第59話 灰色の空の下で
赤ちゃんを抱いたモナルダが部屋を出ていくのと同時に、私たちも新生児室を後にした。
ヒヤシンス様が病院の正面玄関まで送ってくれて、その途中で通過した広間では、珊瑚宮の人たちや親戚や友達に囲まれたモナルダが豪快に笑っていた。
赤ちゃんの泣き声も負けずと大きかった。
その日はすっかり夜だったので、私たちはガーネットにある王族御用達の宿に泊まり、その後、三日ほどガーネットで過ごした。
ナナリエは自分の研究室に通い、王族の遺伝に関する資料をまとめたり、なにやら作業をしたりしていた。
二日目の朝に行ったときには、手土産のお菓子の箱が空いて、半分以上なくなっていた。
「昨日の夜に来たのね」
ナナリエの先輩は夜型らしく、けっきょく滞在期間中には会えなかった。
王都に戻ると、セアノサス様はすでに瑠璃宮の領地に戻ったあとで、健康診断の結果はナナリエがデータで送ってくれることになった。
私の所属は琥珀宮なので、本来、セアノサス様には関係のないことだ。
だけど、私の今後の成長を親身に考えてくれていた。
身体年齢は十四歳前後。
この国の制度でいえば、中等教育の最後の年にあたる。
つまり、私は本来なら学校にいる年齢だった。
「通わせるべきではないか、という意見も出たわ」
ナナリエは、そう言って晶盤を閉じた。
児童の保護や福祉を担当する専門家と少しだけ話し合いがあったらしい。
ハルジオンとセアノサス様も意見を出してくれたという。
「けれど、あなたはまだ体力が戻っていないし、生活習慣も言葉の使い方も、こちらの子どもとは違いすぎる。今すぐ集団に入れるのは負担が大きい、という結論になったの」
大学で学生に話す側だったはずの私は、この国では、学校に行くかどうかを大人たちに相談される側になっている。
……もう一度学生生活を送る。
それもちょっと楽しそうだ。
給食とか。運動会とか。文化祭とか。
学校最後の年なら、修学旅行だってある。
この国の学校にあるのかはわからないけれど。
「秋までは、瑠璃宮で様子を見ることになったわ。勉強は、必要なものだけ個別に」
私の処遇は引き続き暫定ということになる。
王都にある瑠璃宮別邸に引き続き居候し、ナナリエの乳母子であるミオマルクとネモローサの手伝いをしながら、毎日少しずつ勉強や料理を教えてもらった。
ナナリエは瑠璃宮別邸の応接室で来客対応をしたり、カレイド宮殿の執務室で公務にあたっていた。私は応接室にお茶を運んだあとに部屋の隅で待機していたり、執務室では勉強をしているふりをしながらナナリエの仕事ぶりを観察したりしていた。
ナナリエを訪ねてくるのは、相変わらず司法の青と技術の紫が多かったけれど、次第に緑の人たちが増えてきた。
「またペリドットの人?」
お客さんを見送ってから、私はナナリエに質問した。
「今のはエメラルドの気象観測官よ」
ナナリエは窓の外を見た。
空は曇っていた。
ここ最近は短時間の小雨はあるものの、だいたいは曇り空だった。
「天気が良くないの?」
この前の議会の内容を頭の中で思い返した。
穀物に発生する真菌性の病気。
毎日状況を報告して、夏前に最終判断をするって言っていた。
でも、三日以上、雨を伴う湿った状態が続く予報が出たら、判断を前倒しにするって。
「例年より雨は少ないわ」
ナナリエが窓ガラスに手をつくと、その向こう側のナナリエと手を合わせていた。
「けれど、例年より湿度の高い日が続いている」
湿度。
そういえばエンジュも「乾いた風が吹くといいね」って言っていた。
「雨が続かなくても、病気が広がりやすいの?」
最終判断をすると言っていた夏前まで、まだ一ヶ月以上ある。
まだ余裕があるのかな、って単純に思った。
「灰穂病にとっては悪くない条件ね」
窓ガラスに映るナナリエの表情が鋭くなった。
この国の主食、玉穂。
粉にして、パンのようなお餅のような、ほかほかの食べ物になる。
西でも北でも南でも、まだ行ったことのない東でも、きっとみんなが毎日食べている。
