第72話 見てくれている人
爽やかな晴天が続くある日、ナナリエの執務室を訪ねてきた人がいた。
「ご無沙汰しております。王女殿下」
西の人らしい伝統的で優雅な挨拶。
私が無作法に出したお茶も丁寧に受け取ってくれる。
「先日は琥珀宮でのお茶席にお招きいただき、誠にありがとうございました。たいへん、学びの多いひとときでございました」
目力の強いレモン色の瞳が真っ直ぐにナナリエを見た。
「クリサンテ。あのときは有意義な時間をありがとう」
ナナリエはお礼を言うには若干表情筋の使い方が足りないような顔で言った。
「私こそ、殿下のお考えに触れる、たいへん得難い機会でございましたわ」
「そう。理解してくれたのね」
クリサンテの頬が少しだけぴくりと動く。
あ。
まただ。
言葉が正確に伝わっていないやつだ。
——ナナリエは、お茶会の最後に話していた「人の心と都市の構造は似ている」っていう持論のことを言ってるんだ。
ナナリエにとって「理解してくれた」は、たぶん最高級のお礼なんだと思う。
……でも。
たぶん、クリサンテは違う話をしている。
クリサンテは一度小さくため息をついた。
「ご無礼ながら」
覚悟を決めたように顔を上げる。
「率直に申し上げると、あの日の殿下は招待客への気遣いが足りませんでした」
そ、率直だ。これは、実に率直だ。
ナナリエはわずかに目を見開いた。
「殿下は主催者でした。招待客の間を取り持つお立場には相応の振る舞いが求められます」
「相応の振る舞いとは?」
「まず第一に、そちらの女性」
「アンリですね」
「はい。彼女と私たちは初対面でした。殿下よりご紹介いただくのが筋かと思います」
「なるほど。他には?」
「第二に、不得手でいらっしゃるとは存じますが、招待客の言葉を一度は受け止めていただければと」
これは……ナナリエが、サヤパトリの話を一切拾わなかったことを言っているんだな。
「……」
ナナリエは黙り込んだ。
クリサンテは無言で待っている。
「あのう」
耐えきれず、私は口を挟んでしまった。
「ナナリエ……殿下は、たしかに情緒的な会話は苦手です」
私は見切り発車してしまった。
「お茶会のあとも枕に顔を埋めて泣いていました」
「な……泣いて!?」
クリサンテがぎょっとした顔で私を見た。
しまった。方向性を間違えたかもしれない。
「本当は場を盛り上げたかったのに失敗したって……」
言いながらナナリエに目を向けると、ひどく暗い表情になっていた。
「あ、ごめん……余計なことを言って」
「事実なので認めます。ただ……」
ナナリエはクリサンテを真っ直ぐ見た。
「できない約束をするわけにはいきません」
「殿下……」
クリサンテが戸惑いの表情を見せる。
「私には、知らない言語の会話の中から、知っている単語を拾うことしかできません」
落ち着いた声だった。
「それを繋いでも、相手の心を正しく読めるとは限らないのです」
言い切ったあとに、少し不安げな表情になる。
「……それでも、毎回検証して、少しずつ修正をしているのですが」
ナナリエは困った顔のまま、もう一言付け加えた。
「だから、あなたの話はいつもわかりやすくて助かります」
はっと息を呑む気配がした。
クリサンテが尊いものを見るような表情でナナリエを見つめた。
「差し出がましいことを申し上げ、たいへん失礼いたしました」
クリサンテが深々と頭を下げた。
「また先日は王女殿下のお心が無機質などと、無礼な物言い、誠に申し訳ございません」
ナナリエは不思議そうに首を傾げた。
「……そんな話をしていたかしら?」
「え?」
クリサンテは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
レモン色の目が、助けを求めるように私を見る。
断言できる。
このふたりは、噛み合っていない。
でも、私はこういうふたり、好きだ。
「……見たままを、言っていいですか?」
私はいちおう前置きをした。
ふたりは神妙に頷く。
「クリサンテさんは覚悟を決めてナナリエ殿下に進言されにきました」
「え?そうなの?」
ナナリエが声を上げる。
クリサンテが驚いた顔でナナリエを見た。
「クリサンテさんは、勇気を出して言ったことを受け止めてもらえたと思ったんですよね」
頷くクリサンテと、首を傾げるナナリエ。
「でもナナリエ殿下は単純に、クリサンテさんの話がわかりやすいから、わかりやすいと事実を言っただけです」
「え?そうなの?」
クリサンテが唖然として立ち上がった。
ナナリエは大きく頷いて、クリサンテに微笑んだ。
「あなたの話は本当に率直で助かるわ」
「ちなみに、『心が無機質』と言われたこと。それ、その後の『都市の構造』の話にまとめられちゃって、ナナリエ殿下の認識から完全に抜け落ちています」
クリサンテが顎を指で摘んで、難しそうに考え込んだ。
