59.祝福。
問題ばかりの冬が過ぎ、春が訪れた。但し、季節がほぼ反転しているので、今は十の月である。不図一年前の事をエディットは思い出していた。十歳のエディット・マルカンは、人生の難しさを痛感していた。閉ざされた村で、ない自由を求めていたのだ。しかし今エディットは、自由である。勿論制限はあるものの、村にいた時よりもずっと、自由だった。飢えてもいないし、生活の基盤はしっかりとしている。自分を苛めるような人間も居らず、同い年の友人も出来た。これも偏に、神のお陰である。神が、神官のスキルをエディットにくれたからこそ。
エディットは、静かに祈った。
大いなる感謝を込めて。
十の月、十日。冬の寒さ和らぐ春、それがエディットの生まれた日だった。
エディットは、十一歳になったのだ。
尤も祝ってくれる人は誰もいない。それが普通だった。基本誕生日と言うのは、家族くらいしか祝わないのだ。貴族ともなれば別だが、平民はそうであった。だから誕生日である事を態々アピールしたりもしない。それは勿論、友人が相手でも。去年までは貧しいながら、両親が祝ってくれた。今年は傍にいない。でも、祝ってくれているといい。何か特別な事をして欲しいわけではない。内心で良いから、祝福の言葉一つ唱えていて欲しかった。密やかな願いである。
エディットにとっては特別な日でも、他の人間にとってはそうではない。
その事を示すよう、普通の日であった。休みでもなかった。クレマンスと一緒に、マーヴァルの指導の元、聖水を作った。教会に来た時より、作れる数は増えていた。成長しているのだ。きっと身長だって、多少は伸びているに違いない。それを言えば、貴族のお嬢さんとて同じだろうが。結局差は埋まっていないのだ。
元々エディットには、誕生日だからと言って特別な食事を食べる、と、言う習慣は無かった。家が貧しかったからである。普通に食べられるだけで幸せだったのだ。だからこの日も、食堂でいつも通りの食事を得られることを幸せに感じていた。朝は勿論の事、夜もである。尤も、夕食においては、違う食事を食べる機会に恵まれていた。
コン、コン、と、ドアがノックされる。
この時点でクレマンスではない事が分かる。彼女はプライバシーも何のその、直ぐに開けてしまうのだ。恐らく、エディットに対してだけだろうが。只、エディットの部屋を訪れる人間と言うのは酷く限られていた。例え友人本人でなくとも、友人に関係した相手である。
「エディット様、アミシーです」
案の定訪れたのは、クレマンスの侍女であった。
曰く、一緒に夕食をどうかという誘いであった。勿論断る理由はない。それどころか、今日は誕生日である。余りにもいいタイミングだったので、嬉しくなってしまった。心弾ませながら、幾度か訪れた部屋へと付いて行く。恭しく開いた扉。潜った先で、エディットは驚いてしまった。
何やら部屋が、豪華なのだ。
それは勿論、何時も豪華である。エディットの部屋とは比べるべくもない程。だが今日に限って言えば、一層華美であった。リボンや花が飾られている。パーティーだ、と、思った。行った事も無いのに、そう思ったのだ。
「いらっしゃい、エディット殿」
その上迎え入れてくれた部屋の主が、美しかった。
エディットは呆気に取られてしまった。勿論声をかけてきたのは、クレマンスである。だが、いつもとは違っていたのだ。神官服でもなければ、街へ出た時のようなワンピースでもなく、ドレスだった。真っ赤な、ドレス。それも酷く豪華で、何よりその頭上。美しい黒髪の上には、宝石と思しき石が埋め込まれた銀のティアラが鎮座していたのだ。
すわ、何事か。
訳も分からずエディットは、ただ茫然と眺めたのである。彫像と化したエディットを見て、着飾ったクレマンスが上品に笑った。
「実はわたくし今日、誕生日なの。よかったら、お祝いして下さるかしら」
「えっ!!」
酷く大きな声が出た。驚いたのだ。そう、それは驚きもするというものである。
「お、おめでとうございます。えっ、本当ですか?」
「こんな嘘を吐いて何になるというの?」
「いやだって、私も今日誕生日なんです」
「えっ」
動揺の余り早口で白状してしまった。聞いたクレマンスが、目を丸くした。予想だにしない言葉だったのだろう。偶然と言うには余りにも出来過ぎていたし、だからと言って、このような嘘を吐く理由はない。何より、エディットは、こんなつまらない嘘はつかない。
「落ち着きましょうエディット殿」
「何方かと言うと、慌てているのはクレマンス殿の方では。あの、おめでとうございます。本当にお綺麗です」
「ありがとう。いえ、そうじゃないわ。アミシー!」
咄嗟にクレマンスは侍女を呼びつけた。だが、アミシーは寄ってこなかった。主人の意図を理解していたからである。その間にクレマンスは、何時もの席へとエディットを案内した。見慣れたテーブルと椅子さえも、この日ばかりは更に装飾が施されていた。
二人が席へ着くと、直ぐにアミシーが戻って来た。何やら見慣れぬ物を手にして。エディットは訝しんだ。
「さあ、早くつけて頂戴」
「はい、お嬢様」
「待ってください、どう言う事ですか?」
思わずエディットは制止した。だが、誰も止まらなかったのだ。アミシーの手は、エディットへと向いている。向かう先は、頭の上だった。
「エディット殿、誕生日って主役になる日なのよ」
「えっ、アッハイ?」
何やら頭を弄られている感覚がする。恐ろしくて動く事が出来ない。まさかとは思うが、何か付けているのではないだろうか。当然そのまさかである。
「知っていたらドレスも用意したのに」
