第69話 知らないから、知るのよ —翡翠—
『あんり』
長靴が水たまりを踏むと、青空が砕ける。
『なにしてんの』
ぽんっとボールを投げるみたいな軽い声。
そのときの私は焦っていた。
ランドセルも重くて、傘もひっくり返っていて。
『飛ぼうと思ったんだけど』
登校時間に降っていた雨は、下校時間には止んでいて。
そして、いい感じの風が吹いていたんだ。
『カサで!?』
大地くんは大袈裟に驚いた。
『そうだよ』
これだけ強い風が吹いていれば飛べると思った。
だけど、傘は反対向きにひっくり返っただけだった。
『その大きさじゃ無理だよ』
ちょっとバカにしたように言う。
『わかんないじゃん』
私は腹を立てた。
『わかるよ』
『なんで?』
『もう、おれ、百回試したから!』
ちょっと得意げ。
『百回!?うそだ!』
なんでもかんでも百回って言ってるだけでしょ。
『本当だよ』
大地くんは真面目な顔して自分の傘を見ていた。
『本当に……?』
『……大人のカサだと、ちょっと浮く』
重大な秘密を打ち明けるみたいな真剣な顔。
『そうなんだ……!』
だんだん、本当に百回試したんだって思えてきた私。
『うん』
私はその続きが気になった。
『それで、どうなったの?』
『カサがこわれて、お父さんにおこられた』
『え!』
私は現実に引き戻された。
『どうしよう。またお母さんにおこられる……』
私がぶるぶる震えるのを見て、大地くんは首を傾げた。
『でも百回こわしたから、直し方も知ってるよ』
自分の傘をぽいっと地面に投げ捨てて、私の傘を取り上げた。
『風の方に向かって、まっすぐ持つんだ』
大地くんは剣を構えるみたいに傘を持って、風に向かってシュッと突き刺した。
ポンッ
ポップコーンが弾けるみたいな音がして、傘が、傘の形を取り戻した。
『すごい!』
私は叫んだ。
『ふうあつを利用するんだぜ』
『ふうあつ?』
『こうとうテクニックだ』
『すごい!天才!』
『だろ!』
大地くんは得意げに笑った。
「アンリ、アンリ、起きて」
神殿に泊まったとき、ナナリエの起床はいつも早い。
「行くわよ」
「またエンジュのとこぉ?」
まだ眠い。
あくびをしながら起き上がると、ベッドの上だった。
「あれ、どうやって部屋まで来たんだろう?」
昨夜の記憶がない。
「運んだわよ」
ナナリエが何食わぬ顔で言った。
「誰が?」
「私よ」
ナナリエは私の寝巻きをささっと脱がせて、黒いワンピースを頭から被せた。
「えっ」
「朝の清掃の時間が迫ってるわ。急がないとエンジュが起きちゃう」
「ちょっと待って」
「急いでるのよ」
「ナナリエが私を持ち上げたってこと?」
「簡単よ」
ナナリエは力拳を作って見せつけてきた。
いや、どう見ても細腕だけど。
確かに珊瑚宮でテントの設営する時も鉄パイプを軽々持っていたし、遠方にいるハルジオンにガラス瓶を遠投してたし、それに私の身体は標準より痩せ細っているけれど、女子が、女子を持ち上げたの?
わからない。
ナナリエの能力の底が見えない。
私の髪を三つ編みにし始めながら、ナナリエは呟く。
「ちゃんと服も着替えたし、エンジュも文句を言わないはず」
以前エンジュの寝室に押しかけた時に注意された内容、正確に覚えてるんだ。
でも。
「エンジュが言いたかったことは、そういうことじゃないんじゃない?」
三つ編みを編む手が止まる。
「わかるの?」
背後からナナリエが私の顔を覗き込んだ。
近い。
ものすごく驚いた顔だった。
「いや、わかるっていうか……なんとなく」
ナナリエは少しだけ目を伏せた。
「時々ね」
再び私の髪を編み始める。
「みんな同じ説明を受けていないはずなのに」
声にいつもの勢いがない。
「私以外の人たちが、私の知らない決まり事で動いているように見えるの」
「決まり事?」
「明文化されていないの。でも、みんなは知っているみたい」
その声は少しだけ不安そうだった。
「あー……それはあるかも」
暗黙の了解ってやつか。
たしかに、私も苦手だ。
当たり前みたいな顔で、みんなが同じ常識を共有して見えるときがある。
……まあ、わからないものは、どうしたってわからないんだけどさ。
「知らないって怖いわ」
ナナリエは私の手をとった。
「だから、行きましょ」
だから?
