69.汝、敬虔たれ。
この教会にもきっといるわよ。
数日前、クレマンスに言われた言葉である。そう、幽霊の事だ。別段エディットは幽霊に興味があるわけではない。寧ろ、恐れている方である。だがこの世界の幽霊とは、悪さをしないものらしいのだ。
数日悩んだ末、意を決してエディットは問うた。
「マルグリット殿、お聞きしたい事があるのですが」
相手は、神官のマルグリットである。数少ないエディットが自己紹介をして名を把握している神官だった。普段の関りは少ないが。突然話しかけてきたエディットに、マルグリットは微笑んでみせた。
「お答え出来る事でしたら」
「この教会に幽霊がいるって本当ですか」
何も言葉を飾ることをせず、直球でエディットは尋ねた。ほんの少し、マルグリットが目を丸くした。思わぬ問い掛けだったのだろう。だが直ぐに柔和な表情を浮かべたのだ。
「はい、いますよ」
そうして、あっさりと肯定したのである。
「えっ。本当にいるんですか」
「はい。もしかしてご覧になりたいのですか?」
「み、見れるんですか?」
「はい」
確かにいるだろうと、クレマンスも言っていた。だがこんなにも直ぐに肯定されるとは思っていなかったし、しかも、見れるというのだ。エディットは動揺している。幽霊と言うのは、そう簡単に出てくるものではないという認識なのだ。見ようと思って見れるものではない筈である。
黙り込んだエディットの表情から、色々な事を察したのだろう。特に表情を変える事無く、マルグリットは続けた。
「では今夜、一緒に見ましょう」
「今夜」
「はい。この教会の幽霊は決まった時間にしか現れないのです」
曰く、深夜、それも日付が変わる頃合に出て来るらしい。そう言うところは、幽霊っぽいな、と、エディットは思ったのである。霊と言えば夜のイメージだ。マルグリットが部屋まで迎えに来てくれるというので、それまでは普通に過ごすことにした。クレマンスに話そうかどうか迷ったが止めた。貴族のお嬢さんである。深夜に出歩くなど、侍女が許可しないに違いないと思ったのだ。それに彼女は幽霊を見たことがあるという。つまりそう珍しくもないだろうから、後から話せばいいだろうと判断したのだった。
エディットは成長期である。多分。少し自信はないが、まだ成長している最中だ。なので、マルグリットが呼びに来るまでは寝ていようと思っていたのである。
眠れなかった。
人間、ワクワクには勝てないのだ。遠出やイベント前日の状態である。結局ほぼ睡眠をとることなく、訪問のノックを聞いたのだった。
「こんばんは、エディット殿」
「こんばんは」
深夜だが、マルグリットは神官服姿だった。因みにエディットもそうである。クレマンス相手だったら分からないが、マルグリットの前で寝間着はまずいと思ったのだ。取り繕う頭はあった。部屋の外へ出ると、エディットは身震いした。教会はある程度気温が保たれているが、それでも秋である。しかも、冬に近い。上着を羽織るべきだったかもしれない。だが、マルグリットも只の神官服姿である。まあいいか、と、一歩踏み出した。
夜の教会は薄暗かった。
そう言えば、こんな真夜中に歩いた事はない。
余りにも静かで、如何にも幽霊が出そうだった。古い建物は、雰囲気がある。ただ、真っ暗ではない。常夜灯が等間隔で薄っすらと光っていた。だからだろう。マルグリットも、特に明かりは手にしていないのだ。尤も神官二人なので、別段明かりなど手にしておらずとも、相手が纏う光で十分眩しかった。歩を進めると二人の足音が、自棄に響く。人がいないと、こういう感じなんだな、と、エディットは思ったのだ。不思議な感覚だった。
「こんばんは」
「ひっ」
エディットが短く悲鳴を上げた。まさか、幽霊が声をかけてくるとは思わなかったのだ。咄嗟に立ち止り、恐る恐る声のした方を見れば、思わぬ姿だった。
「お勤めご苦労様です」
何処か笑い交じりにマルグリットが言った。どうやら、幽霊ではないようである。己と、隣の女性神官しかいないと思っていたので、酷く驚いたのだった。
いたのは、神殿騎士だった。
男性の騎士である。特に面識はない相手だった。
「えっと、見張りをされていらっしゃるんですか?」
困惑しながら、エディットが尋ねた。騎士はマルグリット同様、何処か笑いを堪えている顔をしている。
「はい。備えは大事ですので。お二人は?」
「彼女が幽霊を見たいそうなのです」
「ああ、成程」
納得しているという事は、彼も見たことがあるのだろう。もしかすると、この辺りを徘徊しているのかもしれない。幾ら悪さをしないとはいえ、一人でいるときに遭遇したら嫌だな。そんな風に思った。深夜は出歩くべきではないな、とも。やはり、少し怖いのだ。幽霊にいいイメージがなかった。
「お気をつけて」
これ以上引き留める理由もないのか、騎士がそう言ったので頭を下げて先へと進んだ。
「夜中にもお仕事されてらっしゃるんですね」
少し歩んだ先で、エディットがそう切り出した。聞こえるところで言うのは失礼だと思ったのかもしれない。
「ええ。前は、深夜の見張りなどしていなかったのですが。色々、ありましたからね」
