
それが、ナナリエにも向かい始めている。
「理に外れた力は、王国の監督下に置くべきである」
続く言葉を、私はもう知っていた。
語られない意図を理解するには十分過ぎるほど、私もハルジオンを知ってしまった。
「……ハルジオン殿下」
ナナリエの声が震えていた。
彼女が今、何を考えているのか、それもわかってしまう。
どうしてだろう。
たった三ヶ月しか一緒に過ごしていないのに。
「これより、そなたの身元は琥珀宮で預かる」
これはナナリエを守るための一手なんだ。
……きっと、私のためでもある。
そして、ハルジオンは最初から読んでいたんだ。
私が、ナナリエのために動くことを。
「ハルお兄様!」
感情的な声だ。
彼女はとても感情豊かな人なんだ。
人にはちょっと伝わりづらいのかもしれないけど。
「磁場管理は、瑠璃宮の管轄です……」
ナナリエの肩が強張った。
ハルジオンとは違う答えを探しているんだ。
でも、たぶんそれ以上の最適解は見つからない。
取り残されるのは、唯一、ナナリエの感情だけ。
「たとえお兄様のご意向であっても」
虹色の髪が風をはらみ、瑠璃色のマントの裾が静かに弧を描いた。
ナナリエは振り向いた。
力強い虹の瞳が私を真っ直ぐに見た。
「私の大切な友人を委ねるわけにはまいりません」
ナナリエの大切な友人。
ずっと聞きたかった言葉。
だけど——
ナナリエの背中へ向けられた、訴えるようなハルジオンの視線。
その目を見たら、素直に喜べなかった。
「琥珀宮所属である魔女の任命権は私にある」
私は立ち上がった。
みんなの視線が刺さる。
でもハルジオンが整えたんだ。
これに応じなきゃ。
私はゆっくりと頭を下げた。
「その足で、今すぐ琥珀宮殿へ向かえ」
冷たい声だった。
「はい」
私は座席を離れ、南側後方へと歩き出した。
「アンリ!」
ナナリエの声が聞こえた。
それを制するハルジオンの静かな声が重なる。
「王女殿下、閉会の宣言はまだなされていません。ご着席を」
ナナリエは追いかけて来なかった。
きっと、ハルジオンの読み通り。
「議長、ご裁決願います」
ハルジオンの声に応えるように、議長が静かに口を開いた。
「異議がないようであれば、婚約解消については本議会にて承認する。王位継承に関する件は、四宮当主会議へ差し戻し、再考を求めるものとする」
誰も、何も発言しなかった。
婚約は、それで終わった。
ハルジオンは間を置かず、次の議題を処理するように口を開いた。
「トパーズ。議会外への発表は、正式文が整うまで差し止める。婚約解消については事実のみ、理由に触れないように」
「ペリドット。婚礼供物および宴席用の納入予定を確認。地方に損失が出る場合はシトリンと補償案を作れ」
「シトリン。婚礼関連の支出を停止。既発注分の損失と違約を洗い出し、補償案を提出せよ」
「サファイア。婚約解消に伴う法的手続きを進めてくれ」
いつも通りの議会だった。
違うのは、議題がハルジオン自身になっただけ。
私は議場の扉に手をかけた。
重い扉に体重を乗せて開ける。
私の背中に、ハルジオンの穏やかな声が触れた。
「進行を議長へお返しする。予定外に時間を取らせて申し訳ない。皆、昼食をとってくれ」
——こんなときまで、みんなの昼ごはんの心配かよ。
私はひとりで議場を出た。
重い扉はゆっくりと閉じていった。




