62.練習は浴室で。
エディットは水と向き合っていた。
尤も、コップ一杯の水である。あの雪の日の出来事から今日まで、エディットは水と向き合ってきたのだ。そうして漸く、コップ一杯の水を飲む以外の方法で消すことに成功したのである。水のスキルとは、ただ出すだけではない。消す事も出来るのだと教わった。だが、教わったのはその事実のみであり、方法は知らないままだ。結局エディットに出来たのは、ただ念じる、それだけだった。そうして、念じて念じて、やっと、コップ一杯の水を消すことに成功したのである。エディットは思った。結構力業ではないだろうかと。本当はもっとちゃんとした方法があるのではないかと。思うだけで分からないので、現実はこうである。
しかし、成功したのだ。
その事実だけは、喜んでもいいのではないだろうか。
いや、たったコップ一杯である。あの老人を思い出すのだ。雪の日に見た光景。意図も容易く、それはもう大量の水を一瞬で消し去ったのだ。エディットは一つ頷いた。無理。結論が出るのは秒であった。コップ一杯でこれである。しかも、念じて念じて念じて、である。どうしたらあの量が一瞬で消えるのか。見当がつかない。
それに問題はもう一つある。
他の人間が出した水でも消すことが出来るか。
これである。今エディットは自分で出した水を消している。これが、他人が生み出した水であればどうだろうか。
尤も、考えたところで分かる話でもない。
実践しなければ判明しないのだ。
つまり、誰かに協力を仰ぐほか無いのである。その上で相手など、端から一人しかいなかった。唯一の同期であり友人、同じ神官見習いの貴族のお嬢さんである。元より発端も、このお嬢さんであった。エディットを当てにして、雪を消す際大量の水を出現させたわけである。そしてエディットはその期待に応える事が出来なかったのだ。エディットは思う。もっと常識的な量から始めるべきであると。クレマンスは極端すぎるのだ。但し相手に言わせれば、エディットが水を消失させればいいだけの話であって、自分に非はないと思っている。どっちもどっちだった。
「クレマンス殿、お願いがあるのですが」
「聞くわ」
少なくともエディットはクレマンスよりは考えて行動する方だと自負していた。あくまで、自負である。クレマンスに言えば絶対に否定される事は間違いなかったが、それでも考えた結果、翌日切り出したのである。急に部屋を訪ねるような真似はしなかったのだ。何せ相手は貴族のお嬢さんである。エディットと違い、部屋には他に複数の人物が控えているのだ。呼ばれたなら話は別だが、自ら会いに行くのはハードルが高いのである。第一、別に会いに行かずとも、何も無ければ毎朝顔を合わせるのだ。
特に使用された形跡もない部屋で、勝手に動く雑巾が立てる音をBGMに話していた。
「実は私、水を消す練習をしていまして」
「あら? 出来るようになったの?」
「そうなんですよ!」
思わずクレマンスは仰け反った。急にエディットが大声を出したからである。尚その瞬間、雑巾は地に落ちた。指示せずとも動かせるようになったようだが、どうにも、エディットの精神状態が作用するようである。
クレマンスの様子を見て、エディットは内心で、あ、と、呟いた。大仰な態度を取った事に気付いたのである。はたと我に返ると、す、と、距離を置いた。そうして、何もなかったような顔で、続けたのだ。
「いえあの、コップ一杯程度なんですけど」
口に出すと、クレマンスが眉根を寄せた。その顔が物語っている。その程度? 声すら聞こえてきた。もしかしたら本当に言ったのかもしれない。いや、言った。残念ながら幻聴ではない模様である。
「あのですね、クレマンス殿、大したことないと思われたかもしれません」
「思ったわ」
「でもですよ、頑張ったんです。水ってね、消えないんですよ」
「飲んだ方が早いのでは?」
ぐ、と、内心でエディットは呻いた。正しく自身もそう思っていたからである。だが千里の道も一歩からという。先ず少しずつでも消せたことを受け入れるべきなのだ。完全に自分を励ます方向である。但し今向き合う対象は、己ではなく貴族のお嬢さんである。
「兎に角ですよ、自分が出した水は消せたんです。だったら次は、自分以外の誰かが出した水を消せないかと思いましてね」
「それでわたくしに協力を?」
「そうなんです。クレマンス殿以外頼めないんです。お願いできますか?」
「いいわ」
