第71話 日常に戻る途中で
ナナリエへの手紙を森の中の保管庫にしまって、私はエンジュの案内で神殿の回廊まで戻ってきた。
参拝客がエンジュに静かに頭を下げる。
エンジュはひとりひとりに「来てくれて嬉しいよ」と伝えていた。
「アンリ!」
ナナリエの声がした。
木漏れ日の中を走ってくる。
白いスカートの裾がはたはたと音を立てていた。
神殿の中を走る人なんて他にいないから、ナナリエの周りだけ時間が早く流れているみたいだった。
「迷子になっていないか心配したけど、エンジュと一緒だったならよかったわ」
……そんなにここで迷子になる人がいるんだ。
ナナリエは少し疲れた顔でエンジュを見上げた。
「エンジュ、大おばあ様がお呼びよ」
少しだけ息を呑むような気配がした。
「……そっか。ありがとう。行ってみるよ」
エンジュは森の奥を見ていて、私の位置からは表情がわからなかった。
「私たちはそろそろ戻るわ」
ナナリエはエンジュとは反対方向を見た。
翡翠の山から見下ろすと、遠くに淡く白い王都が滲んで見えた。
「うん。気をつけて帰ってね」
エンジュは寂しそうに目を細めた。
「アンリも、待ってるね。……僕が持って行けたらいいんだけど」
どんどん萎れていく。
「また来るよ!」
私は元気づけようと明るめに言った。
「楽しみにしてる」
エンジュは少し笑顔を取り戻した。
王都の方を向いていたナナリエが思い出したように、振り返った。
一度だけ森の奥へ目を向けて、少しだけ考え込んで、ぽつりと言った。
「……エンジュ、あの友達って」
感情の乗っていない声だった。
「ソラリスのこと?」
エンジュが聞き返す。
「彼はどこに行けば会えるのかしら?」
興味があってわくわくしてるときの目とは違った。
ただ事実を確認するような淡々とした表情。
エンジュは少し困ったように額に手を当てた。
「どうだろう……ソラリスは探している時ほど見つからないからね。直接連絡もできないし」
五年ぶりに再会したっていうエンジュが言うんだからそうなんだろうな。
ソラリスの耳についていた小さなピアス型の環。
カーネリアンの環の工房で、カズラばあちゃんが言っていたことを思い出した。
これもいらない、あれもいらないって、最低限の機能しかつけなかったって。
連絡機能もつけてないんだな。
エンジュは迷うように言葉を続けた。
「でも……ナナリエなら会えるかもしれない」
「……そう」
ナナリエは本当に興味がなさそうに一言だけ返した。
私は、カズラばあちゃんの言葉の続きを思い出していた。
『王になるやつってのは、みんな何でも自分でやりたがるのかね?』
私の中で漂っていた形のない怖さが、少しだけ輪郭を持った気がした。
「じゃあ、またね」
エンジュは当主様に会うためか、すぐに背中を向けて歩き始めた。
ナナリエも気にすることなく、神殿を降りる階段に足を踏み出す。
昨日の夜はみんなでゲームして楽しかったな。
ソラリスが来てくれてよかったな。
朝ごはんのときにもハルジオンがいたら、きっと楽しかっただろうな。
私は名残惜しさを感じて、少しだけ振り返った。
でも、もうそこはみんなが集まる場所じゃなくて、本当に普通の森に戻ったみたいだった。
「ところでエンジュは何を持ってくるの?」
列車の席に座って一息ついたとき、ナナリエはいつもの興味津々な顔で私を覗き込んだ。
「え?ああ……秘密だよ」
「なあに?私に秘密にすることなんてあるの?」
ナナリエはちょっと拗ねた顔をした。
「知りたいわ。アンリの秘密」
ナナリエの瞳が迫ってくる。
「これはね」
私はナナリエの肩をがしっと掴んだ。
「楽しみにとっておくもの、だから」
ナナリエが首を傾げる。
納得していないみたい。
「なんだろうって考えながら待ってて!」
「待てない」
「え」
「答えがあるなら今すぐ知りたいわ」
だよね、そう言うと思った。
でもせっかく手紙にしたのに、今から言ったら意味ないじゃん!
と、叫びたかったけど、飲み込んだ。
「待てば待つほど、価値が上がるものだから」
あー。しまった。価値じゃなくてハードルを上げてしまったよ。
「そう……発酵食品かしら」
ナナリエはぶつぶつ言いながら座席に背中をつけた。
「ところでエンジュは、春のお祭りの時以外は本当に王都に来れないの?」
私は話題を変えることにした。
「そうよ」
ナナリエは不思議そうに頷いた。
たぶん、話題を変えられたことに気づいていない。
「神殿を守るためなの?」
私は何気なく聞いた。
そうだよって答えが返ってくると思って。
でもナナリエは小さく首を横に振った。
「神殿に守られるためかしら」
神殿に守られるため?
