第63話 あなたがここにいる —ペリドット—
緑の波間を漂うように、村の人たちが集まっていた。
玉穂の葉とともに、人々の薄緑色の髪もわずかに風に揺れている。
しかし緑色の茎や葉には白い粉が積もっていて、焼却の準備が整っていることを知らせていた。
落ち着いた声が空気を揺らす。
翡翠宮の神官が一定の速度を保って深々と礼をした。
神官が手に持った白い瓶から水のようなものを畑の角に撒いた。
甘い香りが少しだけ風に乗った。
三人の村民が、刃先が分かれた鍬のような農具で畑を耕す動きをした。
めぐりの神と、むすびの神に呼びかけたのち、神官はこの村の名前やこの土地のしるしを朗々と述べ、人々がいくつもの季節を作物とともにいたことを報告した。
村の人たちも、私たちも、隊員たちも、環を胸の位置で掲げて目を閉じた。
誰も声を出さない。
悲しむような音も聞こえない。
ただ沈黙だけがあった。
ほどかれ かえれ
その言葉が空気を揺らした。
めぐるでも、むすぶでもなく、ほどく。
その言葉に、なぜか腹の底がずしりと重くなった。
神官が静かに拝礼すると、人々はふうっと息を吐いた。
緊張が解けたというよりは、その時を迎えたことを覚悟するような音だった。
「それでは避難区画まで移動をお願いします」
「お子様は必ず所定の施設内に大人の方と待機願います」
ペリドットの職員たちが村民に声をかける。
村の人たちが静かな足取りで移動していく。
反対に、第七隊の隊員たちは畑の中に散っていった。
「アンリも、こちらよ」
ナナリエが私の手を引いて人の流れの中へ入っていく。
足取りに迷いはないのに、何度も畑を振り返るナナリエ。
その別れを惜しんでいるのか、焼却を間近で検証したいのか。
それはきっとナナリエ自身にもわかっていない。
——ということを、私は知っている。
村の大人たちは畑から離れた風上で焼却を見守る人もいるらしい。
途中で立ち止まって、消防団の人たちからマスクのようなものを受け取っていた。
私はナナリエに引っ張られて、学校のような建物の中に連れて行かれた。
村人に声をかけるハルジオンとすれ違った。
ナナリエとハルジオンは短く頷き合った。
ハルジオンはそのあと、私を軽く確認した。
ナナリエはきっと気づいていない。
ただ、私を安全なところへ連れていくことだけを考えている。
畑を見たい気持ちも、最後まで見送りたい気持ちもあるはずなのに、握った手を離さない。
なんとなく気づいた。
私は理由なんだ。
ナナリエを畑から下がらせるための。
きっとハルジオンは、ナナリエ自身に避難しろと言っていない。
言って聞くようなナナリエじゃない。
危険だと言われたって、手段を見つけて切り拓いていく人だ。
だけど、ナナリエは私の安全を選んだ。
自分の意志で。
ナナリエが私を選ぶことを、ハルジオンは知っていた。
そう思ったら胸の奥が温かくなった。
そうだ。
私の知ってるナナリエだ。
そして、何度も見てきた。
ハルジオンとナナリエの間にある、あの優しい空気を。
避難した場所は、学校の講堂みたいなところだった。
ナナリエは二階の回廊に上がると、窓辺に寄って外を見た。
私も彼女の隣に立って一緒に窓の外を覗く。
白い煙が上がっていた。
赤い炎というよりは、ただ白いもくもくとした生き物が起き上がるみたいだった。
水分の多い植物は燃えにくいって祖父が言っていたな、と思い出した。
ときどき粉末の燃焼補助剤に移った火が赤く立ち上る。
だけどそれ以外は静かな白だった。
ガラス越しにもパチッ、パチッと爆ぜる音が聞こえる。
白い中で、ちらちらと赤いものが見える。
第七隊の人たちが畑の中を確認して回っているのが見えた。
「なるほど。あの赤い布は互いの位置を視認するのに役立つのね」
感心するようにナナリエが呟いた。