クレマンス以外には頼めない。その言葉に気を良くしたのか、あっさりと貴族のお嬢さんは了承したのだった。これでまた一歩前進である。エディットは胸を撫で下ろしたのだ。失敗するとは正直思っていなかった。何せ、コップ一杯の水である。自分のスキルで生み出したものでなくとも、難なく消せるだろう。エディットには自信があったのだ。因みに、根拠はない。
奇しくも翌日は休みだった。
まるで友人の家に遊びに行くような気軽さで、エディットはクレマンスの元を訪ねたのだ。実際そう言う気分だった。コップ一杯の水を消すだけなら、そう時間はかからない。後はお喋りでもして過ごせばいいと思っていたのである。更に言えば、クレマンスの部屋で出されるお茶と菓子が目的でもあった。貧しい平民のエディットにとって、クレマンスの部屋で出される全てはご馳走だったのだ。
「こんにちは、クレマンス殿」
「ごきげんよう、エディット殿」
休みだからか、エディットとは違いクレマンスは私服だった。流石衣装持ちは違うな、と、早くもエディットは感心したのだ。夏らしい色合いの薄い青色のワンピースだった。クレマンスの後ろから侍女が控えめに挨拶をしてくる。同じようエディットは頭を下げ応えた。普通に考えればこの後、アミシーが机の上にコップを用意する流れとなる。流石にクレマンスはそこまでしない。彼女がするのは、用意されたコップに魔法で水を出すだけである。
「こっちよエディット殿」
だから、これは想定外である。
エディットは眉根を寄せた。何やら貴族のお嬢さんが移動を始めている。その先にあるのはテーブルではない。入った事のない扉である。エディットの部屋とは違い、貴族に用意された部屋には扉が幾つかあった。つまり、部屋のその先があるのだ。クレマンスが先に進んでしまうので、仕方なくエディットは後に続いた。侍女は何も言わない。この部屋の主人がする事には、極力従うスタンスである。
クレマンスが開けた扉の向こう側、其処は脱衣所であった。つまり、更にその奥には、浴室がある。全く意味が分からず、エディットは呆けていた。コップの水を消しに来たはずである。なのに今エディットは、貴族用の部屋の浴室にいるのだ。気付けばエディットは服を着たまま、何も入っていない浴槽の前にいたのである。
「あの、クレマンス殿」
「さあ、いくわよエディット殿」
「いやいかないでください。なんで浴室なんですか? コップは?」
慌てて早口でエディットはクレマンスに問うた。寧ろ遅すぎるくらいであった。問うなら、脱衣所に足を踏み入れる前にすべきだったのだ。その上返って来たのは、呆れた息である。はあ、と、クレマンスは溜息を零したのだ。物分かりのよくない子供を相手にした態度だった。尚、同い年である。
「コップ一杯の水なんて消せても、意味ないと思わない?」
「えっ」
余りにも当然の言い分に、エディットの心に罅が入った。何やら見えない刃が刺さったような気すらしたのだ。それは、エディット自身、思わないわけでもなかったからである。だが、千里の道も一歩からと言うではないか。等と、口に出したが最後、千里って何? こう来るに決まっていた。里等と言う単位はないのだ。
「で、でもですよ、先ずはこう、少量からスタートするじゃないですか」
内心の焦りを隠す事すら出来ず、エディットは言い募った。しかし、クレマンスの目が優しさを帯びることはなかったのだ。
「エディット殿、もう、夏よ」
「えっ? アッハイ」
「冬って、直ぐよ」
「えっ」
「間に合わないわよ」
「ぐっ」
クレマンスが畳み掛けてきたのは、逃れようもない正論であった。水で雪を消すよう言われたのは、八の月の事である。今は、二の月。半年経過してしまったのだ。つまり、半年もの時間をかけ、コップ一杯の水しか消せていないわけである。間に合うわけがなかった。
「思うにエディット殿には、思い切りが足りないのよ」
エディットは思った。己に足りないのではなく、クレマンスの思い切りが良すぎるのではないだろうか、と。そもそも貴族故か、割と後先考えないように見える。取り返しがつく立場なのだ。逆にエディットは、割と慎重な質であった。少なくとも本人はそう思っていたのだ。尤もそれこそクレマンスに言わせれば逆である。慎重な人間は、市で騙されたりしないので。
「わたくしがこの浴槽に水を溜める。それをあなたが消す。これでいきましょう」
「せめて、浴槽の五分の一くらいから始めません?」
無駄だろうな、と、思いながら足掻いてみたが、案の定無視であった。どうにも今、貴族のお嬢さんにエディットの言葉は聞こえないようである。エディットはコップに水が現れる様子を想像していた。スキルや魔法と言ったものは、何かと不思議である。注がれるわけではなく、水がその場に現れるのだ。だから今浴槽の中にも、音もなく水は現れる。クレマンスが口にした言葉は、不思議とエディットには聞き取れない。魔法の呪文。エディットが持たない力。超常の御業。術士の声と血により生み出される水。白い浴槽に満たされる。その筈だった。