話の繋がりがわからないまま、私はナナリエに連れ出された。
早朝の木漏れ日が入る神殿は昼よりも温かみがある。
きっと最初に昇る太陽が赤いからだろう。
じきに白くて眩しい太陽が昇ると、いつもの静けさが戻っていくんだ。
木の葉の間から差し込む光の中に、彫刻のように立つ影が見えた。
朝の森の中で、ソラリスが片足で立ったまま、ゆっくり体を倒しているところだった。
柔軟なのか、舞なのか、戦う準備なのか、わからない。
次の瞬間、髪を結う赤い紐が揺れて、足先が空気を切った。
遅れて、金色の髪もしなやかに弧を描く。
「……何してるの?」
本当は、声をかけていいのか少し迷った。
でもソラリスは当たり前のように答えてくれる。
「目が覚めたから動いてる」
その答えはよくわからないけど。
「散歩か?」
「え……いや……」
言い淀んでナナリエを見ると、彼女は躊躇うことなく答えた。
「エンジュを起こしに行くのよ」
「なにそれ、面白そうじゃん」
ソラリスが目を輝かせる。
ナナリエは真面目な顔で告げた。
「これは真剣勝負よ。遊びじゃないの」
「なおさら面白え」
そのまま三人でエンジュの寝室に行くことになってしまった。
部屋に入る手前で、私はナナリエの袖を引っ張った。
「やっぱり、よくないんじゃ……」
「二言はないわ」
「なんだよ、息の根でも止めに行くってのか?」
深刻そうなナナリエと軽い調子のソラリスはさっさと部屋へ入っていった。
薄明かりが差し込む寝室の窓際に、ベッドが置かれていた。
たしかにまだ眠っているみたいだ。
でも、なんか色が違う。
先に突撃したナナリエとソラリスが、驚いて立ち尽くしているのが見えた。
「……どうして?」
「読まれてたのか……」
ふたりの背中の間から私も奥を覗いた。
ゆっくりと身体が起き上がる。
金糸のような柔らかい髪がさらりと肩を滑った。
「お兄様……」
ナナリエが思わず声を漏らした。
寝起きとは思えない整った顔で、ハルジオンは一言だけ言った。
「エンジュと部屋を代わった」
他には何も言わなかった。
ナナリエやソラリスに質問もしなかった。
「今日こそエンジュの隠しているものを見ようと思ったのに」
ナナリエが肩を落として俯いた。
その隣で、ソラリスの表情が変わる。
「……見ようとしたのか」
「そうよ。寝起きが一番勝率が高いの。でも肝心なところはまだ見えない」
「お前……」
ソラリスの周りの空気が冷たくなったように感じた。
「エンジュがそこまで隠しているものを見る覚悟、あんのかよ」
ナナリエとソラリスが正面から睨み合う。
その奥で、ハルジオンが視線を落とすのが見えた。
「エンジュはずっと何かを抱えてるの」
ナナリエに表情はない。
「それ知って、受け止められなかったらどうすんの?」
ソラリスは苛立っているのがわかる。
「見てみなきゃわからないでしょ」
「受け止められなかったら?」
ソラリスは即座に詰めた。
「受け止められないお前のこともエンジュは背負うことになるんだぞ。わかってんのか」
「あなた、何か知ってるの?」
「知らねえ。でも何か抱えてんのは見りゃわかる」
ソラリスが苛立ちながら鼻で笑った時、ハルジオンの手が、ぎゅっと動くのが見えた。
見えないふりして、私は見てしまった。
ブランケットを握りしめてかすかに震えるその拳を。
「そうよ。私だって、ずっと見てきた」
ナナリエがはっきりとソラリスに厳しい目を向けた。
「子どもの頃から周りくどい性格だったけど、本当に遠くなったのは若宮司になってからよ」
「そりゃ、役目を負えば、背負うもの増えるだろ」
ソラリスが怒っているのか呆れているのか、私にはわからなかった。
「あなたは気づいていたのに、聞かなかったってこと?」
でも、ナナリエはソラリスの感情なんて気にも留めていなかった。
「あいつの苦しみはあいつのもんだ。軽々しく踏み込むな」
「軽くないわ」
室内の薄明かりを吸って、ソラリスの青い瞳が眩しく光を返した。
「背負っているものの重さも知らないで?」
ナナリエの虹色の瞳も、その中で複雑に光を反射させた。
「知らないから、知るのよ」
知らないって怖いわ、と言ったナナリエの言葉を思い出した。
ずっとエンジュの頭の中を覗こうとしてたのは好奇心なんかじゃなかった。
ナナリエは怖いんだ。
エンジュを心配しているんだと思う。
……いや。
たぶん、心配と好奇心をわけていない。
ナナリエにとっては、知りたいと心配が同じ場所にある。
ナナリエにとって、知ることは、寄り添うことの第一歩なのかもしれない。
だけど、ソラリスは違う。
知らないまま、寄り添っている。
ふたりがエンジュのことを考えているのは同じなのに、ふたりはぶつかってしまう。
「やめてよ」
ふたりが睨み合う部屋に、声が響いた。
そのあと、言葉は続かなかった。
振り返ると困った顔で笑うエンジュがいた。
作り笑い?それとも自分を守るための笑顔?
