第68話 ヨルカの伝言 —翡翠—
「もう、夜も遅いし、客室に案内するよ」
よろめきそうになりながら、エンジュが立ち上がった。
ナナリエとハルジオンも人形のように音もなく立ち上がる。
「おい、俺に聞きたいことあるんじゃなかったのか?」
ソラリスが呼び止めた。
ナナリエがぼんやりとソラリスを振り返った。
「そうだったわ……」
「今日はもう休もうよ。みんな疲れてる。明日だってあるじゃないか」
エンジュにしては強めの口調だった。
「たしかに、二日間、屋外作業で疲れたよね」
私は思っていることを素直に言った。
エンジュが少し希望を持ったような目で私を見た。
そんなエンジュの横でソラリスが鼻で笑う。
「明日だってある、か」
「なに?」
「お前は相変わらず先延ばし癖があるな」
エンジュは黙った。
黙って視線を落とした。
「別にいいけど。じゃあ俺は先に行ってるわ」
「待ってよ。ソラリス、神殿は迷子になるよ」
「ならねえよ。歩いてりゃ着くだろ。ダメならその辺で寝るし」
ソラリスは暗い森の中へ歩いて行こうとした。
本当に暗い。
でも不気味な暗さじゃなかった。
なんだか、優しく包み込むような。
それでいて本当に、ひとりで入っていったら迷いそうな。
「あー……」
なんて言えばいいのかわからなくて、声だけが出た。
“彼女”が話しかけてきた、あの空間と似ていた。
だから思い出した。
“彼女”の伝言を。
「なんだ。まだなんかあるのか?」
ソラリスが足を止める。
エンジュも私を見た。
私は向き直って、ナナリエとハルジオンの姿も確認した。
青と、翡翠と、蜂蜜色と、虹色の瞳が、私を見ていた。
「伝言」
ひとまずそれだけ言った。
正確に言葉を思い出す。
「間に合うように帰るって、ナナリエたちに伝えて」
たしか、そう言っていた。
「“この子”からの伝言」
ナナリエ“たち”。
複数。
きっとナナリエとソラリスへの伝言なんだ。
それぞれは身近な友達みたいなのに、ふたりが揃うと全く別の生き物みたいに見える。
河原で石に触れた時も、このふたりと“彼女”の思い出が流れ込んできた。
だけど怖くて、ひとりでは言えなかった。
今はエンジュとハルジオンがいる。
ふたりの強い結びつきに飲み込まれそうになっても、助けてくれる人がいる。
今なら言えると思った。
だから、今、言った。
「ヨルカ」
やっぱりふたりは同時だった。
同時に彼女の名を呼んだ。
だけど、それで終わらなかった。
「……ヨルカ」
驚いたような、蜂蜜色の瞳。
そして、深緑の髪がさらりと落ちて、エンジュが力無く膝をついた。
「……ヨルカ……」
ヨルカ。
それが“彼女”の名前。
以前、どこかでその名前を聞いた気がした。
再会を約束するような声とともに。
どこでだっけ。
「エンジュ……」
ハルジオンの躊躇いがちな声が聞こえた。
床に膝をついて祈るように胸元を押さえるエンジュの、その肩に手を伸ばそうとしていた。
祈るように?
いつもエンジュが胸元を押さえるのは、服の下にしまわれた環に触れているからなのかも。
そんな余計な考察が、友達が辛そうなときなのに、頭に浮かんでしまった。
ハルジオンがエンジュに触れる前に、ナナリエが声を上げた。
「エンジュ」
手を止めたハルジオンと、エンジュの間に、ナナリエが割り込む。
「なにか、知っているのね?」
エンジュがナナリエを見上げた。
翡翠の目は今にも泣き出しそうだった。
恐いものから逃げ出そうとする子どものような顔だった。
「教えて」
ナナリエの声は冷たかった。
いま名前を呼んでいたのに、ナナリエは“彼女”を知らないの?
毎晩、無意識に手を握るほど、とても大切にしているみたいだったのに。
「エンジュ!」
ナナリエがもう一歩詰め寄ったとき、金色の髪が風のように動いた。
「エンジュ、いま無理」
ソラリスがエンジュを背後に隠した。
「……ソラリス」
エンジュが助けを求めるようにソラリスを見上げた。
ナナリエはソラリスを黙って見据えた。
「それに、それ、お前が自分で思い出すやつ」
ソラリスは睨むようにナナリエを見つめ返した。
「わからないのか?」
ナナリエは答えなかった。
でも、視線は揺れない。
ソラリスが鼻で笑って、私とナナリエを交互に見た。
「お前ら、近すぎるんだよ」
私とナナリエが近すぎる?
それって似ているってこと?
それとも心の距離のこと?