エディットは思う。
自分が水を消す訓練をする事同様、このお嬢さんは水の魔法の訓練をすべきではないだろうかと。
水は出た。確かに水は現れたのだ。クレマンスが唱えた呪文は、きちんと水を生み出した。問題は場所である。浴槽の中に出すものだとばかり思っていたのに、水が現れたのは浴槽の上だったのだ。いや、浴槽だけではない。二人の少女の上でもあった。最早コップで量る量ではない水が出現し、二人は唖然とした。目は丸くしたものの、口は開けなかった。開けなくて良かった。もし開けていたら、水が入って来ただろう。
バシャン、と、言う音と共に一気に全身が冷えた。
水は、基本浮いたりしないのだ。超常の力で以て浮かせない限りは。
「クレマンス殿!」
珍しくエディットが声を張り上げた。髪や顎から水を滴らせながら。尚呼ばれた方も同じ状態である。
「浴室で良かったわね」
少し居心地悪そうに、エディットから目を逸らしてクレマンスが言った。
「そう言う問題ではありません」
「夏で良かったわね」
「そう言う問題でもありません。何故上から落としたんですか」
「だってほら、」
言いかけて、口を噤んだ。どうやら、体のいい言葉は思い浮かばなかったようである。ふう、と、息を吐くと意を決しエディットの方を見たのだ。
「エディット殿、」
そう、呼びかけた時だった。
「お嬢様方!」
扉が勢いよく開き、侍女の焦りを帯びた声が響いたのだ。扉一枚隔てた向こう、すぐ傍に待機していたに違いない。そうして、大量の水が跳ねる音が響いたものだから、驚いたのだ。二人の少女が目を丸くし、沈黙が降りた。気まずい静けさ。それを破ったのは、侍女であった。
「お二方とも、今直ぐその濡れた服を脱ぎ、入浴なさってください」
有無を言わせぬ物言いである。頷く他なかった。しかし入浴と言っても、浴槽に溜まっているのは水である。並々と、冷たい透明な液体が満ちているだけなのだ。此処から沸かすのは時間がかかるのではないだろうか。そう疑問を抱くエディットの横にアミシーが並び、何やら浴槽に手を入れた。つられてエディットも覗き込んでしまった。何をするのか、気になったのだ。浴槽の内側、手前の方に嵌め込まれたガラスのような丸いものが見えた。アミシーが触れると、透明なガラスが色を帯びた。赤色である。
「直ぐに、湧きますからね」
どうやらあのガラスは、お湯を沸かすものらしい。もしかすると、この教会にある大浴場の浴槽にも同じものがあるのかもしれない。魔法の道具で沸かしているのだろうと予想はしていたが、浴槽自体がそう言う作りなのだ。内心でエディットが感心していると、既にクレマンスが脱ぎ始めていた。慌ててエディットも服に手をかけた。濡れて、肌に張り付いてもどかしい。脱いだ服は、アミシーが二人分持ち去った。浴室に残されたのは、全裸の二人の少女である。その時には本当に湯気が上がっていたものだから、エディットは驚いていた。
「入らないの?」
浴槽から湯を手桶で掬い、自らにかけながらクレマンスが問うた。
「お風呂ってこんなに簡単に湧くんですか?」
その手桶を受け取り、今度はエディットが自分にかけながら問い返した。
「入った事ないけど、教会にあるのも同じでしょ」
ざぶん、と、縁を跨いで湯船に入る。今更ながら、大きな浴槽だな、と、エディットは思った。幾ら子供とは言え、二人で浸かっても余裕があるのだ。
「私風呂の仕組みって知らないんですけど」
「水のスキルか、水魔法の使い手がいるなら、これで十分よ」
言いながら、赤く色が付いた丸いガラスのようなものを指さした。透明な湯の中で、其処だけが異質に見える。
「これが、水を湯に変える魔法の道具って事ですか」
「そうよ。これに魔力を流すと、湯になるの」
「熱すぎたり冷たすぎたりすることってないんですか」
「これは微調整が出来ない種類よ。今浸かっているこの温度にしかならないの」
「冷める事もない?」
「そう」
流石魔法である。エディットは感心頻りだった。全く原理は分からないが、便利には違いない。熱くなり過ぎず、冷める事もない湯船。贅沢である。それがこのガラス一つで可能なのだと思うと、不思議だった。勿論、ただの石ではないが。石だけ売っているのだろうか。それとも、この石付きの浴槽として売り出しているのだろうか。考えながらふとクレマンスの方を見た。一人で入っている。このお嬢さん、一人で風呂に入れるのだな、と、そんな事を思った。エディットが持つ貴族のイメージと言うのは、至れり尽くせりなのだ。