しかも何やら恐ろしい事を言った。本当に怖い。訳の分からない事を言うの止めて欲しい。アミシーが離れても、何やら頭に感覚が残っている。知らない感覚である。すると今度は、大きめの鏡を持って戻って来たのだ。
「如何ですか」
綺麗に磨かれた鏡に映る己の姿を見て、エディットは絶句した。質素な神官服を着た平凡な娘の頭上に、明らかに高価なティアラが乗っているのだ。それも、金色である。恐怖を覚えた。値段の想像がつかない。明らかに光る石が付いている。怖すぎる。
「身の丈に合わな過ぎて怖いです」
正直にエディットは白状した。死んだ目で。
「神官服だものね」
クレマンスが言ったが、そう言う問題では絶対にない。身分の差をもう少し思い出して欲しい。
「来年は一式用意するわ」
「本当にお気遣いなく。アミシーさんも本気にしないで下さい。平民なんです」
「畏まりました」
どちらに対する返事かは分からなかった。
この時点でエディットの思考は働くことを放棄し始めていた。次に何が来るか考えるだけで怖かったのだ。どうかもう料理を頂いて解散という流れにして欲しい。果たして願いは届いたか。
エディットはクレマンスの御付きと言えば、アミシーしか知らない。
だがこの日、他にもいることを知ったのだ。いや、一人は料理人であった。服装で分かったのだ。それともう一人、壮年の男性がいた。侍女、料理人、男性、その三人がテーブルの隣に並ぶ。エディットはなるべく頭を動かさないようにして、見た。三人は、楽器を手にしている。バイオリンのような弦楽器、オーボエ、フルートのような木管楽器。
音が鳴った。
素直にエディットは感嘆した。貴族にお家に仕えると言う事は、楽器も弾けないと駄目なのだな、と。今まで、そう言ったものに触れたことは無かった。知らない曲が、部屋に響く。明るい曲調。もしかしなくとも、バースデーソングなのだろうか。いや、歌はないが。まるで別世界に訪れたみたいに、現実味のない光景だった。物凄い贅沢だと思った。貴族とは凄いのだと、改めて身に染みていた。
曲が終わる。演奏の余韻を残し、部屋に静寂が訪れた。その静けさを打ち壊すよう、エディットは精一杯拍手をしたのだ。
「素晴らしかったです!」
顔を紅潮させ、心底からの賛辞を贈る姿を見、大人たちが顔を綻ばせた。
「ありがとうございます」
三人が洗練された動きで、頭を下げた。
「また来年も聞いて下さいますか?」
「えっ、アッハイ」
咄嗟に頷いたが、この質問はズルいな、と、思ったのだった。断れるわけがない。クレマンスが密かに笑っている。
演奏が終われば、次に出てきたのは料理だった。
正直楽しみにしていたし、待ち構えてもいたが、出来れば頭上を何とかして欲しい所である。ティアラが気になって仕方がないのだ。それはそれとして、出てきた料理は、見た事も無い程立派だった。コース料理だ、と、思った。一品豪華な品が出て来て終わりではない。次々出てくるのだ。最初は感動していたが、途中から恐ろしくなった。果たしてこのような贅沢が許されるのだろうか。クレマンスはいいのだ。生まれがそうなのだから。しかしエディットは平民である。貧しい生まれの己がこの待遇を受けて、許されるのか。とは言え、食べない、と、言う選択肢はなかった。我慢できるわけがなかったのである。
最早死ぬなら今が良いな、と、そんな事すら思ったのだ。
誕生日って凄い。いや、貴族の誕生日が凄いのだ。普通に生きていたならば、エディットが一生に一度も体験しない筈の食事である。
「こんな事ってあるのね」
一通り食べ、最後に紅茶を飲みながらクレマンスが言った。
「わたくし思うのよ、きっとこれって偶然じゃないって」
クレマンスの言葉に、エディットは、そうかもしれない、と、同意していた。同い年の神官見習い。偶々一緒のスキルを持った相手が、同じ誕生日で、今こうして同じ場所にいる。生まれも育ちも違うのに。それはきっと偶然ではなく、神がそう仕向けたのかもしれない、と。だとしたら、とても、幸せな事だと、そんな風に思ったのだった。
帰り際、クレマンスは沢山の菓子をエディットにくれた。エディットが何を喜ぶか、もう分かっていた。食、特に甘いものが好きなのだ。今までの人生で、縁がなかったからである。大いにエディットは喜び、何度も礼を言った。勿論ティアラは丁重に返した。使い道がないし、あっても困るからである。売却以外の選択肢が浮かばない程。
就寝する前エディットは、一日の出来事を記す為、日記帳を広げた。特別な日だった。記憶だけに止めておくには、勿体ない。忘れないうちに、書き記しておこう。そうして白いページを広げ、動きを止めたのだ。
まだ何も書いていない筈のページに、黒い文字が浮かんでいたのである。
誕生日おめでとう エディット
主が不在の間は扉に鍵がかかっている。エディットがいる状態で、誰かが日記帳を開いた形跡はない。何より昨日まで、このページは白紙だったのだ。それを覚えているからこそ、今日このページに書こうと開いたのである。
このような真似が出来る存在を、エディットは一柱しか知らない。
神である。
決して姿は見えないし、もう会いに来てはいけないと強く言われていた。だから二度と相見える事はないと、そう思っていた。それがまさかこんな風に、エディットに語り掛けてくれるとは。気付けば涙が溢れていた。神は常にエディットを見ている。知っていた。知っていて尚、強く胸に刻まれたのだ。
指を組む。
目を閉じる。
そして、感謝を伝えるのだ。
十一歳になったエディットの神官としての人生は、未だ始まったばかりだった。




