第53話 慣例通りに —王都—
「あ、ハルジオン殿下だ」
西側の席の前列に、いつもの気難しそうな顔をした殿下が座っていた。
反対側の東の最前列に視線を移すと、ちょうどナナリエが着席するところだった。
「ナナリエも来たみたい」
議場のざわめきの中で見るナナリエは、どこか遠い存在に見えた。
乳白色の髪が議事堂の高窓から降り注ぐ光に揺れて虹色に反射している。
この議場は椅子のみで机はない。同心円上に椅子が並べられているだけだ。
もう一度ハルジオン殿下を見た。
いつも通りなのに、どこか疲れているように見えた。
エンジュもハルジオン殿下の疲労を心配していたのだろうか。
「ねえ、エンジュ……」
さっきの暗い視線の理由を聞こうと、横を見たとき、
ぶーーーん。
目の前、本当に、目の前を、何かが一瞬で通り過ぎた。
「ひいっ」
咄嗟に悲鳴が出る。
「アンリ、議場内はお静かに」
エンジュが厳しい視線を向ける。だけど、どこか愉快そうだ。
「いや、だって……」
どうしたの?って顔して首を傾けるエンジュの頭に、でっかい虫が止まっていた。
「頭に、なんか、ついてるよ……」
なんとか息を整えて伝えた。
「ああ」
エンジュは目線だけ自分の右上に向けた。
「翡翠から追いかけてきたのかな?」
でっかい虫は少し細長いカナブンみたいなやつだった。
でも硬そうな緑色の体は虹色の光を返していてきれいだった。
これって……。
復元した玉虫厨子を見たことがあるけど、金色の透かし彫りの隙間から見えたあの色に似ている。
タマムシってやつ?虫自体は写真でしか見たことないけど、少なくとも大きさが違う。大きすぎる。カブトムシくらいの大きさしてる。
「環翅虫だよ」
にこっと笑ってエンジュが言った。虫の重みで髪の毛が引っ張られている。
「エンジュの……友達なの?」
ちょっと言葉選びを間違えたかもしれない。
エンジュは面白そうに笑って答えた。
「へえ。アンリには虫の友達がいるの?」
「いないけど」
虫は苦手。不意打ちで飛んでくるから。
「かわいいでしょ。だからお世話してるんだ」
ペットってこと?
環翅虫に髪を引っ張られながら嬉しそうにしている。
エンジュは髪に虫を止まらせたまま、何事もなかったように議場に視線を戻した。
いや、私、虫の横で議会の傍聴するの?落ち着かないんだけど……。
席を移動しようかなと腰を浮かせた時、議場内は色を消したように静まり返った。
「双王陛下のご入場だよ」
エンジュがこれ以上ないくらい小さな声で囁いた。
全員が起立して右手の環を胸元でかざしている。
エンジュも胸元にそっと右手をあてたので、私もそれに倣って同じ姿勢をとった。
議場の上段、左右から玉座に向けてゆっくりと歩いてくる。
左に、薄緑色の髪をした男性。
右に、薄金色の髪をした女性。
たしか男性の方が環王と呼ばれ、女性の方が結王と呼ばれているはずだ。
ハルジオン殿下のお父さんと、お母さん。
玉座は傍聴席からは遠くて、表情はよく見えない。
けれど環王陛下の金色の目ははっきりと見えた。思慮深く落ち着いた雰囲気、だけど堂々とした体格で、場内のどこまでもその声が届きそうだ。
結王陛下は琥珀色の大きな目で議場全体を見渡していた。目が合っていないのに、見られている気がする。たぶん、とても視野が広い人なんだと思う。
環王陛下が口を開いた。
「めぐりの神のもとに、議を開く」
結王陛下が続く。
「むすびの神のもとに、声を聞く」
それだけだった。
両陛下は静かに着席する。
少しの間を置いて、玉座の真下で議長が立ち上がり、短い言葉を告げた。
神々と双王の前で、各宮がそれぞれの務めを偽らず果たす、というような内容だった。
たぶん、議会の始まりの宣誓みたいなものだ。
その言葉を待って、翡翠色の衣が立ち上がった。さっきエンジュが言っていた祭祀を担当する大臣だ。
「昨日の結環の儀は、滞りなく結ばれました」
その一言で、議場の空気が少しだけほどけた。
少しずつ、議場から雑談が聞こえ始める。
