第26話 きになるひと
王都の白い街並みを抜けると、緑の波が見えてきた。
森林地帯に入ったようだ。
木々の上に影を落として、車は静かに滑っていく。
飛行機よりももっと低い位置。
渓谷を抜けていく。
窓の外の景色が、切り取られたみたいに流れていく。
——あのときも、こんなふうに——
流れてきたものを、ただ受け取るだった。
車内に視線を戻すと、ナナリエはうたた寝をしていた。
昨日あまり眠れなかったのかな。
こっくりこっくり船を漕ぐたびに、合わせて揺れる乳白色の髪。
この髪の毛が——
この、黒い髪と接続した。
私の中に入ってきた泥流のような記憶。
……逆は?
ナナリエには、何が見えていたんだろう。
『ぜんぶ、消したんだ』
耳に張り付いてとれない言葉。
あのときと同じなら、
彼女の何かを奪ってしまった?
そうでなくとも、
私から流れたものは——なかったんだ。
ナナリエは知っていたのかもしれない。
——この身体が、ああいうふうに“受け取る”ことを。
「翡翠宮の領地に入りました!」
翡翠宮の童がハキハキと告げた。
こんもりとした森は少しずつまばらになり、次第に生活の気配が現れた。
どこか懐かしい里山の風景。
大きな川とその支流が見える。
急斜面には果樹が植えられ、段々畑に張られた水が太陽の光を跳ね返している。
「門前町で降ります。そこからは徒歩で」
私たちに告げているというより、どこか自分の手順を確認するような口調だった。
車は静かに町の入り口に降り立った。
白い石畳の道。
だけど王都とは違う。
厳選された白ではなくて、白を基調として灰や青、茶や緑が混じっている。
素材のまま、って感じ。
道の脇には賑やかとは言えないが、商店や家屋が立ち並んでいる。
食べ物や工芸品が店先に慎ましく並べられている。
町の人たちも積極的に客引きをするわけでもなく、ただ穏やかに会釈を返してくるだけだ。
門前町を進むと、樹木の間に、石の階段が続いているのが見えた。
「少し長いけど、大丈夫?」
ナナリエが私の手を取る。
「がんばる」
私は笑ってみせた。
一歩ずつ登るたびに、石の階段は苔むし、温度が少しずつ下がっていく。
足元には石の模様なのか、苔なのか、それとも木漏れ日なのか、はっきりしない色があった。
顔を上げるとずっと同じ景色。延々と続く階段と木の葉の屋根だけ。
息が上がる。
細い足が悲鳴を上げ始めた。
太ももがもう動けないと言っている。
「もうすぐよ」
ナナリエは私の背中をそっと押した。
高い位置から水が落ちる音がする。
空気が澄んだ。
そこに入った、という感覚があった。
階段は終わり、まっすぐな一本道が現れた。
「ようこそお参りくださいました」
ふっと人が現れた。
たぶんずっとそこにいたんだと思う。
さっきまで階段を取り囲んでいた樹木が、そのまま人になったような感じだ。
緑色の髪を一つに束ね、淡い色のゆったりした衣を纏っている。
見渡すと、同じような風貌の人たちが数名いた。
——樹木と同化していて気づかなかった。
「若宮司がお待ち申しております」
音もなく歩き出す。
ナナリエも何も言わず着いていく。
参道のよう、だけどすでに内側にいる気がした。
葉擦れの音が鈴のように高いところから落ちてくる。
誰も何も言わない。
風が作り出す音だけがそこにあった。
見上げても空は見えない。
木々が覆ってそこから光だけが降り注ぐ。
そこに立っているものが、樹木なのか建物の柱なのかわからない。
ずっと前からそこに立っていたように——
ナナリエが足を止める。
私も合わせて止める。
「やあ、来たね」
——ふいに、声が落ちた。
はっとして視線を巡らすと、そこにいた。
——目の前に。
さっきまで、いなかったはずなのに。
いや、違う。いたのに、見えていなかっただけだ。
木漏れ日が揺れている。光なのか、この人なのか、一瞬わからなくなる。
——そのとき、
「呼ぶのが早いわ」
ナナリエが不機嫌そうに言う。
「そう?ナナリエも急いでいると思ったんだけど」
急に会話が始まる。
木漏れ日が深緑の髪に動きを与えている。
その緑より淡い、この星の夕焼けの色。
——翡翠の瞳。
柔らかく微笑んでいる。
空にまっすぐ伸びる木のように背が高い。
長身には、草木で染めたような、淡い栗色の衣を纏っている。
ゆるやかに身体を覆い、動きに合わせて長い袂が静かに揺れる。
その上から、右肩から左脇へ、若葉色の大きな布が、身体を覆うように斜めにかかっていた。
歩くたびに、布と袂がわずかにずれて、また元に戻る。
結んでいるのか、ただ掛けているだけなのか、よくわからない。
——決まりごとがあるようで、ないような装いだった。
この人が——
紹介されなくてもわかる気がした。
「エンジュ」
ナナリエが呼ぶ。
「うん」
エンジュが答える。
「アンリよ」
この空間ではみんな言葉が短い。
「ようこそ」
エンジュが微笑んだのか、風が木を揺らしたのか。
「待っていたよ」
ここには境界が存在しない気がした。




