第51話 結環の儀
結環の儀は、
一年の始まりに神々と国の“間”をむすび、
国中に神々の息吹をめぐり渡らせるための、
祈りの儀式だという。
円形の舞台は、前日の余韻を少しだけ残していた。
不可侵の若宮司が、生命力の赤に、真正面から対峙させられた、あの熱の名残。
白い石造りの舞台は、二つの太陽の光を反射させている。
最初に昇る赤い太陽。最後に沈む白い太陽。
今はまだ、二つとも東の空にいる。
白い舞台の中央は、ほんのわずかに一段高くなっていて、
その円の周りを沿うように広く浅い溝に水が張られていた。
その環の形をした水鏡は空を映し、
二つの太陽が釣り合う時刻を待っていた。
儀式が始まるにはまだ、少し早い。
けれど、すり鉢状の観覧席はすでに人でいっぱいだった。
「どこに座ろう……」
空席を探して一人で彷徨っているうちに、一番上の席まで来てしまった。
前列の方が人が多く、後方の席は人がまばらだ。
最前列は、境がわからないほど舞台に近い。
この国に所属させてもらってはいるけど、やっぱり新入りだし……。
私は南側の一番後ろの席にちょこんと座った。
舞台から見上げたら、建物の二階分くらい高いかもしれない。
「みんなの顔、わかるかな」
野外演劇を見に来たみたいな気分だった。
「今年は結座と環座が、東西に揃うんだってねえ」
「まあ、めでたいこと」
「水鏡がきれいに見えるよ」
「ありがたいねえ」
観覧席は各地から今日のために訪れたであろう人々で埋め尽くされていた。
髪の色も、服の特徴も、喋り方も、その声の大きさも、みんな違う。
男も女も、子どもも、お年寄りも、泣いている赤ちゃんも。
神妙に待つ人も、隣の人と再会を喜び合う人も、退屈そうに欠伸をする人も。
みんなが同じ空間にいた。
そして、ここに来ていないたくさんの人々が、この国の各地にいる。
赤い太陽が、空の一番高い位置を過ぎようとしている。
遅れて昇った白い太陽も、少しずつその高さに近づいてきた。
影が短くなってきた。
その影の長さを感じ取ったのか、あたりは次第に声が少なくなっていく。
やがて、声は完全に止んだ。
足元の影が、右と左にわずかに分かれていた。
観覧席の最前列の人たちが立ち上がった。
白い柔らかそうな装束を着た男たちだ。
裸足で白い石を踏みしめながら中央に集まってくる。
そのまま円形の舞台を囲うように円を作った。
いや、彼らが立っているところも舞台なんだ。
彼らが大きな円を作ったとき、
観覧席の間に設けられた控えの間の空間から、女たちがひたひたと歩いてきた。
白くて長い布を数人で分け合いながら運んでくる。
東西南北、四ヶ所の控えの間から出てきた女たちは、円の外に静かに膝をついた。
そして最後に現れたのは、四人。
控えの間から少し進み、舞台の外側で、それぞれ東西南北の位置に立つ。
東にはユニワ・ナナリエ。
星空のような瑠璃色のマントを靡かせている。
西にはスヴェロギ・ハルジオン。
昼の光のような琥珀色のマントが静かに止まる。
南にはイサリダ・ロタラ。
朝日のような珊瑚色の短いマントが左肩で翻る。
北にはヒモロギ・エンジュ。
身体を斜めに大きく覆う翡翠色の衣は、この国の日没の色。
その場の全員が彫刻のように静止した。
装束と長い髪だけが微風にわずかに揺れるだけ。
やがて、風すらも止む。
翡翠色の衣が静かに動いた。
手に持った錫杖のようなものが一度だけ地を叩く。
しゃん、と澄んだ音が落ちた。
その音が消えるまで、誰も息をしないように見えた。
音が消えきると、男たちの円が動いた。
円の内側を向いて、男たちが足を一度だけ踏み鳴らした。
どん、と白い石が鳴った。
音は舞台の上だけで終わらず、すり鉢状の観覧席を低くのぼってくる。
私の座っている一番後ろの石まで、ほんの少し震えた。
二度目の足音に男たちの低い声が重なる。
言葉なのか、掛け声なのか、私にはすぐに聞き取れなかった。
ただ、問いかけているのだとわかった。