双王陛下は相変わらず玉座にいるのに、議場内の緊張は完全にほどけていた。
ほくほくした丸い笑顔の大臣が立ち上がった。
議長が一言「トパーズ」と呼びかけ、その後に続けて長い役職名を言った。たぶん、文化と儀典を担当する大臣、という内容だったと思う。
トパーズの大臣は遠慮のない笑顔で、すぐ隣に座っているハルジオン殿下を見ながら言った。
「結環の儀が滞りなく結ばれたことを受け、慣例に従い、来年の大祭後に双王即位式ならびに王子殿下と王女殿下の婚礼を執り行うものとして、各宮は準備に入る。そう理解してよろしいでしょうか」
言い終えるときに、トパーズの大臣は向かい合っているナナリエへも、確認の笑顔を向けた。
ナナリエは表情を変えずに前を見ている。
即位。
婚礼。
ナナリエとハルジオンが。
友達に向けられるには、ずいぶん重い言葉に感じた。
議長が事務的に「王子殿下」とだけ呼びかけた。
ハルジオン殿下は硬い表情で、ゆっくりと立ち上がった。
議場の空気が、期待するように緩むのを感じた。
「……慣例通りに」
短い返答。
そう言っただけなのに、ハルジオン殿下の声は、少しだけ低く聞こえた。
議長は今度は「王女殿下」と呼びかける。
ナナリエは「王子殿下に同じく」とだけ短く答えた。
すごく、硬くて、事務的なやり取りだった。
いつもの二人の、少しズレているけど柔らかい雰囲気はどこにもなかった。
この厳粛な議事堂の中だから、そう感じるのかもしれない。
ふと、隣で空気がゆるんだ気がして、視線だけ向けた。
エンジュが安心したように息を吐く音が聞こえたからだ。すごく小さく。
たぶん、いつもなら気づかないくらい。
だけど隣にいる虫を警戒していた今の私は、気づいてしまった。
エンジュは何に、ほっとしたんだろう。
少しだけ顔を横に向けると、エンジュも気づいて私を見た。
「二人はもう、王様になるの?」
小声で聞いた。
エンジュは少し視線をずらした。
「慣例では、そうなっているね」
まただ。
慣例通り。
ハルジオン殿下も、エンジュも、どうしてそんな言い方をするんだろう。
そのとき、ハルジオン殿下がほんの一瞬だけこちらを見た。
私ではない。
たぶん、エンジュを。
エンジュはそれに気づくと、声を出さずににっこり笑った。
「……こっち、見てたね」
私は確認した。
「うん、見てくれたね」
「嬉しそうだね」
「うん、ハルジオンが見てくれたからね」
その顔は、本当に、ただ大好きな友達と目が合ったことを喜んでいるだけみたいだった。
視線を議場に戻すと、すでに別の議題に移っていた。
各宮の年始報告だったり、祭りに関する交通規制の解除についてだったり、初日の軽い議題という感じだった。
報告を行う大臣たちの席は、みんな最前列に配置されていた。
その並びにナナリエとハルジオン殿下もいる。
「……ナナリエたちって最前列にいるけど、何かの大臣なの?」
「違うよ」
エンジュは軽く否定した。
「どこかひとつの宮を代表しているわけじゃないよ。次の双王になるかもしれない人たちだから、国全体を見る席をもらってるんだ」
「えーと、なんの責任もないってこと?」
「……正式な省庁の長じゃないね。でも国政の実務に関わっている」
「なんで?修行みたいなもの?」
「ああ、修行か……」
少し考えてから、エンジュは顔を上げた
「慣例で、そうなってるんだよ」
これでいっか、みたいな顔。
説明めんどくさくなったのかな?
「でも、王様は統治しないって、この前ナナリエが言ってたよ」
象徴みたいなもので、立ってるだけだわ、って。
今は座ってるけど。
一度も発言していない。
統治しない王様になるのに、どうして国の実務に関わるんだろう?
「そうなんだよね」
そう言って、エンジュは議場を見下ろした。
「だから、ハルジオンみたいにここまで真面目に議会へ入ってくる王位継承者は、けっこう珍しいよ」
「真面目に?」
「うん。見習いの顔して、もう半分くらい議会を回してる」
どういうこと?
