第27話 木漏れ日の若宮司
「さあ、遠慮なくどうぞ」
からんと涼しげな音を立てて氷がグラスの中で回転した。
鮮やかな若葉色のお茶が木陰の中で揺れている。
「いただきます」
低温でじっくり抽出したお茶は旨味成分と甘さが際立って、まろやかで爽やかな味わいだ。
「美味しいです」
「よかった」
エンジュは柔らかい木漏れ日のように微笑んだ。
癒される〜。
「いや、お茶を飲みに来たわけじゃないのよ」
ナナリエが軽く音を立ててグラスをテーブルに置いた。
「君が来ると思って朝から準備したんだよ」
草原を抜ける風のような声。
「水出しは時間がかかるから」
エンジュはグラスを光にかざした。
氷がからんと回る。
「この氷も冬の山で時間をかけて少しずつ凍らせたんだ」
そっかあ、天然氷か〜。
「だから不純物が少なくて、透明度が高い」
かき氷に最適なんだよな〜。
「そうね。時間をかけて凍る過程で、水中に含まれる空気や不純物が放出されるから、純度が高いし、分子同士が強固に結合した硬い氷ができるわね」
ナナリエがつられてうなずく。
でも、
「でも!」
ナナリエが立ち上がった。
「のんびりお茶の蘊蓄を聞きに来たわけじゃないのよ」
エンジュに詰め寄る。
「わかってるでしょ?聞いてるんでしょ?アンリのことで来たって」
すごい。こんな鬼気迫るナナリエ、初めて見たかも。
「……ナナリエ」
エンジュが少しずれた衣を直した。
「そういう言い方は良くない」
「この人は客人だよ」
そして私に視線を向ける。
「——ユニワ・ナナリエ殿下。彼女は王位継承者だ」
……王位継承者?
「知ってた?」
「いえ……」
……王位、継承者?
「だろうね」
エンジュの声はため息に近かった。
「ナナリエ」
……ユニワ・ナナリエ殿下。
「なに?」
……ユニワが姓。姓が先で、名が後。
「君は、自分のことを軽く扱いすぎる」
……王位継承者。
「そう?」
ユニワ・ナナリエ殿下、王位継承者が首を傾げる。
「うん」
わけがわからないわって顔で、彼女は肩をすくめた。
エンジュはふうっと息を吐いた。
「……さて」
翡翠の瞳が私を捉えた。
「見えるんだね」
言葉は短いけど、なんとなくわかる。
「えーっと、……見えちゃいけないやつなんですかね?」
恐る恐る聞く。
「見えるものは、見えるものだよ」
「だから、なぜアンリに磁場の流れが見えるのか聞きに来たのよ」
ナナリエが被せるように言う。
「それは、僕には答えられない」
「役に立たないのね」
一瞬の躊躇いもなく突き刺す。
「うん」
あっさり認める。
「役には立たない」
「……で?」
ナナリエがエンジュの顔を覗き込んだ。
「……」
ほんのわずかに、エンジュの呼吸が乱れる。
そのまま顔を逸らした。
「ねえ、どこ見てるの?」
「……いや」
エンジュは一度お茶を口に含んだ。
「でも」
若葉色のお茶が揺れる。
「この子がどうしてここにいるのかは、わかるよ」
「なら、最初からそれを言って」
ナナリエは一歩詰め寄り、テーブルに手をついた。
「——回りくどいのは嫌いなの」
「……ナナリエ」
「なに?」
「一度、座ったら?」
「座っているのって落ち着かないの」
そう、ナナリエは基本的に立っているし、歩いている。
諦めたようにエンジュは話を再開した。
「この子はね」
木漏れ日が差し込む。
——“この子”。
一瞬、誰のことかわからなくなる。
「歩いてきたんじゃない」
風がないのに、深緑の髪が揺れる。
「流れてきたんでもない」
少しだけ考えるように間を置いて、
「渡ってきたんだよ」
翡翠の目が見定める。
「人の中を」
人の中を。
意味はわかる。でも、意味がわからない。
それは私を見ているのか、それとも——
私の向こう側を見ているのか。
測りかねていた。
「本当は、通り過ぎるはずだった」
目を細める。
「でも、引っかかった」
翡翠の目が、はっきりと私を捉えた。
——引っかかった。
その言葉だけが、妙に腑に落ちる。
私は、この世界に引っかかった存在。
「……たぶん、そうです」
思わず言っていた。
「私にはたぶん、帰る場所があります」
口に出した瞬間、それがどこなのか、自分でも曖昧なことに気づく。
「そうだね」
エンジュは木漏れ日のように頷いた。
深緑の髪がゆらゆらと揺れる。
「私は、“この子”じゃないんです」
「うん」
知ってるよって顔で頷く。
言ったこと全部に頷きそうな感じ。
だから、逆に何も言えなくなった。
ナナリエは、黙っている。
——否定しないんだ。
それだけで、少しだけ現実味を帯びる。
これ以上考えると、足元が揺れそうだった。
……いや、
「……ところで」
——考えるのを、やめた。
今は、それよりも気になることがある。
「えーと、エンジュ……さん?」
「エンジュでいいよ。ナナリエもそう呼んでる」
その“ナナリエも”という言い方に、少しだけ引っかかる。
でも——
「エンジュのその髪の毛って……なんか、動いてる?」
気づいてしまったものは、どうしても気になる。
さっきからずっと、風もないのに、わずかに揺れている。
「……ああ、これ?」
エンジュが自分の髪に手を当てた。
ナナリエがそれを見る。
「エンジュは陽の光を受けて、自身の活動源となる有機物を生成することができるの」
「え……そこに……葉緑素が?」
「まあ!アンリ、細胞生物学がわかるの!?」
——今までで一番の食いつきだった。
——仲間を見つけた、みたいな。
さっきまでの張り詰めた空気が、一瞬でどこかへ消える。
「いや……義務教育で……」
「そうなのよ、葉緑素による光合作用よ。彼は食事を介さなくても、光と空気から自分の血肉を生成できるってことなの。信じられないほど効率的な仕組みよね!」
「ナナリエの専門分野だからね」
エンジュが微笑む。
穏やかに——
「うらやましい、私もこの色の髪が良かった——」
言いながら、ナナリエがエンジュの髪の束をさらっと掴む。
一寸の躊躇いもなく。
距離が、近い。
「……っ」
エンジュの動きが一瞬止まった。
指先が、わずかに震える。
胸元をぎゅっと握りしめて何かを耐えるエンジュ。
ナナリエは深緑の髪に顔を近づけて、早口で何かぶつぶつと喋り出した。
あ、これ、知ってる。
私もやられたやつ。
側から見ると、その光景は異様だ。
「……信じられない。この表皮細胞の透過性。どんな酵素を使えばこの体温で炭素固定ができるの?この反応中心、透過型顕微鏡で観察したいわ」
研究対象を追い詰める捕食者のような熱量で、どんどん距離がなくなっていく。
そのうち、興奮したナナリエの吐息が頬にかかって——
「ねえ、エンジュ……」
「わっ」
椅子が小さく軋んで、
エンジュの体がぐらりと傾く。
そのまま、
落ちた。
「……」
「なに?」
ナナリエは怪訝そうにエンジュを覗き込んだ。
手は宙に浮いたままだ。
「……あ、いや、なんでも……」
ほんの少しだけ、声が上擦る。
「……問題ないよ」
何事もなかったように立ち上がる。
木漏れ日の中、若宮司は澄ました顔で衣の裾を払った。
だけど、
深緑の髪が、ほんの少しだけ、しおれていた。




