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星粒のリテラエ ——暫定魔女が記録する、理系王女と最適解王子のたったひとつの“誤差”  作者: はなちゃん
第五章 雨上がりのソラ 〜私の足元には、ふたつの影がある〜
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第58話 見送る声、迎える声 —ガーネット—

「旅立つ人と、見送る人が過ごす場所?」


 なんとなく意味はわかる。


 案内するとも何も言わずにヒヤシンス様は歩き始めた。

 私とナナリエもそのまま着いていく。


 扉は、どの部屋も半分ほど開いていた。

 閉ざされているわけではない。


 けれど覗き込むには、あまりにも静かな場所。


 通り過ぎる時に、目の端に少しだけその空間が入ってくる。


 大きな窓から入る陽射しは眩しくもないし暑くもない。


 きっと特殊なガラスを使っているんだ。

 まるで秋の午後に窓辺で日向ぼっこをしているみたいだった。


 ある部屋では、年老いた人の髪を、家族らしい人が櫛で梳いていた。


 別の部屋では、まだ若い人の寝台のそばに、同じくらいの年の人たちが座っていた。

 いつもの時間の続きみたいに、楽しそうに。


 また別の部屋では、ぽつんと寝ている人のところに看護師が歩み寄って声をかけているところだった。

「今日は風が優しいよ。窓を開けてみる?」


 通り過ぎる時、ヒヤシンス様が小さな声で言った。

「身寄りのない人のところには、神殿からも耳を傾けに来るのよ」


 もうひとつの部屋から、かすれた女性の声が聞こえた。

「もう仕事に戻って。こんなことに付き合わせて、ごめんね」


 寝台のそばに座る男性は、何も言えずにいた。

 その横で看護師が静かに膝を折る。

「迷惑をかけていると思うんですね」


 女性が息を吐く。

「でも、ここにいる時間を選んだのは、この方ですよ」

 男性も黙って女性の手を握る。


「あなたが奪っている時間ではありません」


 私は、その先を聞けなかった。


 それ以上聞いてはいけない気がした。


 でも、その声色だけが、胸の奥に残った。


 静かなその声は、柔らかい水のように、男性と女性のあいだにある小さな隙間に、少しずつ行き渡っていた。



「子どもの頃、最期に間に合わなかったことがあるの」


 ヒヤシンス様はぽつりと言った。


「救いたくて医者になった。でも、救えないときもある」


 そこが静かだったから、声が出なかったのだろうか。

 私たちは静かに言葉の続きを待っていた。


「医者なのに治せない。この部屋に来るのが、苦しい時期もあったわ」


 ヒヤシンス様は、どこかの部屋ではなく、廊下の先を見ていた。


「それでも、少しずつ受け入れられるようになって……」


 どこかの部屋から、楽しそうな笑い声が聞こえてきた。


「見送ることは、残された人のためだけじゃない、還っていく人のためだけじゃない。そのあいだが壊れないように守ることなんだって、わかったの」



 私にも間に合わなかったことがある。

 間に合わなかったというか、突然だった。


 前日に遊びに行ったとき、祖父は七輪で椎茸を焼いてくれた。


 その翌日、祖父が亡くなったと聞かされた。


 そんなこともあるんだ、と、ただ思った。


 味も匂いも思い出せなくて、ただ「椎茸には醤油だ」と得意げに解説する声と、じゅっと音を立てる醤油の気配だけが耳に張り付いていた。


 だから私は、見送る、という言葉の意味を、たぶん本当には知らない。


 死は、遠い場所から来るものではなかった。


 昨日の庭の、竹製のベンチのすぐ隣に、静かに座っていた。



「……そういえば」


 ヒヤシンス様の声が水滴のように落ちて、私は引き戻された。


「三年前かしら、あの子をここで見たのは」


 さっきまでの声とは違って、少しだけ明るかった。


「ほら、この前、カーネリアンの夜にみんなが言っていた『見りゃわかる』の子」


 私は、お祭りの日に空から降ってきた、あの赤い人を思い浮かべた。

 その人かどうかもわからないのに。


「不思議な子だったわ」


 懐かしそうに目を細める。


「私には、境目を判定することはできる。でもその境目って、見送る人たちにはだんだん見えなくなるの」


 ヒヤシンス様はゆっくり歩きながら話を続けた。


「まだいるのか、もう遠くへ行きかけているのか。声をかけていいのか、手を握っていいのか。みんな、戸惑うでしょう」


 窓の外では葉が柔らかく揺れている。


「あの子は、“まだここにいる”ってことを、当たり前みたいに示せる人だったわ」


 ずっと遠くを見ていたヒヤシンス様が、私たちの方に視線を向けた。


 少しおかしそうに言う。


「まだ聞こえているだろ。なら話せばいい、って」


 ナナリエは何も言わずにヒヤシンス様の目を見つめていた。


 私は、ナナリエとヒヤシンス様の顔を順に見た。


 なんと言ったらいいのか、わからなくて。


 その人のことはわからない。


 けれど、ヒヤシンス様がその人に感じた不思議さだけは、少しだけわかった気がした。



 その時、ヒヤシンス様の環が淡く光った。

 琥珀じゃなくてガーネットの環。


「……あら」


 さっきまでとは違う声だった。


「モナルダのところ、生まれたみたい」


 モナルダ?

