第60話 今年はいい出来だった —ペリドット—
深い緑の大海原だった。
風が吹くたびに波の音がする。
空は相変わらず泣きそうなのに、畑は目に鮮やかな生命の色だった。
「これが玉穂の畑なんだ」
夏の水田に似ているかもしれない。
子どもの頃は毎年、風に吹かれて涼しそうな葉擦れの合間を自転車で駆け抜けていた。あのときの青さに似ている。
小麦畑は収穫前の黄金色しか見たことがない。でも土の上から背の高い草が生えている畑の感じは小麦に似ているかもしれない。
いや、違う。
これはこの星の穀物、玉穂だ。
どこまで背が伸びるのかわからないが、今は大人の膝上くらいの高さまである。
私が畑に入ってしゃがんだら、簡単に隠れられそうだ。
湿気を帯びた風が吹く。
葉が擦れる音はざわざわとしていて、だけどどこか泣いているみたいだった。
「玉穂が泣いていますね」
私の前に立つペリドットの職員二人が小さな声でそう話していた。
葉擦れの音のことを言っているのか、それとも私にはわからない何かを感じ取っているのか。
二人の職員の他に、ここに立っているのは、この村の長と、ペリドットの大臣、ハルジオン殿下とナナリエ、ナナリエのお供の私だけだ。
ガーネットの職員はすでに住民に説明に行っているし、王立特務救難隊とかいう人たちも畑に散っていて焼却が決定した際のシミュレーションをしている。
右大臣をはじめ会議に出ていた人たちの多くは現地には来ていない。
それはおそらく、ほぼ結論が出ているからだろう。
「報告の通りなら焼却以外の選択肢はないわ」
ナナリエは、昨日の夜には確信したように言っていた。
だけど彼女の隣で腰を落とすハルジオンは、この大海原から何かを見つけようと目を凝らしているみたいだった。
ナナリエもしゃがんで、玉穂の葉をめくって裏側を見た。
ハルジオンがナナリエに訊ねる。
「葉に灰斑が出ている株は少なく見えるが……」
ナナリエが答えようとハルジオンの顔を見る。
ナナリエの声に別の声が重なった。
「そこじゃねえよ」
どこかで聞いたことがある声だった。
ハルジオンとナナリエが立ち上がった。
私も声の方へ視線を向ける。
曇り空の下でも眩しいほどに、青空を大きく切り取ったような瞳が鋭く光っていた。
小柄で、木なんか軽々登っていってしまいそう。
青年なのか少年なのか、判別がつかない。
お祭りの日に会った、あの赤い人だ。
でも今日はそんなに赤くない。
黒い半袖シャツに、グレーのつなぎを上半身だけ脱いで腰の位置で縛っている。
髪は金だし、目も青い。
唯一赤いのは首に小さく巻かれたスカーフだけ。
「こっちだ」
ハルジオンの前までズカズカと歩み寄り、その人はしゃがみこんで玉穂を一房掴んだ。
そのまま躊躇いなく葉を茎から引き剥がした。
茎を割ったと言う方が正しいかもしれない。
「これは……」
ハルジオンが声を漏らす。
「葉鞘内部に菌糸が入り込んでますね」
ナナリエがハルジオンの後ろから覗き込む。
私もナナリエの横からそっと覗き込んだ。
葉と茎の繋ぎ目あたりに灰色の粉みたいなものが詰まっていた。
「葉は元気そうに見える」
青い瞳がハルジオンを真っ直ぐに見ている。
「でも中はもうやられてる」
その瞳は夏の陽射しのように厳しい鋭さだった。
ハルジオンはその陽射しから目を逸らさない。
「それにな」
その人は身軽そうに立ち上がって畑全体を見渡した。
全てを見通すように。
「見てみろよ」
ハルジオンも立ち上がった。
ハルジオンの髪が風に揺れる。
緑の波も、ともに揺れる。
「もうここ、みんな苦しがってる」
再び視線が交わる。
「お前も聞こえてんだろ」
聞こえている?
このすすり泣くような声はやっぱり……。
私の鼓膜が、皮膚が、胸の奥が、その振動を感じ取っている気がした。
私の手が、ナナリエの外套の裾を無意識に掴んでいた。
今までもこうやって、ナナリエに救いを求めるような動きはあった。
でもそれは、この身体の持ち主の感情が身体を伝わって出ているんだと思った。
でも今は、私が怖がっている。
「アンリ。怖いのね」
ナナリエが幼い子どもに寄り添うように私の頭を撫でた。
この畑、生きているんだ。
玉穂も、そこに巣食う灰穂病の菌も。
それを今から焼く。
焼くかもしれないんだ。
「ナナリエ、その子を連れて作業小屋へ戻っていろ」
ハルジオンが静かに言った。
ナナリエの手が、私の頭の上で止まった。
「アンリを下がらせることには賛成です。でも、私はここに残ります」
私を心配している。
でも、ここを離れるつもりはない。
たぶん、ハルジオンのことも心配してるんだ。
ふたりのやりとりを聞いて、青い瞳も私へ向く。
「お前、まだここにいたのか」
少し低い声になる。
「早く帰った方がいい」
帰る。
それは王都に?
