58.先ずは少量から。
果たして、水が引くとは一体どういうことなのか。
そうエディットは考え、そもそも引くというのが間違いなのではないか、と、気付いた。引く、と、言うのはつまり、元の水位に戻る事である。だから、元々水があった場合の話なのだ。先日の雪の日の事を思い出す。クレマンスが大量に出した水、そして、それによって発生した雪解け水。あの水を一瞬にして老人は消し去った。そう、消したのだ。では、その消えた水は一体何処へ行くのか。エディットには上手く想像出来なかった。今エディットの目の前には一つのコップがある。その空のコップを見つめながら、水よ満ちよと念じる。すると、溢れない程度の水が現れる。ではこの水は何処から来たのか。ない物をどのように発生させているのか。しかし、エディットは知っている。大気中には水があるのだ。だからその、目に見えない水を一瞬にして集めてきているのではないか、と、そんな風に推測した。尤もそのような理屈などお構いなしに、本当に何もない所から発生しているのかもしれないが。そう思えば、水を消すのも同じ事なのかもしれない。何処か大量に水がある場所へと戻すのではなく、消失させる。果たしてできるだろうか。
エディットは、じっと、コップに入った水を眺めた。
うーん、と、唸りながら水よ消えよ、と、念じてみる。残念ながら特に変化は無い。いや、少し減ったような気もする。思い込みだろうか。何やら分からぬまま、エディットはコップを手にした。そのまま一気に水を体内に流し込む。つまり、飲んだのだった。こうしてコップ一杯の水は奇麗に消えたのである。何の解決にもならないな、と、思った。ただ喉の渇きが癒えただけである。
冬の間の積雪は、一度では終わらなかった。
再度積もった雪を前に、二人の少女は思案していた。本日もまた、除雪を命じられたわけである。
「さて、どうします?」
手袋をはめた手を擦り合わせながら、エディットが問う。クレマンスが首を傾げた。
「わたくしが水を出して、あなたが引かせる。これでいいのでは?」
「いやそれが出来ないんですって」
寧ろクレマンス同様、水を出す事ならできるかもしれないが。それでも、クレマンス程大量の水を出す自信はない。いやあの量はやり過ぎだから、少しの方が良いに決まっている。例え時間がかかるにしても、水浸しよりマシ。
「クレマンス殿は、水を消すことは出来ないんですか?」
「魔法って出すだけよ」
「そう言うもんですか」
「そう言うものよ」
暗に、エディットにやれと言っているわけである。困ったな、と、悩むエディットの傍らで、クレマンスが動いた。咄嗟に、まずい、と、いう言葉が脳裏に浮かんだ。
「あ、ちょっと、駄目ですって」
「考えるよりやった方が早いわよ。もしかしたらあなた、出来るかもしれないし」
「出来なかったらどうすんですか」
「浮いたらいいんじゃない?」
「浮きたいだけじゃないんですか!?」
咄嗟に声が大きくなったが、全くクレマンスには響かなかった。平民が何やら喚いているな、と、そんな態度だった。突然貴族の空気を醸し出してくるのだ。慌てるエディットを他所に、平然とクレマンスは魔法を行使した。ヤバい、まずい、こわい。エディットは焦った。あの水の魔法の威力は一度目の当たりにしたからよく知っている。消すか逃げるかしなければ、大変な事になる。具体的に言うと、この寒空の下ずぶ濡れである。ドン、と、水らしからぬ音がした。何やら飛沫が飛んできた。消えろ、と、エディットは念じたが、その時にはもう隣にいる貴族のお嬢さんのコートを握っていた。消す気でいた。でも、出来ないと半ば諦めてもいて、それが行動に出たのだ。
水が襲い掛かって来る。
呑まれたくない。
浮け!!