私だって、この国で一番大好きな食べ物だ。
なんとか解決に向かうといいな。
私もナナリエの横に立って、窓の外を見上げた。
空は灰色だった。
灰色の空が晴れないまま、朝と夜が何度か繰り返された。
そしてある朝、ペリドット宮から、灰穂病に関する担当者会議の招集がかかった。
結環の儀から、ひと月と少しが過ぎていた。
「この二日間で新たに五村で感染が確認され、本日現在で、合計十一村となりました」
ペリドットの農産局穀物課の課長が報告を上げた。
その横で農産局長とペリドットの農耕大臣も張り詰めた表情で頷いている。
「二日間のうちに新規で五村、ということでよろしいですか?」
質問したのはシトリンの主計局の主計官だ。
私は、環を握りしめながら会議室内を見渡す。
名刺代わりに、各人の環から発せられる情報が、発言者が誰なのか特定するのに役立っていた。
「はい。また、最初に感染が確認された三村のうち二村、およびこの一ヶ月で新たに感染が確認された一村は、罹患株の抜き取りでは対応できない段階になりました」
会議室の中に低いどよめきが起きた。
ペリドット、エメラルド、シトリン、ガーネット。
様々な立場の人たちが十五人ほど、一堂に会しているが、誰も他人事という顔はしていなかった。
「抜き取りでは対応できない、つまり焼却を求めるということですか」
今度はガーネットの大気環境課の担当者の質問だ。
「その段階に入っていると言えます」
ペリドットの課長は淡々と答える。
二日で五村。
数字の意味はわからない。
けれど会議室の空気が静かに重くなったことだけはわかった。
「一ヶ月前の議事録では、降雨が続かなければ感染は抑制可能とありますが」
ガーネットの担当者がエメラルドの気象観測官に視線を向ける。
「その見解に変更はありません」
エメラルドの気象観測官も静かに答える。
「降雨量は例年を下回っています」
会議室の前面に置かれた大きなスクリーンにグラフが表示された。
「しかし夜霧の滞留と湿潤な南風が予想以上に長引きました」
今度はカレンダエの地図。
スクリーンに北北西の地域に海からの風が流れ込む図が差し込まれる。
「例年より湿度の高い状態が継続しています」
「予測はできなかったのですか」
シトリンの別の担当者が机を指でコンと叩いた。
気象観測官は動じることなく頷く。
「予測はしました。報告書も提出しています」
「受領しています」
ナナリエがすっと立ち上がった。
他の人を見るに、発言する時に立ち上がる必要はなさそうだ。
「殿下」
ナナリエに軽く手をあげて右大臣が話を引き取る。
左右に並んでいた大臣のうち、今日は優しそうな方だけが出席していた。
「王女殿下からの提案を受け、この十日間は現地巡回と罹患株の抜き取り支援のため、王都から派遣する職員を三倍に増員して対応している」
右大臣の発言を聞きながら、ナナリエが静かに着席した。
「問題は天候だけではありません」
ペリドットの大臣が立ち上がった。
最初に報告をしていた課長は口を閉ざす。
「今年の玉穂は生育が非常に良好でした」
ペリドットの大臣の黄緑色の瞳が険しくなった。
「株の生育が揃い、葉量も多かった」
本来なら喜ばしい報告のはずだったと言いたげに。
「結果として株元の湿気が抜けにくくなってしまった」
会議室にため息が漏れた。
「豊作が仇になったと……」
その声にペリドットの大臣が深く頷く。
項垂れるという方が正しいのかもしれない。
黄緑色の髪が頼りなく頬へ落ちた。
「皮肉ですが、その側面はあります」
会議室に一瞬の沈黙が落ちたが、ペリドットの大臣はすぐに顔を上げて続けた。
「さらに、原因菌の胞子は湿った南風によって運ばれています」
「実際に、最初の三村の風下にあたる北側地区で感染拡大が確認されています」
大臣の横で穀物課の課長が発言を継ぎ、スクリーンの地図を指し示した。
「感染源となる地域を止めなければ、さらに広がるということか」
そこで初めてハルジオン殿下が発言をした。
