第46話 アンリ、初任給を前借りする
南からの列車は王都の中心部まで繋がっている。
駅を出ると、そこはもう白亜の大都会だった。
人の流れが多い。動きが速い。
「それじゃあ、どこかで昼食でも……」
ナナリエが言いかけた時、雪崩のような足音が聞こえた。
「王女殿下!!」
高潔な青が来る。
集団で。
本当に青い。
髪も、法衣も、腕章も、靴の先まで青い。
「やっとお戻りですか!」
「決裁待ち案件が十四件!」
「祭礼特例法の更新承認を——」
「人流規制案の再確認を——」
「待ってください、一人ずつ……」
青い人たちは矢継ぎ早に要件を投げかけ、ナナリエの顔もだんだん青くなる。
「殿下、詳しいことは宮殿で」
ナナリエが一瞬で捕獲される。
抵抗しようと片手を上げたけれど、青い人たちの決裁圧に押し流されていく。
「アンリ、琥珀宮殿を訪ねて。お兄様に話は通してある。建物は……見ればわかるわ!」
そう言い残し、
青い波に攫われるように、ナナリエの姿は遠くへ流れていった。
波が去った後、遅れてやってきたのは紫の集団。
「……遅かったか」
作業着姿の集団が足を止める。
紫の布地には細かい導線模様。
どことなく、精密機器メーカーの制服っぽい。
「サファイアに先行処理された」
「優先権を奪取された、が正しい」
「くそ、また法務フロー最適化か」
「事前根回し係数が高すぎる……」
この人たちは何を言っているかわからない。
しかもめちゃくちゃ早口だし、言いながら自分たちで勝手に納得し始めている。
「中央浮上路の共鳴偏差について見解をいただきたかったんだが」
「祭礼期間中は人流負荷で磁場位相が乱れる」
「王女殿下なら同期補正案を持っていると思ったんだが……」
とりあえずナナリエを探しにきていることだけはわかる。
「……仕方ない」
「サファイア宮殿前で捕まえるしかない」
「祭礼前に一度は確保せねば」
「行くぞ」
結論を出した紫の集団は最速で散っていった。
ひとりになった。
さあ、どうしよう。
気づいたら、胸元の環を握りしめていた。
急に大量の情報が入ってくる。
この街の地図だ。
円の中央に白い大きな宮殿と、円周に十二の宮殿。
以前見た、王都の時計塔の宝石の並びと同じだ。
今は一番南の珊瑚の位置にいる。
ナナリエが行けと言った琥珀の宮殿はここから西。
とりあえず行ってみるか。
が、
地図は読めるが、私がまっすぐ目的地に辿り着けるわけもなく……。
「あ、これ美味しそう」
「この道具何に使うんだろう」
「あの店さっきもあったな。チェーン店かな」
だめだ。進まない。
琥珀宮殿でハルジオンの指示を仰げってことだよね。連絡済みっぽいし。
……遅くなったら怒られそう。
地図を見ると、だいたい琥珀宮殿の近くまでは来ている。
あと少し、寄り道はせずに行こう。
だけど、お腹が空いてきた。
ナナリエと一緒にお昼ご飯を食べる予定だったんだ。
いい匂いがする。
よく炒めた玉ねぎの匂い。
焦がしたパンがふやけて、そこに乗ったチーズが溶ける匂い。
気がつくと一軒の小さな店の前で足が止まっていた。
「洋食屋さんかな?」
茶色い屋根の可愛いお店だ。
店に入ると、店員さんはいなくて、メニュー看板がひとつ置かれていた。
いかにも「ここに環をかざせ」と言いたげな印がある。
ああ、ここもこの形式か。
環を握りしめながら看板を見ると、メニューを読み取ることができた。
だけど、どうやって注文すればいいんだろう。
「あら、お困りかしら?」
凛とした明瞭な声がした。
わずかに聞き覚えがある。
「あなたは……」
環から手を外して顔を向けると、見覚えのある顔だった。
お金ならあります!って書いてある華やかな顔。