「お嬢様、御髪を洗いましょうか?」
冗談めかしてエディットが言えば、クレマンスが目を丸くした。水を含んだ黒い髪は、艶やかで美しい。きちんと手入れをしている髪だった。
「あら? 出来るの?」
「未経験です」
「何で言ったの」
出来るの? と、問いかけたその姿は正に貴族令嬢だった。実際そうなのだが。十一歳とは思えぬ嫋やかさを感じさせたのだ。尤も本当にエディットに髪を触らせる気など無かった。無理な事は最初から分かっていた。エディットの髪を見れば分かる。自然体と言えば聞こえがいいが、特に手入れなどしていない子供の頭だった。
呆れた眼差しを向けてくるクレマンスを見れば、何やらおかしくなってエディットは笑ってしまった。最初こそ訝しんでいたが、最終的につられてクレマンスも笑い出した。何がおかしいのかも分からぬまま。
「あなたっておかしな子ね、エディット殿」
「自覚が無いようなので言いますけども、クレマンス殿も十分変わってますよ」
「失礼ね。友人じゃなかったら許してないわよ」
「友人でよかったです」
勿論理解しているからこそ、軽口を叩いているのだが。流石のエディットも、幾ら子供とは言え誰彼構わず思った事を告げているわけではない。言う相手は選んでいる。
透明な湯舟を眺め、エディットはあることに気付いた。
「お湯は、どうやって捨てるんですか?」
この浴槽、排水口がないのだ。それでいて、ずっとお湯を張り続けているわけでもない。エディットが浴室に入った時、確かに浴槽は空だったのだ。問われたクレマンスは、何を今更、と、言わんばかりの顔で息を吐いたのだった。
「床の色が違う部分があるでしょう。此処に魔力を流すと消えるのよ」
言われ見てみれば、確かに底の部分に浴槽を左右に区切るように色が違う部分があった。そう言うデザインかと思っていたが、もっと実用的な理由だったのだと知った。もしかせずとも、教会の大浴場にも似たような部分があるのだろう。同時にエディットはショックを受けていたのだ。
つまりこの色が違う部分には、お湯を吸い込むなり、排出するなり、そう言った機能が備わっているのだと。果たしてこれは魔法であろうか。魔法の道具と言うが、魔力で発動するものは、魔力ギルドが作っている。寧ろ液体を消すことが出来る魔法を使えたり、同じくそう言うスキルを持っているならば必要ないのだ。果たして己はどうだろうか。エディットは考えた。今自分は確実に、この魔法の道具に負けている。水のスキルを持っているのに、未だに消せるのはコップ一杯の水である。これはまずい。確かにクレマンスの言う通りである。こんな所で満足していてはいけないのだ。先ず冬に間に合わない。
浴槽の縁を掴むと、エディットは目を閉じた。
「エディット殿?」
まるで瞑想でも始めたような表情を浮かべた友人を、クレマンスが訝し気に呼ぶ。しかし、その声も耳に入ってなかった。それ程、集中していたのだ。今エディットは、己を排水口にする事にした。お湯を吸い込むのだ。湯が、渦を巻きながら消えていく様を想像する。己の魔力で出来た空間に消えていく。勿論現実にそのようなものはない。脳内の映像である。だが、この想像が大事なのだ。きっと自分に足りないものは、現実から離れる力なのだとそう結論付けたのである。消えた水や湯が何処に行くのか、等と考えてはいけないのだ。それは存在しない空間に消えていく。
目を閉じているので、肌で感じた。
湯が徐々に減っていくのを、確かに感じたのだ。肌が空気に触れる。また不思議な事に、空気を吸い込んだように、水が自分の中に満ちていく感覚を覚えたのだ。
ふと瞼を上げた。目に映る浴槽にもうお湯は殆どなかった。白い浴槽の床に引かれた、太く青い線がより綺麗に見えた。
「出来た!」
「寒いわ、エディット殿」
声を弾ませ喜んだのも束の間。
同じく湯が無くなった浴槽に座ったままの友人が、冷えた空気よりもっと冷たい視線を送っているのに気付いたのである。
やってしまった。
顔を引き攣らせ、エディットは素直に頭を下げた。
「すみません」
素直に謝る他なかった。貴族相手にこの所業。友人でなければ絶対に許されない。次は、人がいない時にやろう。割と後先考えないのは、エディットの悪い部分である。クレマンスの事など言える立場ではなかったのだ。慎重だ、等と言うのは単なる思い込みであった。
しかし、兎に角成功したのである。
コップ一杯の水から、浴槽のお湯。一気に量は増えたのだった。




