72.お人好し。
「さあエディット殿、市へ行くわよ」
朝一番に聞いた一言に、物凄い既視感を覚えたのだった。
確か前にも言われた気がする。無論気のせいにしておきたいだけで、実際はそうではないし、勿論口にした相手も同じである。神官見習いの同期、貴族のお嬢さんことクレマンスである。準備万端で、エディットの部屋に突入してきたのだ。
「お約束してましたっけ」
「してたわ」
「えっ」
覚えがない。しかし相手の自信に満ちた姿を見れば、己に非があるのだと分かる。エディットは必死に脳内を検索した。した覚えのない約束を探している。見付からない。困った。
「あ、あのう、いつお約束しましたっけ……」
事実上の敗北宣言である。御伺いを立てるエディットを見て、クレマンスがやれやれと大仰に息を吐いた。
「あなた、わたくしと市へ行くと言ったわ」
「そうですね?」
「今日は休みよ」
「そうですね?」
「行くでしょ?」
「約束は?」
「したようなものじゃない」
してなかった。いや、確かにクレマンスと市へ行くと言ったのだ。それは事実である。だが、何時行くとまでは決めていなかった。しかし市は七日しか開かれていない。つまり、直近の休みに行くのが正しいと言えばそうであった。ちょっと事前に言って欲しかっただけである。出来れば、朝部屋に突入する前に。
兎に角、このお嬢さんはこうと決めたら覆さない。
それをよく理解しているエディットは、身支度を整える事に決めたのだった。幾ら話を続けたとて、最終的には出掛ける羽目になるのだ。エディットがクレマンスに勝てた例はないのだから。
去年クレマンスに貰った黒いコートを羽織る。貴族に間違えられる程、仕立ての良い品である。そして、一緒に買ったブーツ。お揃いだ。このブーツを買うために、連れ出されたのだ。結果、想定よりずっと高い値段の物を買う羽目になったのだった。
「新しいブーツを買いましょうね」
「これね、クレマンス殿、一年で買い替えるお値段じゃなかったんですけど」
何処か恨みがましい目でエディットは応えた。黒色で、革製で、履き口には折り返しがあり、其処に白い糸でレースがあしらわれている高価なブーツだった。貴族向けである。数年は履きたい品だった。だが酷く残念な事に、サイズを選んだのは店員である。その店員が対象の履物の大きさを的確に選び抜くスキルの持ち主だったために、このような事になっているのだ。こんな事ならあの時無理にでも大きめを買えば良かった。流されるんじゃなかった。一年経って後悔している有様である。
一生使う気でいるピンクのポシェットをさげて、大通りを歩く。基本手にしたものは、一生持つと勝手に思い込んでいる。大抵無理な物ばかりである。朔風が吹く中、人々が同じ方向を目指して歩いている。クレマンスと歩みを共にしながら、去年もこんなに寒かっただろうか、と、そんな事を思った。意外と覚えていないものだな、とも。
「他に欲しいものはないの?」
「手袋も去年買いましたし、ないですね」
「エディット殿、欲しいものはと聞いたのよ。いるものじゃなくて」
「ないですね」
即答した。此処で流されてはいけない。経験から理解している。不満げな表情を隠そうともしないクレマンスを見ない振りでやり過ごした。気にかけたが最後、負ける。大袈裟でなくそうなのだ。因みにこの場合の敗北とは、不要なものを買う事である。
市へと辿り着いたエディットの感想は、去年と変わらないな。これであった。いや、無論細部は違うのだ。店の並びだって違う。だが、そこまで覚えていないので、ただ沢山の店が並んでいる様を見て、変わらないと思ったのだ。相変わらず人も多いし、馬もいる。その背には、騎士。神殿騎士とはまた違う、他所の騎士である。何処に所属しているかは知らない。そう言えば、今年も絵描きはいるだろうか、と、思ったが、探すのは無理そうだった。毎年同じところを陣取っているとは限らないし、その場所すら最早覚えていないのだ。
勝手知ったるとばかりに歩を進めるクレマンスを、さり気なくアミシーが誘導する。自信ありげに見せかけて、その実このお嬢さんも何も知らないのである。尤も、エディットにしたところで大人しく付いて行く以外の選択肢などないのだが。人が多い所は苦手である。気後れしてしまう。田舎者故の劣等感が、其処には確かにあったのだ。相変わらず色んな人がいて、色んな店があるなあ、と、ぼんやり眺めながら歩いていると、ふと、人通りが少し減った事に気付いた。それどころか、行き交う人の服装すら変わったように感じたのだ。人が減った半面、馬は増えたように思う。いや、馬だけではない。徒歩の騎士すらいる。
流石に違和感を覚え、エディットは注意深く周囲を見た。エディットは平民である。しかも、ドがつく田舎から出てきた子供である。世の中の事など殆ど知らない。それでも、分かったのだ。
どうやら、上流階級向けの店が並ぶ一角に迷い込んだようであると。
尚、迷い込んだと思っているのはエディットだけで、アミシーは間違いなくこの場へ案内したのである。二人の少女に相応しい逸品があると確信して。
これはもう本当に場違いでは?