私も一緒に覗き込んだ。
議会は、いつの間にか少し深刻そうな空気になっていた。
緑より少し黄みがかった服の大臣が、細い声で発言しているところだった。
ペリドットの人で、この国の農耕や環境を担当する大臣らしい。
「北東部の穀倉地帯にて、灰穂病と見られる病斑が確認されました。現在、罹患株の抜き取り、区画ごとの水路分離、感染藁の移動禁止、農具の洗浄を実施しております」
議場に、低いざわめきが広がった。
穀物の穂に入る真菌性の病気だよと、エンジュが教えてくれた。
最初は葉に斑点ができるだけらしい。
「発生は一村に限られるのか」
「現時点では三村です。ただしいずれも同じ水系に属します」
隣にいるシトリンの、財務を担当する大臣が眉を寄せた。
「三村。ならば、現行対応で封じ込め可能では?」
ペリドットの大臣は少しだけ言葉を選んだ。
「可能であると申し上げたいところですが、確約はできません。灰穂病は葉に出た時点では軽くみえます。問題は、穂に移った後です」
そこでナナリエがすっと立ち上がった。
「穂に入れば、見た目で選別できなくなります」
議場が静かになった。
ペリドットの農耕環境大臣はナナリエを見て静かに頷く。
ナナリエは頷き返して話を続けた。
「食べられる穀粒と、毒を持つ穀粒が混ざります。倉に入れば、他の穀物も巻き込みます。飼料に回しても、家畜に出ます。藁を堆肥に戻せば、来年も残ります」
ガーネットの大臣が、慎重に問いかけた。
「つまり、収穫後の選別では足りない、と」
「足りません」
ナナリエは即答した。
農耕環境大臣が続けた。
「ゆえに、発生区画の一部について、青穂のうちの刈り取りと焼却許可を求めます」
ざわめきが、一段大きくなった。
「待たれよ。収穫前の穀物を焼くというのか」
議員たちが慎重な姿勢を見せる。
ペリドットらしい、柔らかい緑の髪を揺らして、大臣が深く頷く。
「感染が穂に入る前に止めるには、それが最も確実です」
シトリンの大臣が、その太い首を横に振った。頬の肉が少し揺れる。
「確実、という言葉は重い。焼けば、その畑からの収穫はゼロになる。補償はどこから出す。備蓄を開ければ、秋までの価格が跳ねる」
別の議員が言った。
「しかも、まだ葉の病だ。穂には出ていない」
ナナリエが静かに返す。
「穂に出てからでは遅いのです」
「だが、出ていないものを理由に畑を焼くことはできない」
「その通りです。だからこそ、今、議会の許可が必要なのです」
農耕環境大臣が苦渋に満ちた表情になる。
そこで、エメラルドの大臣が、ゆっくりと口を開いた。
その目は数ヶ月先を見通しているような澄んだ色をしていた。
「例年であれば、穂ばらみの前に乾いた東風が入ります。畑は一度乾き、病はそこで鈍ります」
穂ばらみ?なんだろう、と思ったとき、隣でエンジュが小声で教えてくれた。
まだ外には出ていない穂が、茎の中で膨らみ始める時期のことらしい。
ハルジオン殿下がエメラルドの大臣に視線を向けた。
「今年は違うのか」
「断言はできません。ただ、夜霧が長く残っています。南の湿った風も、まだ切れておりません。暦の上では春の半ばを過ぎましたが、空は雨季の尾を引いております」
議場の空気が、少し変わった。
ガーネットの大臣が言った。彼女はこの国の保健を担う役職だ。
「焼却する場合、煙と灰の管理が必要です。風向きを誤れば周辺集落に被害が出ます。井戸、水路、病人、幼子の避難も考えなければなりません」
真菌性の伝染病だから人にうつる、というよりも、穀物や藁に毒が残ることが問題らしい。だから焼くにしても、煙や灰まで管理しなければならないのだ。
「つまり、すぐには焼けないということか」
「焼くなら準備が要ります。焼かないなら、なおさら監視が要ります」
ガーネットの大臣は赤い瞳を険しく光らせた。
その発言を受けて、シトリンの大臣がため息をついた。
「監視にも金がかかる。焼却にも金がかかる。どちらにしても国庫を開くことになる」
ナナリエは椅子に座り直して小さく呟いた。
「国庫で済むなら安いものです」
一瞬、議場が静まり返った。