……自分には赤が似合うからって、あの人は言っていたけどな。
私は心の中で苦笑いをした。対照的だし対称的なふたりだなって。
少しだけ窓ガラスが震えている気がして、おでこをそっと近づけた。
風の振動じゃなくて、悲しみの伝播だった。
泣きたいのに泣けない時の、喉の奥が締め付けられる感じ。
鼻の奥がつんと痛くなる。
痛いのは私じゃないのに。
窓の外では村の大人たちが、白い煙の向こうを見つめていた。
離れていたって目が痛いはず。
だけど誰も泣かずに、目を開いて見守っていた。
本当に痛いのは自分じゃないって言っているみたいだった。
ただ見送るために、立ち上る白を見上げていた。
「近くで見るの、きっと辛いよね」
見送る大人たちと一緒にペリドットの大臣や職員、ハルジオンも並んでいた。
畑の中では隊員やソラリスが慎重に動いていた。
私はそこにいるみんなの心が震えていないか、気がかりだった。
だけどナナリエの返事は違った。
「もう大丈夫よ。決めたら迷わない人だから」
決めたら迷わない人。そのひとり。
「一人で万事解決しようなんて、本当に傲慢よね」
呆れたように言う。
だけど少しだけ安心したようにも聞こえた。
それが誰のことを言っているのか、私にはすぐわかった。
昼過ぎに燃え始めた緑の畑は、白い煙をあげ、夕方になる頃には灰色に近づいていた。
想像したよりずっと早かった。
たしかに二日後に雨が降る予報で、三村の焼却を行う計画なら、このくらいの進捗になるのかもしれない。
煙が細くなってからも、第七隊の隊員たちは鍬のような道具で灰を返し、まだ青さの残る株を火の中心へ寄せていた。
確実に焼却しようとしているのだろう。
その作業も次第に減り、自然に燃え尽きるのを待っているみたいだった。
最後に全ての区画を回り、火種が残っていないか確認し始めた。
「ナナリエ」
講堂の椅子に腰掛けて外を見ていると、背後から声がかかった。
「もう外へ出ても大丈夫だ」
煙の匂いのするハルジオンだった。
少しだけ肩の荷が降りたような顔をしていた。
「ひとつ目は無事に終えましたね」
ナナリエはハルジオンに歩み寄って、見上げた。
「今夜一晩は、第七隊と消防団が再燃を見張る」
ハルジオンはため息をついた。
「だが、ひとまずは」
少しだけ張り詰めたものがほどけた。
ナナリエは表情を変えずに頷く。
そして歩き出した。
外の様子を見に行くんだろう。
歩き出した足を一度止め、振り返る。
虹色の後毛が少し揺れた。
「あなたも、一緒に行ってくれる?」
私に差し出された手。
迷わず、その手を握る。
外へ出ると、あたり一面、青臭い煙のにおいがまだ残っていた。
夕方になって風が少し出てきて、残ったにおいも散らしていく。
屋内に避難していた村の子どもたちも、畑を見つめていた。
大人の足にしがみついて少しだけ顔を覗かせる子。
「来年も植えるんでしょ?」と真っ直ぐに大人を見上げる子。
大人に抱かれて声をあげて泣いている子。
畑の近くに座り込んで観察している子。
友達と手を繋ぎながら静かに見つめている、少し大きい子たち。
大人たちも子どもたちも言葉は少なかった。
だけど、その空気を突っ切るように明るい声がした。
「うわー!すげー!何にもなーい!」
十歳くらいの男の子だった。
明るい声を上げ、灰色になった畑の中を楽しそうに走った。
楽しそう?
……少し違う。
「本当に全部なくなっちゃった!すげー!」
何かに突き動かされるように、はしゃいでいる。
「こら、やめなさい!」
父親らしき人が追いかけた。
「こんなときに申し訳ありません」
母親らしき人が周囲に頭を下げた。
追いかけられた男の子はさらに興奮して逃げ回る。
あの子は。
何かがおかしい。
見えている顔が、全てじゃない。
ちゃんと声をかけなきゃいけない子だ。
でも、どうやって?