「シトリン宮のクリサンテよ。以前お会いしたわね」
透き通る黄色の環を見せながら、優雅にお辞儀をする。
そうだ、翡翠宮とか珊瑚宮とか、ゆるくて適当なところにいたせいで忘れてた。
西の人たちは礼儀作法が徹底されてるんだった。
「アンリです。暫定的に琥珀宮の所属らしいです……」
私は胸元のブラックオパールの環を掲げてお辞儀をした。
「円が欠けているのね」
クリサンテは珍しそうに私の環をのぞきこんだ。
クリサンテ。そうか、そういう複雑な名前だった気がする。
「伸び代がある形って好きだわ」
クリサンテはキリリとした笑みを浮かべた。
そのまま店の棚に飾ってある人形を指さす。
トンボみたいな虫の置物が置いてあって、トンボの目は片方だけ色が付いてていた。
「商売繁盛とか、目標を立てるときに片目に色を塗るの」
なぜトンボのような虫なのかは謎だけど、必勝ダルマみたいなことを言っているのかもしれない。
「目標を達成したら、反対も塗るの?」
私は首を傾げた。
クリサンテはご名答と言いたげにニコリと笑う。
「あなたの環はいつか完成するのかしら。未完成でも、それは素敵よね」
不敵そうに笑う。
この人、高い目標があると燃えるタイプな気がする。
なんとなくそう思った。
「失礼、昼食にいらしたのでしょう?」
「はい。クリ……サンテさんも?」
いや、ちょっと覚えにくいわ。この名前。
西の人って複雑な響きの名前が多いのかもしれない。
「私はちょうど終えたところよ」
そう言いながらクリサンテはメニュー看板に目を向けた。
そのまま、また私の環を見る。
「残高は入ってるの?」
え?その質問が意外で少し驚いた。
でもすぐに答えを探る。
そう、たしか列車の中でナナリエが言ってた。
ハルジオンが口座に当面の生活費を入れたって。
王都に着いたら決済の仕方を説明するわねって言ってた。
「あ、なんか給料の前借り分をすでに入れてくれたって聞いてます」
クリサンテは、よろしい、と言わんばかりに頷き、話を続けた。
「そしたらこの印に環をかざして」
言われた通りに環を近づけると、先ほどと同じように頭の中にメニューのイメージが広がる。
「金額も見えるでしょう?」
たしかに、メニューの下の方にある。
「自分の残高を確認して。購入可能なら“決済”を選ぶの」
初めてパソコンをマウスで操作したときに似てる。
選択したいものに意識を合わせるのが、少し難しかった。
耳元でクスリと笑う音がした。
「これが食べたいっていう強い気持ちが大事よ」
なにその変なアドバイス。
でも、
この、オニオングラタンスープが食べたい!
って念じたら、サクサクっと決済ができた。
私、初めての注文ができちゃった。
「ありがとう、クリサンテ」
嬉しい。
「少しずつ覚えていけばいいわ」
くっきりした眉を少し下げて、クリサンテは微笑んだ。
これは……理想の上司だ。
どこかの高圧的で指示も不可解な鬼畜上司とは違う。
でもこれで買い物の仕方はわかった。
さっきの雑貨屋さんにもう一度行ってみようかな。
にやにや笑う私の顔を、じっと見つめていたクリサンテ。
一瞬目つきが険しくなる。
「使い方は理解できたでしょうけど無駄遣いには気をつけるのよ。初任給を一日で使い果たさないようにね」
ぎくぅ……っ!
この人、部下のリスク管理もできるタイプだ。
「……資産運用ならシトリン官業銀行本店がいつでも相談に乗るわ」
クリサンテは呆れ顔でため息を吐いた。
「シトリン官業銀行?」
「ええ、カレンダエで一番大きな銀行よ。あなたの給与口座もそこに開設してあるわ」
え?なんで、この人がそれを知ってるの?
この国は口座情報も共有されてるの??
