第三十五話 理解した気がした交差点
どれくらい、この境界の時間の中にいたんだろう。
森の中に浮かぶ、光を閉じ込めた小さな宇宙。
「このまま、終わらなければいいのにね」
穏やかで心地良い声が耳に届いて、私は我に返った。
少し後ろでエンジュがこの光を大切そうに見上げていた。
その顔はもう夕陽に照らされていなくて、
森にはもう、夜が訪れていた。
遊んでいた虹たちも、姿を消している。
終わりと、始まりの時刻は、すでに過ぎ去ったんだ。
ナナリエが静かな視線をエンジュに向けた。
「終わらなきゃ、始まらないわ」
すごく静かな、事実の提示。
翡翠色の切ない表情がそこに見えた気がしたけど、暗くてよくわからなかった。
「ナナリエはいいことを言うね」
エンジュはにっこり笑って答えた。
「翡翠の刻が終わったら、晩御飯が始まるよ」
「さあ、召し上がれ〜」
テーブルの上にほかほかのご飯を並べながら大声で笑うのは、
エンジュと同じ調子で喋るのに、空気の占有率がまるで違うおばさんだった。
「ナナリエ、あなたいつも不味そうなスープしか飲んでないわよね」
「効率重視なんで」
「だめだめ、今日はちゃんと食べてってもらうからね」
「まあ、目的によっては食べなくもないです」
ナナリエが素直に出された食事に手をつける。
「いい子ね〜」
「魔女ちゃんも、たくさん食べてね!」
彼女が喋るたびに空気が動く。
「美味しいです!……でも、魔女ちゃんって?」
「さっきハルジオンが言い残していったのよ」
橙色の力強い目を見開いて、劇的に言う。
「逆境を食欲で乗り越える魔女という名の不審人物が来るから、よろしくって」
「なにそれ、失礼すぎにも程がある!」
「あの子、本当に失礼よね〜」
「お兄様ほどの高慢な人間を私は見たことがない」
「ナナリエも言うじゃない〜」
豪快に笑いながら、ナナリエの肩をがしっと抱いた。
「可愛いんだから!王様にならなかったら、エンジュのお嫁さんになってよ〜」
「母様!」
「あら、エンジュ。いたの?」
「いたよ。食事の準備ありがとう。あとは僕たちだけでいいから」
「なになに?冷たい〜」
「ひどいわ、エンジュ。お母様がかわいそう」
「そうだぞ、エンジュ〜」
私も調子を合わせてみた。決して酔ってはいない。
「アンリまで!この人たちの軽口に乗らないでよ」
あ、初めてエンジュに名前を呼ばれた気がする。
ちょっと嬉しい。
エンジュのお母さんはエンジュと同じ緑色の髪だけど、瞳は果物みたな橙色だった。
元気のかたまりみたいな人。
「エンジュは七人兄弟の真ん中だから、存在感が薄いのよ〜」
そう言って笑う。
七人兄弟って、この国では普通なのかな。ナナリエは一人っ子って言ってたけど。
「私の母が珊瑚宮の人間だからさ、母も子沢山、私も子沢山よ!」
ふむふむ。珊瑚宮は子沢山、と。
そういう地域差、興味ある。
「まあ、私は翡翠宮生まれの、翡翠っ子だけどね〜」
ん?そういえばそうだよね。
エンジュの実家ってことは、お母さんの実家。
「……あれ、さっき子供は母親の生まれた家で育つようなこと、言ってたよね?」
少し引っかかって、エンジュに確認した。ハルジオンがそう言っていたはずだ。
「ああ、多くの場合はね」
ペースを乱されたエンジュが疲れ切った顔で答える。
「エンジュのお祖父様は神殿の大宮司だから」
ナナリエが短くフォローする。
「そうそう、私の父が神殿の偉い人だから、私の母は珊瑚宮から嫁いできたのよ」
エンジュのお母さんも付け足す。
例外もあるんだな。
「エンジュのおじいちゃん、偉い人なんだね」
「偉いかどうかはわからないけど……」
「エンジュのお祖父様は偉いわ」
困惑するエンジュの横からナナリエが口を挟む。
「エンジュも、偉い」
その流れで、そう続ける。
「ね?」
「いや……?どうかな」
スプーンを持つエンジュの手に力が入る。
この人は、喋ってる内容はよくわからないのに、
何を感じているかは、驚くほどわかりやすい人だな。
「エンジュは偉いわよ〜」
ママがエンジュの緑色の髪をわしゃわしゃして撫でる。
「私は大宮司の娘なのに、そういうの向いてなくて料理ばっかりしてるけど——」
「カヤおば様の料理だけは食指が動く」
——ナナリエが瞬間的に口を挟む。
「ナナリエ可愛いわ!——でも、エンジュは若宮司なんて立派になって……」
喋りながら泣き始めた。
「母様、もう休んだら?」
「従兄弟も含めて三十人の候補者がいたのに生き残ったのはエンジュだけで……」
え?
三十人のうち、生き残ったのは一人で……?
他の二十九人は……まさか?
「あの、みんな生きてるからね。安心してね」
翡翠の瞳があきらかに死んでいる。
「神殿の裏山で一年間自給自足する修行よね」
ナナリエがあまり興味なさそうに確認した。
「まあ、だいたい、そうかな」
そういう修行があるのか。リタイアした人から帰ってくる感じか。
「山にいる猛獣とかを倒したりね〜」
「いや……まあ、場合によっては?」
「エンジュは長い棒を振り回して戦うのが上手なのよね」
棒術……?