 なんか聞き覚えのある名前。



 見送りの間を出ると、廊下の空気が少しずつ変わっていった。


 静かな水の底から、明るい水面に上がっていくみたいに。



 そのフロアは元気な泣き声で弾けそうだった。



 ヒヤシンス様に連れられて、ナナリエと私は新生児室に来ていた。


「おう!来てくれたのか!」


 腹の底から爽快な声を出す人がいる。


 壁のように背が高くて、肩幅が広くて、燃えるような赤い髪と、力強いオレンジの瞳。


「ヒヤシンスもナナリエも、ありがとな!」


 歯を見せて快活に笑う。


 オレンジの瞳がぐいんと下に降りてきた。

 私の目線の高さに合わせてくれる。


「お嬢ちゃんも、うちの息子、見てってくれよな」


 すごい。透き通るようなオレンジの瞳。

 炎をそのまま結晶にして、瞳にはめ込んだみたい。


「あら、男の子だったのね」

「そうだ!俺の息子!」

 わははと豪快に笑う。


 この人は、ハルジオンとバレーボールの試合で戦っていた、イサリダ・モナルダだ。

 珊瑚宮の王族——ナナリエが言うには第八子、末っ子らしい。

 二十三歳、ナナリエより三つ歳上だ。


 モナルダは個室の中に案内してくれた。


 寝台の上には淡い珊瑚色の髪をゆるくまとめた女性がいた。

 産後で疲れているはずなのに、明るい茶色の瞳が柔らかく笑っていた。


 その腕には、この世の純真を結晶にしたような小さな赤ちゃんが抱かれていた。


「来てくださったんですね。ありがとうございます、ヒヤシンス様、ナナリエ様」


 それから、私にも目を向けて微笑んだ。

「あなたが魔女様ですね」


 魔女はともかく、様をつけられるのは恥ずかしい。

 照れ笑いをしていると横からナナリエが私の両肩に手を置いた。


「アンリです」

 ナナリエが代わりに私を紹介してくれた。


 返すようにモナルダが奥さんの肩をぽんと叩く。

「妻のジニアだ」


「ご誕生、おめでとうございます」

 ナナリエが、女性が胸に抱いている赤ちゃんに目を細めながら告げた。


「おめでとう」

 ヒヤシンス様も続く。


「おめでとうございます」

 私も。


 赤ちゃんはお祝いの言葉を受け取るたびに口をもにょもにょさせていた。


「ありがとうございます。……まだ、夢みたいで」

 ジニアさんは実感が湧かないみたいに、照れ笑いをした。


「抱いていただけますか」

 ジニアさんは少し恥ずかしそうにナナリエへ告げた。


 ナナリエは静かに頷くと、ジニアさんの腕からそっと赤ちゃんを受け取った。


「誕生の日にナナリエ様に祝福していただけるなんて、この子は幸せです」



「この子が、たくさんの幸せと結ばれますように」


 ナナリエは赤ちゃんを愛おしそうに見つめた。


 ヒヤシンス様より先にナナリエが抱く。

 それは次の結王としての役目だからだろうか。


 だけどその言葉は、決められた祝詞ではなくて、ナナリエの心の底から出てきたものみたいだった。


 赤ちゃんは両手で何かを探すみたいにもぞもぞしている。


「かわいいなあ」

 私も心の底から呟いてしまった。


「アンリ様も抱っこしてください」

「え!私も?」

「おう!いっぱい抱っこしてやってくれ」


 ナナリエがそっと私の腕の上に乗せてくれる。


 軽い。

 温かい。

 いい匂いがする。

 口が小さい。

 唇が薄い。

 指が小枝みたいに頼りない。


 ずっと、もぞもぞ動いている。

 しわしわの瞼が時々眩しそうに開く。


 かわいい。


「私も抱っこしたいわ」

 ヒヤシンス様がウキウキして私の腕の中を覗き込む。


「ど、どうやって移動させれば……」

 身動きの取れない私の代わりに、モナルダが赤ちゃんをヒヤシンス様の腕に移動させてくれた。


「すごい、慣れてる。もうお父さんって感じです」

「だろ?ずっと待ってたんだ」

 喜びが顔からはみ出している。