「あら失礼。私はシトリン官業銀行の融資担当をしているの」
「ああ、銀行員さん」
ただのお金持ちのお嬢様かと思った。
「ちなみに父はシトリン最大級の商会の会頭よ」
あ、やっぱりお嬢様だった。
「王子殿下の指示を受けて口座開設の手続きは私が行ったわ」
誇らしげに胸を張る。ハルジオンがこの人に直接頼んだのか。
「ありがとう。仕事が早いね」
「ああ、そうそう」
クリサンテは思い出したように付け加えた。
「公務員なら融資の審査も通りやすいわ。相談、お待ちしているわね」
「あの……祖母に借金はするなって言われてるので……」
あんたは計画的に返済できないんだからって。めちゃくちゃ釘を刺されている。
「賢明なお祖母様ね。決済前にそれが本当に必要か、よく自分に問いかけるのよ」
黄色い髪をさらりとかき上げてクリサンテは笑顔を作った。
「それでは私は急ぐので。昼食、楽しんで!」
クリサンテは「ケセラン」と優雅にお辞儀をした。
私も慌てて「パソラン」と返す。
颯爽と立ち去るクリサンテ。
けれど去っていく横顔は、さっきまでの親切なお姉さんとは少し違って見えた。
何か、急いでいる。大切な約束があるみたいに。
席に着くと、ちょうどいいタイミングでオニオングラタンスープが運ばれてきた。
とろとろの玉ねぎに、焦げたパンの香ばしさ。
溶けたチーズが熱くて、何度か舌を火傷しそうになったけれど、初めて自分で買った昼食だと思うと、それだけで特別な味がした。
……いや、満足している場合じゃない。
ハルジオンのところに行かなければ。
もしかして約束の時間とかあったら、どうしよう。急に背筋が冷える。
さすがに今度は寄り道しない。
しないと決めた。
たぶん。
環の地図を頼りに西へ進む。
琥珀宮殿は、見ればわかった。
珊瑚の位置から西へ。
カーネリアン、トパーズと、色の違う宮殿を横目に通り過ぎる。
王都は、円形の宝石箱みたいだ。
しばらく歩くと、蜂蜜色の透明感のある建物がそびえ立っていた。
磨かれた琥珀色の壁。
金とも茶ともつかない、深く透き通る光。
「ハルジオン殿下より伺っております。二階の執務室へどうぞ」
受付の人に環を見せたらそう言われた。
案内はとくにない。
環を握りしめると、館内見取り図も見えるし、執務室の位置もわかった。
一人で乗り込むのは不安だけど、行くしかない。
ハルジオンの執務室の前まで行くと、ドアは開け放たれていた。
あれ、こういうときってどうすればいいんだろう?
この国の人たちがノックするのって見たことないし……。
「そこで王女殿下が……」
聞き覚えのある声がした。
いや、さっき聞いたばかり。
クリサンテの、輪郭のはっきりした声だ。
「いや、彼女には無理だろう」
ハルジオンの声も聞こえる。
「ふふっ、たしかに王女殿下には荷が重いですわね」
……ナナリエの話してる?
「我が従妹は、そういう人間だ」
「さすが王子殿下。よく把握されていらっしゃる」
「私に考えがある。この件は私に預けろ。万事滞りなく」
ハルジオンの愉快そうな声が響いた。
「仰せのままに」
クリサンテも高らかに応じる。
……どうしよう。政治家と金融団体の密談を聞いちゃったのかな。
やっぱり一度受付に戻って……。
「……うおっと!」
狼狽えると碌なことがない。
自分の足に引っかかってバランスを崩し壁にぶつかってしまった。
「来たか。入れ」
ハルジオンの声。明らかに私に向けて言っている。
逃れられない。
おそるおそる執務室を覗いた。
「あー、どうも……」
違う、ここでも挨拶は決まってるんだった。
「ケセラン」
私は右手で環を持ち上げてかざした。
「パソラン」
返事を返してくれたのは、クリサンテと彼女の部下らしい若い男が二人。
二人の男たちも眩しい黄色の髪で、おでこをバッチリ出して整った髪型をしている。
ハルジオンは私を見ながら不穏な笑みを浮かべて、ひとこと言った。
「そういうことだ」
どういうことだよ?