空にでも、大地にでもなく、
まだ誰も立っていない中央へ。
足を上げる。静止する。踏み下ろす。声を出す。また静止する。
低い振動が大地と空気を通じて、そこに座る人の身体を震わせる。
低い振動が観覧席の一番上まで届いたころ、
女たちが薄い布を持って立ち上がった。
北の女たちが最初に動く。
先頭を歩く女の足が、水を踏んだ。
深さはない。けれど水面は確かに割れ、白い裾の下で細かな波が走る。
水鏡を踏みながら、中心を通り抜け、南に届く。
円を突っ切るように、北と南で布の端を持って高く掲げた。
続いて時計回りに、少しずつ角度をずらしながら、布が水鏡を貫いていく。
一本、また一本。
あっという間に、中央には十二方位を結ぶ白い道が生まれていた。
円を切るように走った六本の布はゆっくりと形を変える。
外側に控えていた女たちが内側へ入ってきて、布の途中をそっと持ち上げる。
女たちが移動して、円形を作ると、布も円を描いた。
直線だった布が、たわみ、弧になり、やがて一つの輪になる。
男たちの大きな円と、その内側に女たちの小さな円。
男たちの低い声に応えるように、女たちは高い声を出す。
女性たちの声は高すぎて、音というより光に近かった。
足音が揃うたび、地面ではなく、私の内側が鳴った。
男たちが足を踏み鳴らし続けるなか、女たちは布をすぼめ、
東西南北の位置に通り道ができた。
瑠璃と、琥珀と、珊瑚と、翡翠は、同時に水鏡へと足を踏み入れた。
走らない。
水を乱さない。
呼ばれたものが応じるように歩く。
北から進んできたエンジュが錫杖を高く空に掲げる。
南から進んできたロタラが片膝をつき、右の掌を地につける。
天と地に呼びかけるみたいだった。
東から進んできたナナリエが右手を上げた。
西から進んできたハルジオンが左手を上げた。
掌と掌が、胸の高さで触れた。
握らない。引き寄せない。押し返さない。
そこに透明な鏡が一枚立っているみたいに。
東の王が西を映し、西の王が東を映している。
触れているのに越えない。
隔てているのに離れていない。
そのときはっきりと、
太陽が南の空を二つに分け合った。
水鏡に二つの太陽が映る。
西側は赤く、東側は白く、太陽の光を映していた。
空の双日が、地上の環を左右から押さえる。
二つの太陽に挟まれて、二人の王が向かい合う。
一直線が見えた。
風が止んだ。
それなのに、その場の全員の髪の細い毛先が、同じ角度でふっと持ちあがる。
白い布の縁が、見えない流れをなぞるように震える。
場所そのものが、向きを持ったようだった。
男たちが足を踏み鳴らすと、音が二重に、遅れて聞こえる。
女たちの高い声が、体の内側からも聞こえる。
静止するエンジュの錫杖が自ら響く。
金属同士が触れる寸前の澄んだ気配だけが広がった。
骨が震える。
私の胸の辺りの骨が、振動している。
内側から音が出ようとしている。
最初に声を出したのが誰だったのか、わからなかった。
歌ではない。
言葉でもない。
ただ、長く吐いた息が、石の客席を撫でた。
舞台から渡されたものを、誰かがそっと受け取ったみたいだった。
それに、どこかの低い声が重なる。
少し遅れて、子どもの高い声が乗る。
老人のかすれた声が、石段を伝っていく。
声は、旋律を持たなかった。
けれど、ばらばらでもなかった。
みんなが同じ音を探しているのではない。
自分の体の中で一番よく震える場所を探している。
どの声も違うのに、同じように石を震わせていた。
一体になる、というのとは違う。
それは、ここで暮らしている人たちの音だった。
街の雑踏。
たくさんの会話の応酬。
笑い声や、泣き声や、呼びかける声。
そういうものが束になって、震えている。
その震えが、石段を伝い、水鏡へ落ちていく。
私は観覧席にいるのだと思っていた。
けれど、ここも、響いている。
ここも環なのだ。
私の胸の内側さえも、響いている。
息を吸った。
声を出せばいい。
そう思った。
たぶん、難しいことじゃない。