マルグリットの口調には、何処か苦みが感じられた。確かに、見張りなど必要ないだろうと、エディットも思ったのだ。教会は、俗世とは少し違っていた。独自のコミュニティを形成している。一般的な世の危険とも縁が遠そうだった。例え盗みに入るにしても、大した実りはなさそう。と、そう思ったところで、いや、それが原因なのだな、と、気付いたのだ。きっと誰もが、教会に危険はないと思っていた。だが正に去年の冬、同じ神官から盗みを働く神官が現れた。きっと、それがきっかけで、このような事になったに違いない。尤もあの女神官も、深夜に盗みに入ったりはしなかっただろうが。部屋の主が不在の時間帯を狙っていただろうから。それでも最早、警戒しない理由はなくなったのだろう。何処にも、悪人はいる。そう言う事である。
エディットは唯マルグリットの後に続いた。彼女が向かった先は、エディットも良く知る場所であった。ほぼ、毎日訪れる場所である。
礼拝堂だったのだ。
いつもは開いている大きな扉が閉まっている。まるで、拒絶しているかのようだった。両開きの扉の片方を、マルグリットが開けた。ギィ、と、重苦しい音を立て、動く。
「どうぞ」
小声でマルグリットが言う。滑り込むようにして、エディットが入った。後からマルグリットがついてくる。礼拝堂は当然静まり返っていた。ほんの僅かな常夜灯が、ぼんやりと室内を照らしている。だが、もっと大きな明かりもあった。
二、三歩進み出て、エディットは歩みを止めた。
この光を知っている。
視線が縫い留められたかのように、エディットはじっと見た。その光を。礼拝堂にある神を模した像の真ん前。そこに、いる。
「彼女はずっとこうして、祈りを捧げ続けているのです」
神官の幽霊だった。
普通に考えれば分かりそうなものだった。此処は教会である。もし出るとしたら、それは神官だ。そして悪意がないのも分かる。神官とは大抵、そう言うものであるからだ。
彼女、と、マルグリットは言った。確かに女性の幽霊だった。細身である。床に両膝を突き、背を丸め、神の像に向かって一心に祈りを捧げている。死して尚光を放つその敬虔さ、思わずエディットは唇を噛んだ。何かが口を突いて出るのを、押さえた。ステンドグラスから僅かに入る月光が、より神秘さを際立たせていた。真の祈りの前には、何もない。そう、思った。言葉も、肉体も、ただ、祈るというその気持ちだけがずっとこの場に有り続ける。
酷く胸が締め付けられた。
初めて見る光景、そして、初めて感じた衝撃だった。
頬を、熱いものが伝った。気付けば涙を流していた。勝手に溢れるのだ。瞬きをするのを忘れてしまったからかもしれない。胸が痛かった。この幽霊は、何も伝えようとしていない。ただ、神に祈りを捧げ続けているだけなのだ。
「エディット殿?」
マルグリットが小さく名を呼んだ。
エディットは応えなかった。何も返さず、歩を進めた。そうして、幽霊の隣に立つ。見れば、老女だった。下を向いているので一部しか判別できないが、生涯を神官として神に捧げたのだと分かる。そして死して尚、捧げ続けている。
エディットはその場に膝を突いた。老女の隣で。そうして、同じように祈りを捧げた。自然と体が動いた。涙が溢れてくる。悲しいのか、何なのか、よく分からなかった。
ただ、己もこうありたいと思った。
エディットは十一歳である。子供だ。先の事など何一つとして、分からない。しかも、人が言うには二百年以上生きるらしい。でも、長く過ごしたその後も、ずっとこんな風に祈りを捧げていきたいと思った。この身を神に捧げるというのは、きっとこういう事なのだろう。神の為に生きるでも死ぬでもなく、その肉体があろうがなかろうが、感謝を示し続ける。そしてそれが、神官としてのあるべき姿なのだろう。
この境地に己は辿り着けるだろうか。
エディットは光っている。
幽霊と、エディット。二人分の神官の光を背後から見ながら、マルグリットは怖れを覚えていた。エディットの光は余りにも眩しく、隣の幽霊を呑み込んでしまいそうだった。だが、老女は祈りを止めないのだ。果たして己は同じ事が出来るだろうか。死して尚、このように祈り続けることが出来るだろうか。いや、無理だろう。大人は直ぐに諦めた。何せ現状、教会で祈りを続ける幽霊は、彼女だけなのだ。普通の神官には無理なのである。
だが、エディットはどうだろうか。
もしかするとこの子供は、未来永劫祈り続けるのかも知れない。ふと、そんな風に思った。そしてマルグリットはそれを恐ろしい事だと感じた。最早その頃には疾うにマルグリットはこの世の何処にも存在していないだろう。自分が幽霊になってまで留まるとは思えなかった。つまり、想像だけで恐怖を抱いたのだ。
神に問いたい。
あなたが望んでいるのは、こういう事なのですか、と。
一人の子どもの人生を狂わせることなのですか、と。
エディットは望んで神官でいようとしている。だがマルグリットはそれを、仕組まれているのではないかと邪推した。何故ならエディットが余りにも出来過ぎた子供だったからである。何も望まず、ただ、神官であろうとする。それは、果たして自然な事なのだろうか。
勿論、答えは返らなかった。