守られるってエンジュのイメージに合わない。
ナナリエは少しだけ言葉を探すように目線を下げた。
「双王候補はたくさんいるけど、双王を成立させるための若宮司はエンジュに決まっちゃったから。彼ひとりだけなの」
「ふーん?」
さらりと言われて、思わず頷いてしまったけど。
どういうことだろう。
「双王候補より、決定した若宮司の方が重要ってこと?」
「そうね」
軽い感じで答える。
きっと当たり前のことなんだろう。
「双王候補はまだ候補だもの。若宮司はもうエンジュに決まってる」
「たしかに……」
決定してる人の方が重要と言うのはわかる。
「それに双王は立ってるだけだけど、若宮司と大宮司は代わりが効かないのよ」
双王は立ってるだけ。
以前にもナナリエはパンケーキ食べながら、そう言っていたな。
一貫してそう考えてるんだ。
「エンジュのお祖父様以来、後継者が出たのはエンジュが初めてよ」
「就くの大変なんだ?」
王様になるのも大変そうだけど。
たしかにお祭りに来ていた人たちも、エンジュをすごくありがたいものを見るように拝んでいたもんなあ。
「神々の声を聞ける者だけがなれると言われているわ。本当かしらね?」
疑い深そうな眼差しで、ナナリエは言った。
やっぱりナナリエは、確かめられないことは簡単には信じない。
「……本当に、翡翠宮の人たちの話って曖昧でわかりにくいわ」
ナナリエは座席に深くもたれて天井を見上げた。
「ナナリエ、疲れてるね」
ナナリエが少し驚いた表情をした。
「疲れって、目に見えるものかしら」
「なんとなくね」
ナナリエは自分の頬を触った。
「おばあちゃんとの話で、疲れちゃったの?」
「ああ……。そうかもしれないわ」
「厳しい人なの?」
エンジュは国の中で一番怖いって言っていたけど。
「とても優しい方よ。話している内容はよくわからないけれど」
「エンジュみたいな話し方するの?」
「もっと曖昧で理解のとっかかりがないわ。半分くらい居眠りしているし」
……神殿のおばあさん。
預言者みたいな?謎めいた言葉でも言うんだろうか。
居眠りしているのは気になるけど。
「さっきはどんな話だったの?」
ナナリエは、記憶を辿るように目を閉じて、こめかみをつんつんした。
「……たぶん、父の話だわ」
「お父さん?」
ナナリエのお父さんって、ナナリエが生まれる前に亡くなったって言っていたな。
「父が最後まで残したかったもの……かしら」
「残したかったもの?」
「この国のことだとは思うのだけど」
ナナリエは困ったような顔で、首を傾げた。
「半分くらい涙を流していて、何を言っているかわからなかったわ」
情緒豊かなおばあさんだなあ。
ナナリエの首は傾きすぎて、こっちまで倒れ込んできた。
「ひとつだけじゃない、みたいな言い方だったのよね」
私の肩にもたれかかってナナリエはしばらく考え込んでいた。
「それと」
ゆっくり顔を上げる。
首元が少しくすぐったかった。
「揃っていた、と言っていたの」
「何が?」
「わからない。ただ、『さっきまで、ここに揃っていた』って……だから」
ナナリエはいつも、確定していないことはとても慎重に話す。
今もすごく迷っているみたいだった。
私の目を見て、声を落として続けた。
「昨晩から今朝にかけて一緒にいた、あの子を探そうと思ったの」
翡翠宮を出た列車が王都に着く頃には昼を過ぎていた。
ナナリエは確認したい仕事があるということで、自宅には寄らず、カレイド宮殿にあるナナリエの執務室へ直接行くことになった。
途中で昼食を買って、執務室に向かう。
宮殿の入り口で受付の人や廊下ですれ違う人たちに挨拶をする。
執務室を訪ねてきた人にお茶を出す。
この一ヶ月、私は何度も繰り返してきたことだった。
なのに、何かが少し違った。
お店の人は、私の顔を見ると一瞬だけ目を見開いた。
宮殿ですれ違う人たちは、挨拶を返すまでにほんの少し間があった。
ナナリエのお客さんは、お茶を受け取る前に一度だけ私の手元を見た。
でもみんな笑顔だったし、ナナリエもいつも通りだった。
だからきっと、気のせいなんだって思った。
日常に少しだけ違和感を落としながら、王都での一日一日は過ぎていった。
そんなある日、ナナリエの執務室を訪ねてきたお客さんがいた。
「王女殿下にお目通りを願います」
上品で優雅なお辞儀とともに現れたのは、春の祭りで伝説の茶番劇を企画したクリサンテだった。
金融の人が、いったい何の用件だろう?