「あ、はい……」
しまった。適当に話を合わせちゃった。
「それでは私たちはこれで」
クリサンテとお供の二人は深々とお辞儀をして退室していった。
すれ違う時に私にも笑顔で会釈をしてくれた。
その笑顔は、勝利を確信した色を隠せていなかった。
ハルジオンは座ったまま三人の後ろ姿を見送ると満足そうに頷いた。
「なかなか見どころがある令嬢だ」
何が言いたいんだろう。ああいう女性が好みってこと?ナナリエがいるのに?
でも何も言えない。
この、重厚感のある執務室。広いのに圧迫感がある。
余計なこと言ったら職を失いそうな感じ。
「なんだ、ずいぶん静かじゃないか」
ハルジオンが涼しい顔で見下ろしてくる。
「そんなことはないですけど……」
「それがお前の環か」
また“お前”に戻ってるし。
「はい。ナナリエが試行錯誤してくれました」
とりあえず業務報告しておけばいいのかな。
「欠けた環か。面白いな」
私は環をつまんで見やすいように掲げた。
「先ほど、いただいたお給料で食事をしました」
「うん」
ハルジオンは手で合図して長椅子に座るよう促した。
ひとまず座る。
「初任給は受け取ったな。ならば……あとは、わかるな?」
……わからないよ!
「はい……がんばります」
「ああ」
ハルジオンが満足そうに笑っている。怖い。
「引き続きナナリエと行動して、全て報告しろ」
え?ナナリエの行動を報告するってこと?
何を……あ!
「昨日はヒヤシンス様とお会いしました」
「ああ、あいつか」
なんでそんなことを言うんだという怪訝そうな表情をするハルジオン。
あれ、間違えたかな?
「で、えーと。ヒヤシンス様が髪の毛を結ってくれて」
ハルジオンの眉間が険しくなる。これは方向性を間違えているかもしれない。
「ナナリエは二つのお団子頭にされてて可愛かったです……!」
この話はもう終わりにして違う話題を探そう。
「位置は?」
「え?」
「上か、下か」
そこ重要か?
「右上にひとつと、左下に大きいのがひとつ」
「……意味がわからない。視覚記録はないのか」
「え?」
じっと睨みつけるハルジオン。
何を言っているんだ。
「えーと、私の環は映像記録機能はなくて……」
「そうか」
ハルジオンは口元を抑えながら、そっぽを向いた。
「……ひとつ誤解があるようだが」
「誤解っていうか正解がわからないよ」
「何か言ったか?」
「いえ、何も」
「ナナリエの行動を全て報告しろと言ったのではない」
ハルジオンはこめかみを押さえながらため息を吐いた。
「人々の営みを観察しているのだろう?」
私の研究活動のことを言っているのか。
「お前が行く先で見たものを、ナナリエに全て共有しろと言っているのだ」
「どういうことですか?」
「お前の視点はナナリエを動かす、ということだ」
なんとなく、言いたいことはわかる。
「一緒に各地を見て、一緒に驚いて、一緒に感動しろってことですね」
ハルジオンはすぐには答えなかった。
ただ、短く断定する。
「私では事前に答えを用意してしまう」
瞳が少しだけ翳った。
「それでは意味がないとわかっているのに」
ハルジオンが用意するのは、たぶん最短距離の答えだ。
でも、ナナリエに必要なのは、答えに辿り着くまでの寄り道なのかもしれない。
その顔は、いつものように高圧的で、完璧そうで、少し意地悪だった。
けれど今だけは、まるで自分の正しさを邪魔に思っている人みたいに見えた。
ひと呼吸置いて、ハルジオンはゆっくり立ち上がった。
「祭礼期間中、王族の動きは平時とは異なる。予定も指示も、常に変わると思え」
淡々と言いながら、ハルジオンは窓の外へ視線を向けた。
「ナナリエがそばにいないこともある。私の指示が間に合わないこともある」
蜂蜜色の瞳が、まっすぐこちらを見た。
「その時は、自分で判断しろ。お前が見たものを信じて、最善を尽くせ」
相変わらずの圧迫感。
だけど、さっきより少しだけ、命令の意味はわかった。