私の中に、かける言葉があるだろうか。
私の隣で、ナナリエが手を、ハルジオンが足を、わずかに動かした。
だけど畑の真ん中にいたソラリスが、それを制するように軽く手を上げた。
そのままその手が、男の子の首根っこを捕まえる。
「こら、まだ火種が残ってるから走り回るな」
ソラリスに捕まえられた男の子はじたばた暴れる。
「放せよ!」
「放さない」
ソラリスは淡々と答える。
「放せ!」
「熱いぞ」
「でも……!」
男の子は怒りをソラリスにぶつけた。
「じゃあ叫ぶか」
「え?」
ソラリスは手を離した。
男の子は反動でよろけながらも、戸惑ってソラリスを見上げた。
ソラリスは真面目な顔で息を吸った。
そして空に向かって大声で叫んだ。
「来年は収穫するぞー!」
「何やってんの?」
男の子は呆気に取られてソラリスを見ている。
「お前も声出せ。せーの」
「来年は収穫するぞー!」
ソラリスの声しか聞こえなかった。
だけど、男の子も小さく口を動かしているのが見えた。
「声が小せえよ!もう一回だ」
「なんでだよ。恥ずかしいだろ」
「うるせえ。俺がやれって言ったらやるんだよ」
「バカみたいじゃん」
「でも声は出るだろ」
「出るけど……」
「なら、今はそれをやれ。隊長からの命令だ」
背中をバシッと叩かれて男の子は少しよろけた。
ソラリスが息を吸う。
男の子は嫌そうな顔をぐしゃぐしゃにして叫んだ。
「来年は収穫するぞー!」
今度は男の子のヤケクソみたいな声がはっきり聞こえた。
「来年は収穫するぞー!」
叫び声は何度も上がる。
近くの子どもたちが気にするように近づいていった。
「来年は……」
何度目かの叫びが、少しだけ震えた。
「らい、ねんは……」
もう言葉が出なくなっていた。
男の子は言葉の代わりに大きな声で泣き出した。
ヤケクソみたいな顔じゃなくて、隠しきれない自分の心を曝け出している顔だった。
男の子の周りに子どもたちが集まる。
同じ年くらいの男の子たちが肩をさすった。
しゃがみ込んで泣きじゃくる男の子の頭を、三歳くらいの女の子が優しく撫でた。
年上の男の子や女の子も近くに来て、静かに立っていた。
その中には、さっきまで黙ってぼーっとしていたのに、一緒に泣き始める子もいた。
ソラリスはもう、そこにはいなかった。
静かにその場を離れ、畑の見回りをする隊員たちに声をかけていた。
私は子どもたちを遠くから見ていた。
胸の奥に違うものがある。
私の感情じゃない、生まれたての戸惑いのようなもの。
男の子の涙を不思議そうに見ている。
なぜ泣いているのか理解できない。
だけど、そこから目が離せない。
そういう感情が、私の中に確かにあった。
“この身体の持ち主”も、ここで私と一緒に、この光景を見ている。
そして彼女は今、心を少しだけ知ろうとしている。
それが身体の戸惑いを通して伝わってきた。
心の声が聞こえる。
来年収穫するって理解したのに、どうして泣くの?って。
ナナリエが私の手をとった。
「大丈夫。悲しみと希望は隣り合うものよ」
言い聞かせるような穏やかな声。
だから、気づいてしまった。
私に向けての言葉じゃないって。
だって、私はあの男の子の涙の理由を理解している。
今までも感じていた。
ナナリエが、私の向こうに誰かを見ていることを。
だけど認めるのが怖かった。
ナナリエのことが好きだから。
彼女にも私を好きでいてほしいって思っていた。
「ナナリエ」
だけど、確認しなきゃ。
この成長途中の少女の手を、私も一緒に握りたい。
「今の言葉は、私に向けて言ったの?」
そう質問することに、私の心臓はかなり労力を使っていた。
その答えを聞くのが怖かった。
ナナリエは目を見開いた。
握る手の力が少しだけ弱くなる。
「ナナリエが見ているのは、私?」
私の声は少し震えた。
だけど、ナナリエはとても落ち着いていた。
ただ、初めてその問いを手に取ったみたいに、静かに考えていた。
「私は」
はっきりした声が落ちた。
「アンリを見ているわ」
真っ直ぐだった。
迷いのない目で私を見ていた。
その目が少しだけ微笑む。
「でも」
わずかに首を傾げる。
「ふとした瞬間に、別の誰かを見ている気もするの」
戸惑うでもなく、懐かしむでもなく、少しだけ可笑しそうに笑った。
「誰なのかしらね」
興味深いわねって顔で、ナナリエが私の目を覗き込んだ。
あっさりとしたその態度に、私は力が抜けてしまった。
もっと明確に私を切り離してしまうんじゃないかって、思っていた。
「きっと、私はこの子のことが大切なのね」
ナナリエは私の両肩を手のひらで包んだ。
その手が腕を伝って下りてくる。
下りてきた手が、私の両手に触れて止まった。
「だけど」
ぎゅっと握る。
「今はあなたがここにいる、それを大切に思っているわ」
今までで一番、ナナリエの虹色を感じた。
頼りなかった足元が、少しだけ固まった気がした。
「たぶん私も、この子のことが……」
私は言い切れなかった。
大切なのか、情が湧いたのか、ただ気になるだけなのか。
わからない。
でも、もっと知りたいなって思った。
私がナナリエの目を見つめ返した時、村はもう夜に入りかけていた。
相変わらずどんよりした空だけど、家々には温かい灯りがともり始めていた。