強く念じた。結局エディットは、空へと逃げたのだった。
「浮いたわね」
ただ感想を述べました、と、そんな口調でクレマンスが言った。既に遠ざかった地面では、大量の水がザバザバと広がっている。水道管が壊れたみたい、と、そんな事をエディットは思った。現実逃避である。
「消せなかったの?」
「見ての通りですけど!?」
浮きながらエディットは大声を出した。無理なものは無理だと主張したのだ。
「大体、これ、他人の魔法から出た水だから消せないとかそんな事ありません?」
「無いでしょ。この間消したの見たじゃない」
その通りである。老人が意図も容易く消し去ったのを目の当たりにしたのだ。つまり、出来る筈なのだ。そもそもエディットは、自分が出したコップ一杯の水ですら消せなかったのである。他人以前の問題だった。
「どうするのエディット殿」
「何がですか」
「これ、消さないと叱られるのではなくって?」
クレマンスの言葉に唖然とした。問題を作った張本人が何を言っているのかという話である。だがどう考えても連帯責任である。頭が痛い。
「わたくし、叱られたくないわ」
「私だって嫌ですよ」
「だったら何とかして頂戴」
「いやしたいのは山々なんですけどね、消えないんですよ」
「神様に助けて貰えないの?」
「こんな事で頼るわけにはいかないんですよ」
「だったらエディット殿が何とかして頂戴よ」
何処まで行っても貴族のお嬢さんだった。勿論エディットだって、消せるものなら疾うに消しているのだ。一応先程から、消えろ消えろと念じてはいるのである。ただ、消えているのか変わっていないのかも分からない有様。それ程の水の量だった。あの老人凄すぎではないだろうか。一体何処の誰だか知らないが、今になってエディットは畏怖していた。
「クレマンス殿、他の魔法使えないんですか」
「水の血統なのよ」
どうにも水以外の魔法は使えないようである。ただこれだけの量を放出できるのだから、それなりの血筋ではあるのだろう。それが今は仇となっているのだが。幾ら下を睨んでも、水は消えない。しかも、段々と寒くなってきた。地面にいるときよりも、風の当たりが強いのだ。体が冷えてくると、頭も冷えてくる。その筈である。しかし現実は逆であった。段々とエディットは追い詰められてきていた。このまま下りたら、濡れる。この貴族のお嬢さんの体調を崩させるわけにはいかない。つまり、この水を何とかしなければいけない。でも、水は消えない。悩みに悩んだ結果、暴挙とも言える行動に出た。
浮け!!
自棄とも言える気持ちで、内心で叫んだのだ。
「まあ」
エディットの隣から、呆れた声がした。クレマンスの視線は、もう下に向いてはいない。上を捉えていたのだ。己も空に浮いているのに、更に上。其処には信じられない光景があった。
大量の水が、浮いている。
ぷかぷかと、揺らめきながら存在しているのだ。時折光を反射して、空の青と重なるように揺れている。
どうしようもなく追い詰められたエディットは、水を消すことを諦め、浮かせてしまったのだ。これは神から賜ったスキルである。だからこそ、自分が最初から持っていたものよりも、自由が利いたのだった。いや、効果が広いというべきか。お陰で地面からは消えた。但し問題は解消したどころか、増えたのだった。
「ど、どうしましょう」
自分でしておきながら、エディットは動揺していた。浮かせたものは何れ下ろさなければいけない。ずっと、浮いているわけではないのだ。いや、浮かせ続けた事が無いのである。だから、どれほど持つかも分かっていなかった。
「エディット殿、あなたって本当に凄いわ。意味は全く分からないけれど」
隣にいる友人の言葉はエディットの胸に大きく刺さった。そう、意味が分からない。その通りである。水を浮かせて一体何になるというのか。いや、地面に下りても濡れなくなったのだから、それはいい事である。そう思わないとやっていられなかった。
「エディット殿! クレマンス殿!」
突然大声で名を呼ばれ、びくりと肩が震えた。驚いたのだ。しかも声は下から聞こえた。当然である。今二人の少女は上空にいるのだ。物凄く嫌な予感を覚えながら下を見れば、見知った顔がいた。
もしかしてこれ、怒られるヤツでは。
願わくば回避したい所である。だからと言って無視も出来ない。どうしよう、どうしようと、内心で唱えながらエディットは地に下りた。勿論、クレマンスも一緒に。まるで縋るかのように、白いコートを握りしめたまま。
「これは一体……?」