もとの世界に?
みんなはここに残るのに。
これから畑の悲鳴を聞くかもしれないのに。
この国の人たちには当たり前なのかもしれない。
平気なのかもしれない。
いや……聞こえるなら、平気なはずはない。
私の母はよく言っていた。
『子どもの頃、鶏を絞める音を家でいつも聞いていたから、鶏肉が食べられなくなった』って。
ずっと私には何にも理解できなかった。
でも、鰻屋でアルバイトをしていた時、ベテランさんたちが鰻を捌くのを見て、硬直しているはずの身体がびくりと動いた瞬間、足がすくんだ。
あの感じを思い出した。
離れた方がいいのかもしれない。
でも、この人たちがここにいるなら、私も。
「ここにいます」
私はナナリエから手を離して、そう言った。
呆れたような青い瞳と、心配そうな蜂蜜色の瞳が、それぞれ私を見た。
「大丈夫よ」
ナナリエがそっと私の手を握る。
「あなたなら、大丈夫」
虹色の瞳が私の姿を映した。
私の肩に、ぽんっと大きな手が触れた。
「この村の子どもたちも見守っています」
ペリドットの大臣だった。
黄緑色の目を和らげて微笑む。
「みんなで育てた玉穂です。君も一緒に見送ってください」
命を見届ける機会を逃さないでほしい、そう願っているみたいだった。
見送る。
もう、決定したことなのか。
「……どうにもならないのか」
ハルジオンが搾り出すように言った。
「ならない」
「なりません」
ふたりが、同時に言った。
そこから折り重ねるように会話が続く。
「風下だけじゃない」
「畑の中で回っているわね」
「奥も同じだ」
「ええ。色が沈んでいる」
「抜いて止める段階じゃねえ」
「焼くしかないわ」
「残す方が残酷だ」
ナナリエと、その人は息をつく間も無く、同じ結論へ向かっていく。
「……焼けば終わり、というわけではない」
ハルジオンの視線が畑よりも遠くへ向けられた。
そこには民家と、こちらの様子をうかがう村民たちの姿が見えた。
「彼らの半年間の積み重ねを壊すことになる」
湿った風がみんなの頬を優しく撫でた。
誰ひとりとして切り離されることはない、と言ったエンジュの言葉が急に蘇る。
「俺が決めてやるよ」
赤いスカーフが少しだけ揺れた。
「お前は、そのあとのことをやれ」
「……何を言っている」
「切りたくないんだろ」
声が少しだけ優しい。
「いいんだ。俺は切れる」
「いや。責任は、私が持つ」
「持ちたきゃ持てばいい」
その人は肩をすくめた。
「俺が言ってんのはそこじゃねえよ」
「じゃあどこだ」
ハルジオンの声色が少しだけ崩れた。
「お前が一番見ているところだよ」
青空にハルジオンが映る。
「焼くって言葉を、お前が一人で背負うなって言ってんだ」
ハルジオンの眉がわずかに動いた。
「焼けば終わりじゃない。住民の避難も、補償も、来年の作付けも、市場もある」
冷静そうな表情のまま、少しだけ早口だ。
「だから、それはお前がやれ」
「無責任なことを」
「得意そうな顔してんじゃん」
見透かすような青い瞳で、その人はニヤリと笑った。
「俺は切るところを持つ。お前は、その後を持て。半分こだ」
「……子どもか」
ハルジオンは吐き捨てるように言った。
「その後の対応は、私も持ちます」
ナナリエが微笑むと、その人は首を傾げた。
「半分をか?」
「半分の半分と、半分の半分です」
少し挑発的に微笑み、ナナリエは、目の前のふたりを交互に指差した。
「足したら一番多くね?」
「でも、持てます」
ナナリエが腕まくりをする仕草をした。
「ひとつ聞いていいか」
ふたりの間にハルジオンが割って入った。
「……なぜ切れる」
ため息のような吐き出す声。
その問いに青い瞳が瞬いた。
「めぐるって知ってるから」
それが問いへの答えなのか、私には一瞬わからなかった。
たぶん、ハルジオンにも。
「そんな説明では伝わらないでしょう」
ため息をついたのはナナリエだった。
「焼却後、毒素が分解されれば灰に残るミネラルは土へ還元されます」
いつものナナリエの調子だ。
「カリウムやカルシウムは次の生育を支えるわ」
虹色の瞳がきらきら輝く。
「焼いた畑は終わりではないの。やがて次の芽吹きの力になる」
それを疑わない、真っ直ぐな気持ち。
「はあ?」
呆れたような声が投げつけられる。
「俺はそんなごちゃごちゃした話、してねえよ」
「違うの?」
「違う」
青空と虹がぶつかって光が放たれる。
「でも、たぶん同じだ」
その人は諦めたように笑った。
同じことを言っている気がするのに、話している言葉は全然違った。
だけど、ハルジオンは納得したように頷いた。