「だから本来そこにいるはずのやつが見えない。ヨルカが」
青い瞳に光が入って金色を返した。
ナナリエが息を呑んだ。
ソラリスの呆れ返った目が、また私を見る。
「だから、お前は早く帰れって言ってるんだ」
なんでもお見通しみたいな目で見つめられると身体が強張る。
「私が、ナナリエの邪魔をしてるから……?」
ようやくそれだけ搾り出した。
「お前も、相当にめんどくさいやつだな」
ソラリスが頭を掻いた。
ナナリエの頬がぴくりと動いた。
「アンリが帰る?」
「帰るだろ」
ソラリスは平然と言った。
「ここにあるのはヨルカの身体なんだから」
「そう、よね」
ナナリエは慌てるでもなく、事実を確認していた。
でも、心の中は見えない。
ナナリエの背中を見つめるハルジオンの顔も。
壊れそうなこの時間を悲しむようなエンジュの顔も。
本当のところは、みんなの気持ちなんてわからなかった。
「それにさ」
ソラリスは適当そうな顔で付け加えた。
「お前だって、向こうで待ってる男のひとりやふたり、いるんだろ?」
「いや、ひとりしかいません!」
私は咄嗟に答えた。
「……あれ?」
口をついて出た言葉に、自分が驚く。
「……え?」
目の前の四人も面食らった顔で私を見ていた。
「ひとりは、いるのかよ」
ソラリスが額に手を当てて天を仰いだ。
「……まさか」
ハルジオンが信じられないものを見るように目を見開く。
「……雑に引き当てたね」
エンジュが放心状態のままソラリスを指摘する。
「アンリに、そんな人が……」
衝撃に打たれたようにナナリエが半歩下がった。
私に、そんな人が……?
いた。
かもしれない。
私の帰る場所。
「……でも、アンリはこの国が好きなんでしょう」
ナナリエは私の腕を掴んだ。
「うん」
「だったら、まだ帰らないわよね」
「……帰り方わかんないし」
「そうよね」
「おい……」
ソラリスが何か言いかけた時、低い声が割って入った。
「ナナリエ」
私の腕を掴むナナリエの手に、ハルジオンがそっと触れた。
「常に、彼女の意思を尊重できるのか」
ナナリエは少しだけ目を伏せて、でもちゃんとハルジオンを見た。
「アンリが帰ると言ったら、見送ります」
「そうか」
ハルジオンは静かに頷いて、そして私のことも見た。
「私は、君とヨルカの意思を尊重する。判断は自分たちでするんだ」
さっきまで気の抜けていたハルジオンとは思えないくらい、いつものハルジオンだった。
一見冷たいようで、ちゃんと相手を尊重してくれる。
「まあ、ハルジオンのいう通りだな」
ソラリスがあくびをした。
「ヨルカが飛び出してったんなら、帰ってくるまでどうしようもないか」
まるで家出でもしたみたいな言い方。
「ヨルカって、みんなにとってなんなんですか?」
私はソラリスに聞いた。
さっきからヨルカに詳しい人みたいな態度で言うから。
「さあ?俺も会ったばっかりだし、よくわからん」
「え!?知り合いじゃないの?」
ソラリスはめんどくさそうに目を瞑った。
眠いのかもしれない。
「お前と俺が会ったのが祭りの時だろ?」
「はい」
「だから、そんときだよ」
「え」
わからん。
「だから祭りの時と、昨日の畑と今日、そんだけ」
「そんだけ?」
「でも充分だろ。お前とヨルカ、二重に見えてんのは事実なんだから」
「二重?」
それは乱視なのでは?
「おそらく……」
ナナリエが考え込む。
「アンリとヨルカは同じ時間を別々に生きているのね」
「え」
何を言っているの。
「ある選択をするたびに時間は枝分かれして、結果の数だけ無数の世界が存在するの」
「えーと」
「ヨルカが選んだ現在と、アンリが選んだ現在」
「そしたら現在がどんどん変わってっちゃうんじゃない?」
「いくつ枝分かれしても幹の部分は同じなのよ。大枠は変わらない。上流から流れた川が同じ海に流れ出るようにね」
「ごちゃごちゃ言ってるけど、だいたいそんな感じ」
ソラリスがうとうとしながら肯定する。
「こいつら、同時に違うこと喋るから酔っちまいそうになる」
ナナリエはなるほどと頷く。
「話す内容は違っても、座標は同じってことね。ヨルカも今ここで生きているし、あなたも今ここで生きているのね」
「あー……なんか、ヨルカ、“収束するところは変わらない”って言ってた」
私ももう眠くなってきた。
「間違いないわ。アンリとヨルカは同じ足跡を辿っている」
えー……どういうことー……。
私、けっこう自由にやってるつもりだったけど。
ヨルカの枠の中で生きていたってこと?
「でもどうしてそんなことになっているのかしら。ヨルカという子はなぜアンリと入れ替わろうとしたのかしら」
あ、でもヨルカ、“そこまでの道は君のもの”って言っていたな。
最後は同じだけど、ナナリエの反応とか、みんなの態度とか、そういうのは私が引き起こす結果なのかもしれない。
「なんかねー……私の世界を体験したかったんだって……でも手違いで私がこっちに来ちゃったみたい……」
「おー……お前、巻き込まれてんだなー。だんだん哀れに思えてきたぜ……」
「待って、ふたりとも寝ないで。まだ聞きたいことがたくさんあるの」
ナナリエの声が遠くなる。
とりあえず、なんか、ほっとした。
伝言を無事に伝えたし。
ナナリエとソラリスもわかってくれたみたいだし。
私はそのまま眠りの世界に誘われた。
——薄れゆく意識の中で。
悲しそうに目を伏せるエンジュと、エンジュを見ながら何も声をかけられないハルジオンの姿が、少しだけ引っかかっていた。