会議の始まりの挨拶以降、ずっと沈黙していた。
「その通りです」
ペリドットの大臣がハルジオン殿下に視線を向けた。
「早急に現地視察を行う」
ハルジオン殿下の視線が大臣の視線とぶつかる。
その隣で、エメラルドの気象観測官が声を上げた。
「共有した資料のとおり、二日後に降雨の可能性が高まっています」
会議室が静かになる。
「大雨ではありません。しかし現在の湿潤状態に重なれば、病害の進行を加速させる恐れがあります」
「……雨か」
誰が呟いたのかはわからない。
「現地確認を行うのであれば、それまでを推奨します」
気象観測官の言葉を受けて、ガーネットの大気環境課の担当者が顔を上げた。
「焼却を行う場合、周辺住民への周知と避難勧告が必要です」
迷いのない声で告げる。
「焼却により胞子は失活しますが、毒素を含んだ排煙による健康被害が懸念されます」
「本日中に該当三村の長に伝達するように」
ハルジオン殿下がガーネットの担当者を一瞥する。
「かしこまりました」
「つまり、焼却は決定ということですか」
シトリンの主計官がハルジオン殿下に確認する。
「違う」
ハルジオン殿下は短く否定した。
「明日、現地確認を行う。焼却の可否はその場で判断する。ただし、必要と判断した時に住民の避難が間に合わなければ意味がない。準備は進める」
ハルジオン殿下はシトリンの主計官から視線を外さず続ける。
「現時点での市場への影響は」
「現時点であれば市場への影響は限定的です」
主計官は澱みなく答え、ハルジオン殿下はまたすぐ確認を行う。
「補償金の計上は終わっているな」
「はい。補償及び再播種支援も災害準備金の範囲内で対応可能です」
しかし主計官の目が一瞬鋭くなる。
「ただし、財源の一部は事業延期によって確保する必要があります」
「どの事業だ」
「アメジスト宮管轄の磁力網更新事業、その一部です」
会議室内の何人かが顔を上げる。
「安全性に問題は」
「当面は維持管理で対応可能との報告を受けています」
みんな、それぞれに頷く。
「承知した」
ハルジオン殿下も短く答えた。
ナナリエが口元に手を当て、少しだけ何かを考えたようだった。
でも私はナナリエの背中しか見えない。
再びペリドットの大臣が声を上げた。
視線は右大臣の方に向いている。
「焼却となる場合、翡翠宮へ神官の派遣を要請いたします」
「見送り、だね」
右大臣は静かに頷いた。
「私の方から神殿へは連絡しておこう」
会議室内にも静かな同意の空気が広がる。
見送り?
判断を見送る、じゃなくて。
穀物の最期を見送るってこと?
少し不思議だった。
右大臣はそのまま会議室内に声を広げる。
「焼却の可否はあくまで現地で判断。しかし必要となった場合に備え、王立特務救難隊へ待機要請を出しておくように」
会議室後方で控えていた事務官がすぐに反応する。
「大規模な人員は動かせません。現地確認なら、特務救難隊の第七隊が最も早いかと」
「構わない。本日中に手配を」
右大臣の指示に事務官が「承知致しました」と応じた。
王立、特務、救難隊、第七隊。
この国の組織は十二の宮で分担されると聞いたけれど、王国直属の組織もあるんだ。
その後、いくつかの確認事項を調整したうえ、右大臣が締めくくった。
「では明日、現地で」
けれど、誰もすぐには雑談を始めなかった。
ペリドットの人たちは晶盤を指差しながら再確認をし、その様子をエメラルドの気象観測官も横から覗く。
ガーネットの担当者は誰かに連絡をとっていた。
シトリンの主計官も誰かに連絡をとりながら、晶盤に何かを入力しているようだった。
右大臣だけが表情を少し和らげ、ハルジオン殿下に労いの言葉をかけていた。
ナナリエは最後まで着席して晶盤で資料を見直しているようだったが、はっと顔を上げると私に向けて小さく頷いた。会議は終わったわ、と言うように。
みんな、それぞれの持ち場へ戻っていく。
明日、現地に行く。
焼却されるかもしれない畑を見に行く。
見送り。
その言葉だけが、胸の中に残っていた。