「では、ふたりに持ってもらおう」
背中の荷物がほんの少しだけ軽くなったように、息を吐いた。
「それでいい」
青い目は満足そうに細められた。
何かを踏み出す時、自分のことは信じられなくても、誰かの言葉なら信じられることがある。
でも、この二人の言葉は、励ましでも、説得でもない。
そこに地面があることを疑っていない人の言葉だった。
信じるでは足りない。
知っているんだ。
人は、そこに地面があると知っているから踏み出せる。
めぐることを知っている。
だから、踏み出せる。
だから、切れる。
ハルジオンが顔を上げた。
畑の向こう、そこにいる人たちを見る。
上等そうな長靴が、湿った土を踏んで歩き始めた。
ペリドットの大臣が遠くを指差しナナリエに何か質問をし始めた。
青い瞳の人も、遠くから誰かに呼ばれて歩いていく。
気がつくと私は、ハルジオンのあとを追っていた。
畑の端っこの平らな石の上に、おじいさんがひとり座っていた。
ハルジオンはその横の草の上に躊躇せず腰を下ろす。
私は少し後ろの花壇の煉瓦の上に腰かけた。
しばらく誰も何も言わなかった。
ハルジオンは言葉を迷うと言うよりも、ただ一緒に畑を眺めていた。
緑の波は、気持ちよさそうに時を待っていた。
「今年はいい出来だった」
ようやく、おじいさんが呟いた。
「はい」
ハルジオンは畑を見たまま小さく答えた。
「この年は種まきを一日遅らせたんだ。その一日が良かった」
おじいさんがぽつりぽつりと続ける。
「秋の初めは、まだ暑さが残っていましたね」
ハルジオンはおじいさんの言葉を一粒ずつ拾う。
「冬の寒さは厳しかった。それも良かった」
玉穂は冬を耐え忍んで春に背を伸ばす植物なんだ。
「春先の雨が抜けるように水路も直した」
畑の区画は、気持ち良いくらいに手を入れられていた。
まるでそこが玉穂の家みたいに。
「去年は半分しか実らなかった」
声を落として、おじいさんが遠くを見る。
「今年こそは、と思ったんだ」
風に吹かれた声が、少しかすれた。
「よく、見ておられたのですね」
ハルジオンの声は静かなのに、風に飛ばされなかった。
「焼くのか」
おじいさんが訊いた。
ふたりはまだ、空に向かって手を伸ばす玉穂の波から視線を外していなかった。
「はい」
ハルジオンは短く答えた。
「あんたが決めたのか」
そこで初めてハルジオンはおじいさんを見た。
「私です」
ふたりの後ろに座る私にも、ハルジオンの瞳がはっきりと輝いたのが見えた。
おじいさんは少しだけ首を垂れた。
そして短く、
「そうか」
とだけ応じた。
そしてもう一度、畑を見てはっきりした声で言った。
「今年はいい出来だった」
「そうだな」
おじいさんの言葉を力強く肯定する声が投げつけられた。
太陽のように眩しい金色の髪が、風を受けてなびいた。
いつの間に、そこにいたんだろう。
「確かに、いい出来だ」
緑の波に身体を沈める。
玉穂の茎を根元から上にかけてすっと指でなぞった。
「来年は実らせようぜ」
おじいさんに背を向けたまま言う。
「簡単に言うな」
おじいさんの声に力がこもる。
「ああ。簡単じゃねえな」
あっさり認めて、その人は勝手に喋る。
「葉が立ってる。倒れてねえ」
おじいさんは何も言い返さなかった。
「株間もいい。風が抜けるように作ってある」
再び根元を摘んだ指に力が入り、すっと一本だけ抜いた。
「根も強え。雨が続いても踏ん張れそうだ」
玉穂を手に握ったまま、彼は立ち上がった。
そして広い緑の大海原を眺める。
「こっから向こうまで高さがほとんど同じだ」
葉擦れの音が応える。
海みたいに見えるのは、誰かがそう育てたからなんだ、私はそう気づいた。
「ほんと、簡単じゃねえな」
青い目が振り返る。
「だから一緒にやるんだ。俺も、こいつも」
おじいさんも、ハルジオンも、その背中はしばらく動かなかった。
ゆっくりと、ハルジオンがおじいさんを見る。
「私たちは決して、あなたたちだけに背負わせません」
おじいさんは力無く笑った。
ふたりの言葉に、違う言葉を返した。
「ここの玉穂は毎年ふっくらしてて、艶があって、粉にする瞬間に甘い香りがする。捏ねて蒸せば穀粒と同じまん丸の食いもんになる」
まだ茎の中で眠っていて、その姿はまだ見られない穂。
それはあの白くてもちもちでほかほかの食べ物と同じ形をしているんだ。
手に持つとぽわんと軽くて、出来たては白い湯気が出ている。
唇に触れる柔らかい感触。
噛みとる歯に、ふわっと気持ちいい食感。
鼻の奥に抜けるかすかな甘い香り。
お腹に入ってふくらむ満足感。
幸せのひととき。
ぐうううぅぅぅ?