「生まれてくる子ってのは、みんな誰かに待たれてるんだよな」


 こんなに幸せな笑顔を見たら、私まで、この子を待っていたような気持ちになる。


 待ち望まれて、この世に迎えられる。


 それは、なんだかすごいことだと思った。


「ナナリエも元気な赤ちゃん産めよ!」

 モナルダは軽く言った。


「ちょっとモナルダ」

 ジニアさんが慌てて止める。


「この人ったらはしゃぎすぎてしまって、申し訳ありません」


 その隣でモナルダが不思議そうに首を傾げる。


「それに。あなたが産んだみたいに言わないで。大変だったのよ」


 ジニアさんの言葉にモナルダの頭がさっと下がる。


「ごめんな。がんばってくれてありがとうな」


 ため息をつくジニアさんに、ナナリエが静かに言った。


「ジニアさん。私のことは気にしなくて大丈夫です」


 微笑むでもなく、かといって冷たいわけでもない表情だった。


「そうだぞ。ナナリエだってもうすぐ新婚なんだ。いいじゃないか」


 モナルダが元気を取り戻して豪快に笑う。

 ジニアさんは肩をすぼめた。


「おふたりは重い責任を負っていらっしゃるの。そんなふうに言うのは……」


「ハルジオンだって、ナナリエのことを大切にしてるんだから、一緒だろ?」


 疑う余地もないって顔で、真っ直ぐに言う。


 そのまま私たちに向かって、爽やかに笑った。


「ジニアの実家は、珊瑚宮の海岸通りで揚げ菓子屋をやっててさ」


 そういえば珊瑚宮に来た日に、通りすがりのおばあさんたちに教えてもらった店があるな。

 美味しいから、食べていきなって。


「俺が通い詰めて、ジニアを口説き落としたんだ」


 幸せいっぱいの顔で得意げに話すモナルダ。


「今はその話はいいでしょ」

 困惑するジニアさん。


「ジニアは気にするけどさ。でも、好きで一緒になったんだから、それでいいだろ?」


 この人は、とても純粋で素直な人なんだと思う。


 気持ちいいくらいに明るい。



 なのに。


 なぜだろう。


 ふいに私の頭の中に、


 ハルジオンの苦しそうな顔と、研究室で布巾を洗っていたナナリエの背中が、よぎった。



「あら」

 ヒヤシンス様の明るい声が置かれた。

「そろそろお母さんのところに戻りたいみたい」


 ヒヤシンス様の腕の中で、赤ちゃんが必死に手足をばたばたさせている。


 薄っすらと開けられたまぶたから、柔らかいオレンジの瞳が見えた。

 ジニアさんの方を見ているみたいだった。


 赤ちゃんはジニアさんの腕の中に戻ってきた。


 それを満足そうに見つめながら、モナルダが言った。


「このあと、下の広間に顔を出しに行くんだ」


「お披露目ですか?」

 私はモナルダを見上げて質問した。


「ああ。父親が子を抱いてお披露目するのが、この国の王族の習わしでさ」

 モナルダは感慨深そうに頷いた。

「俺も、親父にそうしてもらったらしい」


 オレンジ色の瞳に、受け継がれてきた灯が揺れていた。

 自分もそれを次へ渡せることを喜ぶように。


 私はナナリエの方を見た。


「ナナリエもここでお披露目されたんだね」


 ナナリエは赤ちゃんの手に自分の指を握らせていた。


 その小さな手を見つめたまま、ナナリエは静かに答えた。


「いいえ。私は、していないと聞いているわ」


 その声はあまりにあっさりしていた。


「……え」


 聞き返していいことなのか、わからなかった。

 私が口を開きかけたとき、ジニアさんが赤ちゃんを抱き直した。


「そろそろ時間かしら」


 モナルダは、その腕からそっと赤ちゃんを受け取る。


「来てくれてありがとな」



 ナナリエはもう一度小さな手に触れた。


「幸せに」


 その声も、やっぱり静かで、とても穏やかだった。


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