「都市の構造……?そういえば殿下はそのようなお話もされていらっしゃたわね」
「え?その話じゃないの?」
またナナリエがびっくりした。
驚いた表情のナナリエの顔を、クリサンテはしばらく見つめていた。
「……なるほど」
そう呟いて、クリサンテは居住まいを正した。
「概ね理解いたしました」
クリサンテの表情が優雅なお嬢様から、仕事をする人の顔に変わった。
「王女殿下」
「はい」
「私の専門は経営学で、現在は、既存分野に新たに事業進出する顧客の、課題解決のお手伝いをしております」
「まあ」
ナナリエは目を輝かせた。
「具体的にはどんな事業を?」
ナナリエが会話を拾えている。
「今お手伝いさせていただいているのは、各地の酒造所と提携し、月替わりで酒を届ける定期購入事業です」
「一回きりではなく、毎月届く仕組みなのね」
適切な相槌を打っている。
「そうです。酒造所側には安定した出荷先を、購入者側にはまだ知らない地域の酒との出会いを提供する仕組みです」
ふたりはしばらくクリサンテの融資先の話で盛り上がっていた。
会話が地続きになった気がした。
向き合うふたりの表情が明るくなる。
ああ。
この人は、わかったんだ。
ナナリエは冷たいわけじゃない。
誠実で、真面目で、どうしても受け取れない種類の言葉があるって。
わかる形で話してもらえれば、心の底から歓迎しているって。
クリサンテはそう判断したんだ。
会話が一段落したとき、クリサンテが意を結したように口を開いた。
「春のお祭りでは、殿下にも星蜜柑フィジーの広報にご協力いただきありがとうございました」
ナナリエは少しだけ首を傾けた。
「そうらしいですね。まったく気づきませんでしたが」
「おふたりのおかげで、多くの方に知っていただくことができました」
クリサンテが少しだけ声を落とした。
「……ですが、今後は王女殿下のお名前やお姿に頼りすぎぬ広報を心掛けるよう、ご助言をいただきました」
そうなんだ。
春のお祭りでハルジオンとナナリエの微笑ましいやり取り自体が、商品の宣伝になっていたんだ。
それを、もう使わない。
少しもったいない気がする。
あのときのふたり、最高に可愛かったから。
「助言?誰からですか?」
ナナリエは不思議そうに目を丸くした。
「……ハルジオン王子殿下です」
「え……」
その意味を測りかねるように、ナナリエはクリサンテを見つめた。
「広報を始めてから、まだ二ヶ月ほどです。急なお話だったので、王女殿下のご意向を伺おうと、本日は参った次第です」
レモン色の瞳に険しさが混じる。
クリサンテは何かを伝えようとしている。
だけど。
「広報に関しては私は関与していないわ。私の意向を考慮しなくてけっこうよ」
遠回しの言葉を、ナナリエは正確に拾えない。
クリサンテはもどかしそうに視線を逸らした。
逸らした視線が私へ向く。
向けられた視線が、何かを言っていた。
時間は短かった。
すぐにナナリエの方へ向き直り、微笑む。
「かしこまりました。殿下のお力添えに改めて御礼申し上げます」
そして、はっとした表情で窓の外を見る。
「……殿下とのお話が楽しくて、つい長居をしてしまいました。微力ではございますが、私で殿下のお役に立てることがございましたら、いつでもお呼びください」
「ありがとう。興味深い話を聞かせてもらいました」
クリサンテはすっと立ち上がり、柔らかい表情でお辞儀をした。
「それではこれで」
「またぜひ、話の続きを聞かせて」
ナナリエも自然な笑顔を返した。
部屋を出るクリサンテが、また私を一瞥した。
「ちょっと見送ってくるね」
私はそう告げて、クリサンテと部屋を出た。
廊下を少し進んだところで、クリサンテが立ち止まる。
「アンリ」
凛とした表情のまま声だけ低かった。
「どうかしたの?」
「王子殿下と王女殿下は、お変わりなくお過ごしなのかしら?」
「最近はそれぞれの業務が忙しくて、一緒には過ごしていないけど……」
「そう……」
「何かあった?」
「いえ……せっかく広報がうまくいっていたから、終えるのが残念だと思っただけよ」
クリサンテは目を細めて笑った。
そしてもう一度、真っ直ぐに私を見た。
「あなたの顔を見て安心したわ」
私の顔?
「人づての話では、どうしても真実は見えないもの」
人づての話?
「心ない噂に気を揉まないようにね」
「え?噂って——」
「突拍子もないものよ。確かめる価値もないわ」
クリサンテははっきりした口調で言った。
「あなたを見ている者もいることだけ覚えていてくれたらいいわ」
きりっとした微笑みを残して、クリサンテは立ち去った。
——突拍子もない、心ない噂。
そう言われて初めて、あの違和感がひとつに繋がった気がした。
最近、みんなが私を見る目が少し違う。
あれは、気のせいじゃなかったのかもしれない。
形のなかった違和感が、ゆっくりと重さを持ち始めた。