ハルジオン殿下が口を開いた。
「王女殿下の懸念は、議事録に明記する。農耕環境大臣の焼却提案も、却下ではなく継続審議とする」
その声には、さっきの「慣例通りに」と答えた時の重さがなかった。
シトリンの大臣が顔を上げる。
「では、現時点での焼却は?」
「認めない」
ナナリエがハルジオン殿下を見た。
「ただし、現行対応では足りない」
ハルジオン殿下は議場全体を見渡した。
「感染区画は準封鎖。藁、種籾、飼料、堆肥の移動を禁ずる。水路は分け、農具は区画ごとに管理する。巡回官を増やし、発生地区を毎日記録せよ」
農耕環境大臣が深く頷いた。
「承知しました」
「エメラルドは、風向き、夜霧、降雨の兆候を毎朝提出。穂ばらみの前に再観測を行う」
「承ります」
「ガーネットは、焼却が必要になった場合の避難、煙害対策、井戸の保全手順を作れ」
「承知しました」
「シトリンは、監視費用と、万一の補償額を試算する」
シトリンの大臣は苦い顔をした。
「焼かない決定をしながら、焼く金を用意せよと?」
「焼かないための準備だ」
さっきまでは、それぞれの大臣が自分の持ち場から話していた。
畑。お金。気象。毒。人。
どれも正しくて、だからこそ、どれを先に取るべきかわからなくなる。
だけど、そのばらばらになりかけた声を、ハルジオン殿下はひとつずつ席に戻していった。
「本当は、ああいうのは誰がまとめるの?」
「左大臣と右大臣だね」
双王の左右に座っていたのでそう翻訳してみたけど、本当はもっと長い名前。
エンジュが玉座に近い白い席を見た。
年配の人がふたり、そこに座っている。
ひとりはにこにこしていて、もうひとりは真面目な顔で黙っていた。
「十二宮をまたぐ議題は、基本的にあのふたりが収めるんだよ。でも今日は、ハルジオンが先に回してるから」
「だから黙ってるの?」
「半分は見守り。半分は、楽をしてるのかな」
ふふっと冗談ぽく笑うエンジュ。
私はもう一度ハルジオン殿下の表情を見た。
「いま畑を焼けば、議会は農民の信を失う。何も備えなければ、国は穀倉を失う。よって、焼却は現時点では見送る。ただし、穂への移行、または三日以上の降雨を伴う湿潤が見込まれる場合、即時再議とする」
楽しそう、とは違うかもしれない。
でも、ひとつひとつほどいて、調整していくその役割が、とても自然に見えた。
「三日続いた時には、もう穂に入っているかもしれません」
ナナリエが懸念を示す。
ハルジオン殿下は表情を変えずに頷く。
「三日続いてからではない。三日続くと見込まれた時点で再議する」
エメラルドの大臣が静かに頷いた。
「見込みを誤らぬよう、努めます」
ハルジオン殿下は最後に、農耕環境大臣へ視線を戻した。
「大臣。現場にはこう伝えよ。国は見捨てていない。だが、軽んじてもいない。畑を守るために、畑へ入るな、と」
ペリドットの農耕環境大臣は、深く頭を下げた。
「かしこまりました」
もう一度全体を見渡したあと、ハルジオン殿下は隙のない動きで着席した。
本当に、議会を回している、という表現が似合う。
私は隣のエンジュをちらっと見た。
エンジュもこちらを見て微笑み、髪の毛に止まっている虹色の虫が、一瞬、羽をばっと広げた。
「ね。ハルジオン、すごいでしょ?」
得意げにエンジュが言う。
自慢の友達なんだな。
「ああいう時のハルジオンは、息がしやすそうなんだよね」
エンジュは、議場の中の金色を見下ろしながら、少しだけ目を細めた。
息がしやすそう。
少しわかる。
私も水の中で泳ぐ魚みたいな気分になるとき、ある。
フィールドワークで見たものを、誰かに伝えているときだ。
学会の壇上ではなくて、非常勤で行った大学の教室で、出席票の裏に感想を書いてくれる学生たちを前に、少しだけ本筋から外れた話をしているとき。
あの人は今、自分の知っている世界の仕組みを、人に手渡しているんだ。
そう思ったら、あの怖い殿下が少し身近に感じられた。
「乾いた風、吹くといいね」
高窓から降り注ぐ光を見上げながら、エンジュが呟いた。
虹色の虫が、ばたたっと羽ばたいた。