エディットは困惑した。そもそも、市にこのような場所がある事すら知らなかったのだ。確かに去年も来たし、その時にも貴族向けの店で購入した。だが、もっと賑わっていたのだ。つまり、貴族向けだとエディットが感じていただけで平民もいたという事である。別にこの通りだって、平民お断り等と書いてあるわけではない。いや、寧ろ書いておくべきでは? 本当は、平民お断りの立て札があったのでは? エディットは疑心を抱いたが、勿論なかった。市は自由である。誰が何処へ行き来したとて、止められるものではないのだ。
抱いた思いは困惑から不安へと移り変わっていた。何やら全てが恐ろしく思えたのだ。場違いである事も、今から向かう所も。このまま素通りして、元の大層賑わっている通りへと戻らないだろうか。絶対に叶わない願いである。
露天には違いないのに、屋根があり、急ごしらえとは思えぬ程立派な店の前で止まった。
帰りたい。
素直にエディットは内心で嘆いたのだ。すると、その嘆きに応えるかのように、声が聞こえたのである。
「おや、エディットさん?」
急に、知り合いなど絶対にいないであろう場で名を呼ばれ、エディットは目を丸くした。声は、店の中から聞こえた。不図視線を送れば、自然と声が口を突いて出た。
「レイナウトさん」
其処にいたのは、ストランド商会の若き代表、レイナウトだったのだ。
「もしかして此方、レイナウトさんの」
「ええ、うちの店の一つです」
店の一つ、と、言う事は他にも出店しているのだろう。流石は、王都で五指に入るらしい商会である。
「エディット殿、お知り合い?」
不思議そうにクレマンスが問うた。それはそうだろう。このような所に知り合いがいるような娘ではない筈である。しかもただの店ではない。上流階級向けの、立派な店である。
「はい。彼方、ストランド商会の代表の方です」
「あなた、顔が広いのね……」
呟くようにクレマンスが言った。感心しているとも、ただ単に驚いているようにも見えた。曖昧にエディットは笑ってみせた。別に知り合いたくて知り合ったわけではないからである。向こうから会いに来たのだ。そのきっかけを作ったのは己だが。
「ブーツを御所望ですか?」
未だに硬い表情を浮かべるエディットと平然としているクレマンス、二人に向かって、レイナウトがにこやかに問うた。ブーツ、と、最初から決めてかかったのは、単純に此処が靴屋だからである。時期的にブーツだと読んだのだろう。正解である。
「ええ、彼女とお揃いにして欲しいの」
さも当然のようにクレマンスが言う。思わずエディットは眉間に皺を寄せた。別にお揃いが嫌なのではない。高いお揃いが嫌なのである。値段の問題だった。何せこの店、どう考えても高い品物しかない店である。
「それはとてもいいですね」
完全に接客用の顔で、レイナウトは奥に案内した。そうこの店、露天なのに更に奥があるのだ。昨年と同じである。当然のように椅子が用意されている。座り辛い。当たり前の顔をして座るクレマンスの隣で、渋々エディットも腰かけたのだった。
「あの、レイナウトさん」
「はい、エディットさん」
何故か隣に立っているレイナウトに向かい、エディットは小声で話しかけた。レイナウトはあくまで店の代表である。他に店員はいる。此処まで案内はしたが、それ以上は動かないようであった。他の人間が、ブーツを取りに行ったのだ。
「私、平民なんですよ」
「そうなんですね」
「いや、ご存じですよね」
「いえ、今初めて聞きました」
「聞かなくても分かる事ってあるじゃないですか」
エディットは顔を顰めた。この貧相な子供の何処をどう見たら貴族に見えるのかという話である。現に今、立派なコートに負けている真っ最中である。服に敗北しているのだ。
「このお店、平民の子供が買える品物なんてないですよね?」
「ありますよ」
「絶対嘘じゃないですか」
「そんな、神官のエディット殿に嘘など吐くはずがないじゃないですか」
