第17話 名前を与えるということ
肯定陛下に別れを告げて、私たちは再び遊歩道を歩き始めた。
このまま、王都に行く。
戸籍を照合すれば、「この子」が誰なのかわかる。
でも、私は気になっていた。
「……最初に目が覚めた場所、もう一度見に行きたいの」
自分でも、あまり意味があるとは思えなかった。
でも、あそこだけが、今のところ唯一の“起点”だったから。
「そうね。記憶は曖昧でも、場所の感覚は比較的身体に残りやすいから」
石の道をいくつか曲がり、ゆるやかな坂を下る。
見覚えが、あるような、ないような。
それでも、足は自然と進んでいった。
「……こっち、だと思う」
自信はない。
けれど、妙に引っかかる方向だった。
しばらく進むと、建物の密度が少しずつまばらになり、
生活の気配が、やや素朴なものに変わっていく。
その先にあったのは——
「……ここ」
思わず立ち止まる。
扉は半分壊れかけていて、壁もところどころ色が剥げている。
中を覗くと、乾いた藁や使われていない道具が雑然と積まれていた。
「……納屋、ね」
ナナリエが静かに言った。
部屋じゃ、なかったんだ。
カビ臭いにおいと、藁のにおい。
——それだけだ。
ここには、“あのときのにおい”は残っていない。
最初に鼻を突き刺したのは、この子自身のにおいだった。
あの時の鏡もある。
汚れて、縁は黒ずんでいた。
あの日に見た、自分の瞳の底知れない黒さを思い出して背筋が冷えた。
光を返さない黒い瞳。
——あれは、本当に私だったのか。
何を思っていたんだろう。
「この子」はここで何をしていたんだろう。
ひとりで雨風を凌いでいたのだろうか。
手のひらを見る。
小さい。
細い指。
ほんの少し斜め上、ナナリエを見る。
「この子」が何歳なのかはわからないけれど、たぶんナナリエより幼い。
「人がいる。少し訊ねてみましょう」
近くで作業していた女性に、ナナリエが声をかけた。
「失礼します。この子のこと、以前見かけたことはありませんか」
女性は私をちらりと見て、少しだけ首を傾げる。
「いいえ、知らないわねえ」
あっさりした返答だった。
別の人にも聞いてみたが、反応は同じだった。
「見ない顔だね」
「さあ、わからないな」
悪意はない。
でも、どこか距離がある。
ナナリエが小さく肩をすくめた。
「まあ、西の人って外の人にはよそよそしいから」
フォローなのか、事実なのか、微妙なところだ。
「東だったらもっと、あけすけに話しかけてくるもの」
東……学術の都だっけ。
そういう土地の気質って、たしかにあるよね。
その後もやっぱり通りを行く人の反応は変わらず、
それ以上は何も出てきそうになくて、私たちはその場を離れた。
少し歩いたところで、背後から声がした。
「……マジョだ」
振り返ると、数人の子どもたちがこちらを見ている。
好奇心と、ほんの少しの警戒。
そして、次の言葉。
「ぜんぶ、消したんだ」
ひそひそ声なのに、はっきり聞こえた。
「ねえ——」
問いかけようとした瞬間、子どもたちはぱっと散る。
走って、逃げる。
あっという間に、姿が見えなくなった。
「……マジョって」
ぽつりと呟くと、ナナリエは少し考え込んだ。
「何か誤解されているのね」
視線は、子どもたちが消えた方向に向けられている。
「マジョは、たしかにいる」
マジョ、いるんだ。
「でも」
そこで一度、私を見る。
「外見的特徴が一致しない」
断言だ。
それから、少しだけ言葉を選ぶようにして続けた。
「子どもたちはマジョを正確に知っているわけじゃない。ただ、“わからないもの”に、知っている言葉を当てはめただけ」
——ああ。
すとん、と腑に落ちる。
そうか、たしかに未知の存在を、知っている言葉でラベリングすることはある。
未知のものを、そのままでは扱えない。
だから人は、既に持っている概念の中に押し込める。
名前を与えて、分類して、理解したことにする。
“マジョ”っていうのは、この子たちにとっての“未知の入れ物”なんだ。
そこに、たまたま私が入れられただけ。
意味があるようで、ない。
でも——
入れ物のほうには、ちゃんと意味がある。
恐れとか、禁忌とか、説明できない何かとか。
そういうものをひとまとめにしておくための言葉。
研究対象にされる側って、こういう感じなんだ。
私は、走り去る子どもたちの背中を思い出した。
マジョというラベルはわかった。
でも……
“ぜんぶ消した”って、何……?
さっきの言葉が、引っかかる。
けれど、手がかりはない。
ここにも、誰もいない。
少しだけ風が吹いて、乾いた藁が擦れる音がした。
「……収穫、なしか」
ナナリエが肩をすくめた。
「でも、もしマジョが手掛かりなら……」
しばらく考え込んでいたナナリエが、ふと顔を上げた。
「今度、会いに行きましょう」
「……え?」
思わず聞き返す。
「会えるの?」
「ええ。管轄が違うだけで、完全に隔絶されてるわけじゃないもの」
マジョ、普通に会えるんだ。
「商店街を見ながら駅に行こ。歩いていれば気持ちも切り替わる」
そう言って歩き出す。
ナナリエは本当に歩くのが好きだ。
私はもう一度だけ、さっきの納屋を振り返った。
何もない。
本当に、何も。
……“起点”じゃなかったのかもしれない。
でも、世界は広がっている。
また次の手掛かりを探せばいい。
何を見つけられるだろうか。
不安を、ワクワクで塗り替えて、私はナナリエの後を追った。
通りの先に、少しだけ賑やかな気配が見えてきていた。