エンジュは微笑んだまま真っ直ぐ歩き、私たちの前で立ち止まった。
「おかげでゆっくり眠れたよ、ハルジオン」
ハルジオンは顔を上げなかった。
「代わりに君の寝覚めが悪くなっちゃったね」
困っている。たぶん、エンジュはとても困っている。
困りながら言葉を探している。
「まさかナナリエとソラリス、ふたりとも来るとは思わなくて」
わ、私もいますけど!静かにはしてるけどさ。いるよ!
「ごめんね、ハルジオン」
そう言いながら、エンジュはハルジオンの肩に手を置こうとした。
「こんなときも——」
ハルジオンは身動きもせずに口を開いた。
エンジュの手が空中でぴたりと止まる。
「こんなときでさえも、俺の心配か」
俯いたままのハルジオンの顔は見えない。
でも、声の色は、どこか乾いていた。
ハルジオンは顔を上げないまま、ベッドの脇へ素早く立ち上がった。
「職務に戻る」
そのまま上着を手に取り歩き出す。
「待ってよ!」
エンジュが声を上げた。
ハルジオンは立ち止まらない。
ナナリエとソラリスも驚いた様子で黙っていた。
「話があって僕のところへ来たんじゃないの?」
エンジュの問いに、ハルジオンは一度だけ立ち止まった。
少しだけ間を置いて、ゆっくり振り返った。
「君のお茶を飲みに来ただけだ」
いつもの、余裕そうな、蜂蜜のように甘い笑顔だった。
「え……」
エンジュは戸惑ったまま立ち尽くしていた。
「ナナリエ」
「はい」
ハルジオンがいつもの冷静な顔でナナリエに指示を出す。
「先に戻る。君たちはゆっくりしていけ」
「……はい」
ナナリエは小さく頷く。
「……お兄様も、ご無理なさらないでください」
困惑したまま、それでもナナリエはハルジオンを気遣った。
「ああ。ありがとう」
ハルジオンは優しく微笑んで、部屋を後にした。
しばらく動かずにいたエンジュにソラリスが声をかける。
「あいつ、話があったんじゃないの」
「……お茶を飲みに来ただけって言ってたじゃないか」
「話そうとしてるやつに、話をさせないのは悪手だぞ」
ソラリスは横目でエンジュを見た。
「……君は何しに来たんだ」
エンジュは苛立った声を出した。
「もうみんな動き始めていたのに、君が来たから……」
「お?八つ当たりか?」
「八つ当たりじゃないよ。だってソラリスが突然来たのが原因なんだから」
「俺のせいかよ」
「どうせ来るなら、もっと早く来ればよかったじゃないか」
「来て欲しかったのかよ、来て欲しくなかったのかよ」
「来て欲しかったよ!」
エンジュは子どもみたいに叫んだ。
「いいじゃん、そういうの。もっと寄越せ?」
ソラリスは愉快そうに笑う。
「あなた、エンジュをどうしたいのよ」
ナナリエが冷ややかな目でソラリスを見た。
「お前と一緒だよ」
ソラリスはナナリエに不敵な笑みを向けた。
「自分で見えてないところを照らしてやってんだよ」
「まだなんかあるなら今のうちにどうぞ」
ソラリスは、エンジュを真下から煽って、にやりと笑った。
「しばらく時間をください……」
エンジュは恥ずかしそうに、少し充血した目を伏せた。
「エンジュのしばらくを待ってたら寿命が尽きるわ」
ナナリエが納得いかなそうに頬を膨らませた。
だけど私は、さっき部屋を出て行ったハルジオンの背中が気になっていた。
——君のお茶を飲みに来ただけだ。
蜂蜜のように柔らかい笑顔だった。
だけど、もしかしたら。
ハルジオンの言えなかった言葉が、その琥珀の中に閉じ込められていたのかもしれない。