これだから大人は。エディットは呆れた。それがもう嘘である。商人と言うのは基本口で生計を立てているようなものである。エディットが勝てる相手では端からなかったのだ。どんよりとした気分を抱えるエディットの前に、真新しいブーツが運ばれてきたのは直ぐだった。
「此方は如何でしょう。この冬の流行りですよ」
持ってきたのは、女性だった。流石いい店の店員である。人自身が洗練されて見える。そしてさり気なくエディットは女性の頭上を見た。
対象の履物の大きさを的確に選び抜く。
バッチリである。流石は大店の店員。的確なスキル持ちである。
エディットは焦った。これはマズイ。つまりこのブーツは、ピッタリなのだ。それは困るのである。
「あらいいじゃない。これにしましょうよエディット殿」
逡巡するエディットの隣で、あっさりとクレマンスが言った。しかももう履いていた。成程、ピッタリ。死んだ目でエディットは納得し、いや、流されてはいけないと気を取り直したのだ。
「待ってくださいクレマンス殿、私はもう少し大きいサイズを所望します」
「お嬢様、此方はお嬢様に丁度いいサイズでございます」
即座に女性店員が口を挟んで来た。いえ、知っています。知っているんです。その上で言っているのです。内心でエディットは捲し立てた。
「いえあの、来年も履きたくてですね、だからあの、ちょっと大きめがいいなって……」
「来年また買えばいいじゃない」
「一緒にしないで貰えます!? こっちは平民なんですけど!?」
とうとう言った。咄嗟に大声が出てしまった。だって絶対高い。値段は知らないが。貴族向けの商品の悪い所である。一切値段が書いていないのだ。判明するのは、一番最後、買うと決めた後である。それでは困るのだ。
「何言ってるの、エディット殿。神官でしょ」
「神官でも平民なんですけど」
「貴族と同じお給金じゃないの」
「貯めてんですけど!?」
「でもエディット殿、このブーツ凄く軽いわよ」
正直、だから何だという気持ちであった。別に重くたって全然構わないからである。エディットの表情から、全くセールスが響いていない事を察したのか、店員が口を挟んだ。
「お嬢様、此方のブーツは、アルビオンの白革で出来ております。水を弾くのは勿論の事、水に浮く仕様となっております」
なんて?
ポカン、と、エディットは口を開けた。言っている意味が分からなかったのだ。アルビオンの白革、アルビオンて何? これである。エディットは物を知らないのだ。尚、世間にも疎い。
「まあ! 水に浮くんですってエディット殿!」
「水面を歩く事は出来ませんが、沈みません」
水に沈まないブーツ。いや、確かに凄い。凄いのは分かる。ブーツだけが浮くのではなく、履いている人間ごと浮くのだろう。確かに凄い。だが、エディットの心には別に響いていなかった。水に浮かなくてはいけない状況が思い浮かばなかったのである。
「よく考えて御覧なさいよエディット殿。わたくしたち、又今年も雪を消すことを命じられるのよ。去年溺れそうになったじゃないの」
「全部クレマンス殿の所為でしたけど」
「でもこれを履いていれば、少なくとも溺れる事はないわよ」
「いえ、私がいるじゃないですか。クレマンス殿くらい簡単に浮かすことが出来るんですから、不要です」
「あら、今年も飛んでくれるの」
「お安い御用ですよ」
「約束よ」
「はい。だからもっとお安いのにしましょう」
「此方を二ついただくわ」
「私の話聞いてます!?」
「聞いているわ。聞き入れる気がないだけ」
前も聞いた言い回しである。こうしてエディットは貴族のお嬢さんに流されながら生きていくのであった。項垂れるエディットの隣では、レイナウトが笑いを堪えていた。
こうしてエディットは二年目の冬も新しいブーツを購入する羽目になったのだった。
全ては、貴族のお嬢さんに勝てない所為である。つまり、自分の所為である。支払う段階になり、アミシーが目を丸くして言った。
「随分と、お安いんですね」
どこが?