そのとき間抜けな音がした。
立場を弁えない、私の腹だ。
そこにいた三人の視線がいっせいに集まる。
「あの、えっと、想像しちゃって」
弁解の余地はない。
「いや、想像力強すぎかよ」
呆れた青い目。
「さすがは食欲の申し子」
小馬鹿にしたような蜂蜜色の目。
「しょうがないさ。うちの玉穂は最高だからな」
ちょっと得意げなおじいさんのドヤ顔。
おじいさんがそのまま笑う。
つられてふたりもおかしそうに笑った。
私は、ただただ恥ずかしくて顔を、いや腹を覆っていた。
三人の笑い声につられたのか、村の人たちが一歩ずつ距離をつめてきた。
最初に渋くていい声のおじさんが得意げに言う。
「うちの玉穂はな、蒸したのが一番だ。薄く伸ばして焼く地域もあるけどな」
よぼよぼした声のおじいさんも会話に混ざる。
「あの畝は、婆さんが土を見て決めたんだ」
ちょっと太めの女の人も笑う。
「あそこ見て。子どもらが種をこぼしたから、そこだけ変に密集してるの」
女の人の後ろから、男の子と女の子が顔をのぞかせる。
「ぼくたちが蒔いたんだよ」
「学校から帰ってきてからね」
肩まで袖をまくったお兄さんが畑の横に腰を下ろした。
「嵐の夜は、みんな寝られなかった」
「でも持ち堪えてくれたんだよな。こいつら」
別のお兄さんが付け足す。
「ああ。前の日まで水路の調整がんばったしな」
お兄さんたちが歯を見せて笑った。
さっきは三人だった笑い声が、今は村全体で笑っている。
この村の時間を、私は見たことはない。
でもこの人たちはここで生きている。
朝まだ薄暗いうちに、誰かが畑を見に行く。
夜のあいだに水が溜まっていないか、葉が倒れていないか、虫がついていないか。
日照りが続けば水路を開き、雨が続けば流れを逃す。
風の強い日には、どうか倒れないでくれと、きっと祈った。
子どもたちは種まきの日を楽しみに学校から帰ってきて、小さな手で土を触る。
収穫が終わっても終わりじゃない。
土を休ませ、戻し、次の季節に備える。
半年ではない。
一年でもない。
この村では、ずっとそれを繰り返してきたんだ。
毎年現れるこの緑の大海原は、この土地に生きる人がずっと守ってきたものなんだ。
焼くのは、作物だけではなかった。
この土地に積もった、たくさんの季節を焼くんだ。
ハルジオンはずっとそれを見ていたんだ。
村の人たちの笑い声に包まれて、ハルジオンの目には力強さが戻っていった。
この笑い声こそが、ハルジオンの原点なのかもしれない。
「よし、じゃあやるか」
最初に立ち上がったのは、青い目のあの人だった。
例のあの人。
そう、いい加減、名前がわからないと思考に落としにくい。
いつの間にかそこにいて、気がついたら人の輪に入っている。
やっぱり不思議な人だ。
「ほら、立てよ。お前がやるんだろ」
ハルジオンに手を差し出す。
差し出された手を握り返して、ハルジオンが立ち上がった。
「ああ」
光に透ける金糸のような髪と、光を放つ金色の髪が風に揺れた。
「カレンダエ王立特務救難隊第七隊隊長、イサリダ・ソラリス」
ハルジオンが鋭い目つきで笑った。
「だったな」
だったな、って。……いや、長い。
昨日の夜に練習したんじゃないのってくらいスムーズに言っているけど。
名前を呼ばれたその人は、はあ〜っと大きくため息をついた。
「あんまりごちゃごちゃつけんなよ」
青い瞳にハルジオンを映して笑う。
「俺はただの、ソラリスだ」