だんだんエンジュがわからなくなってきた。
「みんなすぐに根を上げたけど、この子は本当に立派よ」
カヤさんに背中をバンバン叩かれて、エンジュは咳き込んだ。
「……でも」
叩く手を止めて、カヤさんがふと何かを思い出したように呟く。
「修行中のエンジュと一緒に生活してたお友達……」
食卓に一瞬沈黙が落ちた。
いや、曇ったのはエンジュの表情だけだ。
さっきもこの表情を見たような——いつだったっけ。
「あの子も一年乗り切ったのよねえ」
カヤさんの声に思考が上書きされる。
エンジュの友達。
一年乗り切った、もう一人。
「エンジュ、私とお兄様以外に友達がいたのね」
「……君たちと違って交友関係は広いよ」
疲れているのか、その表情はあまりなかった。
「可愛い男の子だったわよね。雨上がりの空みたいに眩しい目をして」
「母様」
エンジュが短く言った。
「僕の話はいつでもできるから、母様たちの話を聞かせてよ」
——自分の話ならいい。
でも、この話はここで終わりにする。
そう聞こえた。
「私たちの話〜?あんた、親の馴れ初め聞きたいの〜?」
あ、聞きたーい。
「いや……ほら、母様の友達、たくさんいるでしょ?」
カヤさんはきょとんとしたあと、すぐににっこり笑った。
「ナナリエの父さんと母さんの話が聞きたいの〜?」
え?それはもっと聞きたーい。
「ナナリエの父さん。あの人はねえ——星ばっかり見てる人だったのよ〜」
「星?」
ナナリエが少しだけ興味を示した。
「そうそう。翡翠宮を抜け出してエメラルド宮の天文台に入り浸っててね」
へえ。天文台があるんだあ。
でも、ここへ来てからちゃんと星を見てなかったな。
オーロラに気を取られていたのかも。
「よく捜索依頼を出されていたわ」
ひどいな、それは。
……いや、私も子供の頃よく大人に探されていたか。
興味あるとふらふら〜っと行っちゃうよね。
「ほんと、ぼんやりしてて頼りない人だったんだけど——」
少しだけ、声の調子が柔らかくなる。
「遠くを、全体を見てるの。みんなが見てない、ここじゃない場所」
「まさか王様になるなんて思わなかったわ〜」
「ルチルに出会ったからね」
そう言って、愛おしそうにナナリエを見つめた。
ナナリエのお母さんのこと、かな?
「ルチルは現実に引き戻すの上手だから。瑠璃宮の人って感じ」
ぼんやりして頼りないお父さん、ナナリエと似てない感じ。
でもお母さんは、きっとナナリエに似ている気がする。
「ふわっとしたものを掴んでくる人と、それを確かな形に変える人」
「あなたの父さんと母さんはそういう人たち」
カヤさんの微笑みには何も答えず、ナナリエは視線を落とした。
ふいに、双王のことを思い出した。
一対で成り立つ存在。
二つが引き合って、一つを保つ。
「ほんと、家によっていろいろよね〜」
豪快な笑い声。
「エンジュの祖父さん祖母さんは堅物と情熱って組み合わせだったし」
堅物と情熱……。それも、引き合った。
「翡翠の男って、生真面目で不器用だからねぇ」
「悪い意味じゃないのよ?ただ、全部自分で抱え込むのよね」
エンジュが少しだけ視線をそらす。
エンジュの、お祖父さん、お祖母さん、お母さん……。
「あれ?エンジュのお父さんは?」
カヤさんは、ぱちっと片目を瞑った。
「マジョなのよ」
「マジョ?」
魔女じゃなくて、マジョ?
私の隣で、ナナリエが小さく頷く。
「そう。——アンリとマジョに会いに行く約束をしてたわね」
「そうなの〜?恥ずかしがり屋だから会えるかしら」
「自然の中で暮らす種族でね。肌も少し緑がかってるの」
カヤさんは笑いながら続けた。
「光を浴びるのが好きなのは、父親譲りね〜。ふふふ」
エンジュがわずかに肩をすくめる。
それを見て、カヤさんはさらに満足そうに笑った。
——うちにもいたな。
おせっかいで、ちょっと怖い、父と母。
先生に頭下げながら、帰り道で私に説教して、
でもそのあと普通にアイス買ってくれる人。
優しい祖父と、もっと怖い祖母。
……元気にしてるかな。
少しして、私はその場の空気を見渡した。
エンジュの家族の話は、どれもばらばらなのに、どこか一つの形に収まっているように思えた。
——いや、収まっている“ように見える”だけかもしれない。
エンジュの両親や祖父母の話を聞いて、どうしてエンジュがこんな不思議な人なのか、理解できた気がする。
……なんて言ったら、少し傲慢だろうか。
人は、家族だけでできているわけじゃない。
長い時間一緒にいなくても、価値観を大きく変える出会いはきっとある。
良くも悪くも。
たくさんの人が交差する間に、私たちはいつもいる。
私もまた、その中の一人だ。
ほんの少しだけ、胸の奥に引っかかりが残る。
「理解した」と思った瞬間に、何かを取りこぼしている気がした。