困惑した顔も麗しいな、と、現実逃避めいた感想をエディットは抱いた。現れたのは、ルシアンだったのだ。珍しい表情をしているのにも理由がある。戸惑って当然であった。何せ人が上から現れたのだから。人は通常浮かないものである。言葉の前に先ず二人の少女は上を見た。するとつられて、ルシアンも其方を見たのだ。
其処にあるのは、水である。
これまた空に浮くものではなかった。
「ええと、その、クレマンス殿が水の魔法を使いまして」
顔を逸らしながら、エディットが言い訳を始めた。しかも、自分に責任はない物言いである。
「はい、わたくしが雪を消しました」
その上クレマンスはクレマンスで、堂々と言い切ったのだった。確かに嘘は言っていない。雪は消えている。これに焦ったのはエディットである。
「いやちょっと、量が問題なんですよ水の量が」
「それはだって、エディット殿が何とかすべきじゃない? 水のスキルを持っているのだから」
「でも私無理だって言いましたよね?」
「本当にやったの?」
「やりましたって。でも消えなかったんですよ」
目の前で言い合いを始めた二人の少女を見て、ルシアンは頭痛を堪えるような表情を浮かべた。どうしたものか、と、言いたげである。水のスキル、若しくは魔法が使える神官は、雪が降ると忙しくなる。こうして除雪作業に駆り出さるのだ。ルシアンもその一人である。だからと言って、大量に一度に消す、と、言う事はしない。水が溢れる事は目に見えているからだ。多少の排水設備はあるものの、大量ともなれば溜まる。それを見越して、少しずつ消すのだ。それがまさかあんなにも大量の水を一気に放出するとは、誰が思うだろうか。無論浮いている水の量は、単純に魔法で出した物だけではない。それでも、大した水魔法の使い手だと感嘆する量であった。尤も今問題はそこではない。
果たして浮いているこの水を、どう処理すべきかである。
「それで、消すことが出来なかったので、浮かせた、と、言うわけですか」
静かにルシアンは問うた。事実の確認であるが、どうにも責められているように聞こえたのだった。いや、ルシアンとて、叱るべきかどうか考えあぐねているのだ。何とも扱い辛い二人であった。
「その、下に溜めておくと、濡れるので……」
最早そう言う問題でもない気がするが、確かに、自然に消えるのを待つ量ではない。
「お二人は今回が初めて、と、言うわけではありませんよね? 前回はどうしたんですか?」
ごく自然な問いかけに、やはり少女たちは口を閉ざしたのだった。いや、答えるのが憚られるわけではない。どう説明したものかと思っているのだ。だがずっと黙っているわけにもいかない。正直に言うべきである。
「実は前も大量の水が溢れまして……」
「そのような報告は上がっていませんが?」
「えっと、見知らぬ親切な神官の方が、こう、パッと……」
ルシアンが眉根を寄せる。要領を得ない物言いだったからである。
「ああ云う感じです」
するとクレマンスが、空を指差しながら言った。言葉につられて見てみれば、不思議な事に浮いていた筈の大量の水が跡形もなく消えていたのである。一体いつの間に。呆気に取られるルシアンに向かい、今度はエディットが言った。
「あの方です」
既にエディットの視線は、別の方へと向いていたのだ。前回老人が現れた上層の窓。果たして今回も其処にいたのだった。しかも、手を振っている。正に自分がやりましたと言わんばかり。ルシアンが唖然とした表情を浮かべた。
「あの方ですか」
「はい」
「はい」
返事をしながら二人の少女は頭を下げた。手を振り返すわけにはいかなかった。どうにも、上の立場の人間である。年月を感じさせる風貌、またあの光り方からしてそうだった。はあ、と、ルシアンが重苦しい息を吐いた。どうしようもない、と、言外に告げるように。
「クレマンス殿」
「はい」
「小規模の魔法を使うようにして下さい」
「はい」
返事はしたものの、顔は不満げだった。一気に消せる実力があるのに、と、言わんばかりである。
「エディット殿」
「はい」
「水を消すことは出来ませんか?」
「ちょっと、今は……」
「出来るようになりましょう」
「アッハイ」
なりたいのだが、方法が分からないのである。やはり、コップ一杯の水から始めるのが良さそうだ。貴族のお嬢さんは一々規模が大きすぎる。エディットに対する期待も同じくらい大きいが。根拠もなく、エディットならば出来ると思い込んでいる節がある。人より光っているせいである。少なくともクレマンスの目から見て、エディットよりも光っている神官等存在しないのだ。
雪が消えた地面と、乾いた空気の中、一先ず二人は反省してみせたのだった。