エディットは驚愕の眼差しで侍女を見たのだ。何せちっとも安くなかったからである。寧ろ今からでも何とか別の安い商品にして貰えないだろうかと模索しているくらいであった。エディットの内心など誰も知る由もなく、レイナウトが言った。
「ええ、エディットさんには随分とお世話になりましたので」
「えっ」
「まあ」
突然名を出され、エディットは動揺した。そしてこのお高い逸品が、どうやら本当に安くなってこの値段だという事を信じたのだった。信じたくなかった。どうにも好意で、平民にも買える値段にしてくれたようであるが、それにしたところで高額に違いはなかったのだ。だがよく思い返せば、去年購入したブーツと似たような値段である。ならばこれで良しとするほかないのではないか。結局エディットは流された。そうして、来年も本当に買わねばならぬのならば、此方でお願いしたいと真剣に思ったのである。どうやら、知り合い価格にしてくれるみたいなので。現金だった。
購入した品物は、店が預かってくれた。後日教会まで届けてくれるのだ。そうして、店を出ようとした時だった。何やら表が騒がしい事に気付いたのである。
「お嬢様、出ないで下さい」
アミシーがクレマンスに言う。当然のようにクレマンスは不満げな顔をして、素直には聞き入れなかった。
「お嬢様!」
別に店の外に出たわけではない。ただ、ギリギリのところまで進んだのだ。こうなると、アミシーとエディットも行かないわけにはいかない。やれやれと思いながら通りを見れば、人が走って来た。大柄な男性、それも、必死な形相である。しかも、一人ではない。その後ろから追っかける姿がある。
騎士だ。
もしかしてこの人、悪い人なのでは。
どう見ても逃げているようである。周囲の店からも、人が覗いている。ただ、通りに出ようとはしなかった。巻き込まれたくないのだ。
「うわっ!!」
ストランド商会の店の前で、急に男が声を上げた。同時に、ざわめきが起きた。誰もが目を丸くして、通りの真ん中で起きた不思議な現象から目を離すことが出来なかった。
「なんだ!?」
男が混乱して声を上げている。もう、走ってはいなかった。いや、走ろうとしているのだ。だが、一歩だって進まないのである。何故か。男が、浮いているからだ。ほんの少し、足を伸ばせば地面に付きそうで付かない位置に浮いている。そこで、バタバタと藻掻いているのだ。いや、走ろうとしている。だが、蹴る地面がないために、進まないのだ。そうしている内に、騎士が追い付いた。
「離せ!」
男の声を聞いたのは、これが最後だった。
騎士が追い付いたと見るや、男の足は地面についたのだ。だが、逃げる事は叶わなかった。隙を見逃す事無く、騎士がひっ捕らえたのだ。ついでに鳩尾に一撃を食らわせ、意識を刈り取ったのだった。騎士は、キョロキョロと周囲を見た。誰かが手を貸したことは明白である。走っていた男を足止めしてくれた人物がいる。だが、誰も名乗り出ない。一拍の後、通りの真ん中で、勢いよく騎士は頭を下げた。
「ご協力、感謝いたします!」
丁度後ろから馬がやって来た。その背に意識を無くした男を乗せると、一緒に騎士は去って行ったのだった。
エディットは詰めていた息を吐き出した。安心したのだ。
その横からクレマンスが耳元で囁いた。
「お人好し」