ただ、喉を開いて、息を渡せばいい。
けれど、音は出なかった。
喉の奥に、小さな震えだけが残る。
胸はこんなに鳴っているのに。
呼吸はもう周りと同じ速さになっているのに。
私の声を、この環に混ぜていいのか。
まだ、わからなかった。
“間”が満ちた時、翡翠の瞳がそれを見届けた。
むすばれ めぐれ
言葉がふたつだけ置かれた。
男たちの足音が一斉に止まる。
遅れて、女たちの声だけが残る。
ナナリエとハルジオンの重ねた掌は静かに降ろされる。
エンジュが錫杖を鳴らす。
女たちの声も止まる。
錫杖の金属の余韻が消えるまで、
みんな呼吸を忘れていた。
どれくらい経っただろう。
最初に声を上げたのは、どこかの席の赤ちゃんだった。
元気な泣き声。
続いてその周辺からのどよめくような笑い声。
そのまま、すり鉢状の観覧席は日常を取り戻した。
私も、安心して息を吸う。
まだ、自分の中で、消化はできていない。
でも、この国の何かには触れた気がする。
わからないまま、少しだけ、離れがたくなっていた。
石の座席に座っていたら、いつの間にかお尻が痛くなっていた。
前の席の人たちが立ち上がっている。
私も立ち上がろうとした、そのとき。
「ふーん」
頭の上の方で声がした。
「これが結環の儀ね」
空から声が降ってくる。
「足りてねえな」
なんか、独り言が聞こえる。
「片方、抑えてる」
あれ?私、最上段にいたよね?
おそるおそる振り返ろうとしたとき——
「若!そんなところに登ってはなりません!」
下の方からゴリラみたいに大柄な男の人が全速力で駆け上がってきた。
「お行儀が悪いですよ!」
ゴリラの壁が迫ってくる。
いったい、どこに?
振り返った瞬間、
青空に、太陽があった。
風を受けてぱたぱた鳴る、真紅のマント。
太陽の光をそのまま持ってきたような、金色の髪。
耳元に光る、小さな環のピアス。
そして、雨上がりの空のような色をした、青い瞳。
青空を背負って、その人はそこにいた。
観覧席の背壁の縁にしゃがんで、もう終わった舞台の余韻を見ているようだった。
いや、余韻を見ている人のしゃがみ方じゃない。
ここ二階くらいの高さだけど。
そんな縁にしゃがんでたら、あぶな——
ふいに、青空を切り取ったような瞳が、こちらに向けられた。
「あれ、おまえ——」
青い空に真紅のマントが溶けていく。
空中でくるりと一回転して、その人は下りてきた。
「中身、違うな?」
どきっとした。
中身が違うって、どういう意味?
それって——
「見りゃわかる」
その人は、勝手に納得して背を向けた。
私の理解が追いつく前に会話が終わる。
「若!お戻りください!」
ゴリラのおじさんが最上段まで辿り着いた。
「当主様がご立腹ですよ!」
「あー」
めんどくさそうに頭をかきながら、その人はゴリラさんを見た。
「ばっちゃんの相手は任せた」
「若!」
ゴリラさんが大きな両手をがばっと広げた時には、
もうその人はさっきの背壁の縁に立っていた。
「そのうち帰る」
人懐っこい笑顔を置き土産みたいに残して、その人は壁の縁を風のように走り抜け、どこかへ消えてしまった。
残されたのは、呆然とする私と、泣き崩れるゴリラのおじさんだった。
私はしばらくその場から動けなかった。
青空を背負った真紅のマント。
こちらを見た、雨上がりの空のような瞳。
初めて会ったのに、知らない人ではなかった。
みんなの話の中に、ずっといた人だ。
見りゃわかる。
その人が、私を見て言った。
私には何もわからないままなのに。
中身、違うな。
その一言だけが、さっき出せなかった声の代わりみたいに、胸の奥で鳴っていた。
第四章はここで一区切りとなります。
次回からは第一部最終第五章に入ります。
ここまで毎日更新を続けてきましたが、第五章は構成や資料整理を含め、少し時間をかけて書いていきたいため、不定期更新(週3回)に変更予定です。
引き続きゆっくりお付き合いいただけたら嬉しいです。




