56.地に足を付けて生きる。
最初に雪が降った時、エディットは喜んだ。寒かったが、奇麗だったからである。ほんの少し積もった雪に、ブーツで足跡をつけた。それだけで雪は消えた。その程度の量だったのだ。そしてエディットは知るのだ。
雪は、程々がいい、と。
ある朝目覚めると、自棄に静かだった。何やら世界から急に音が消えたような、そんな錯覚を抱いた。教会に響き渡る鐘の音が、何処かくぐもって聞こえる。不図窓を見れば、四隅に雪がついていた。積もっているというより、恐らく凍っている。これは寒いに違いない。教会の中はどの部屋でも全てが程よい温度だった。寒すぎないのだ。床暖房ならぬ壁暖房なのかもしれないし、単純にそう言う魔法がかけられているのだろう。規模が大きすぎて、エディットには想像も出来ないが。
今日は、聖水を作る日だった。
掃除を終え、クレマンスと共にマーヴァルの元へと行く。だが向かった先で言われたのは、予想だにしない一言だった。
「しっかり防寒して、外へ出て下さい」
意味が分からず、クレマンスもエディットも呆けた。尚、言ったマーヴァル自身は既に厚着をしていた。しっかりコートを着ている。理解出来ないながら、従った。一度部屋に戻り、コート、ブーツ、そして手袋をして外へ出たのだ。
出て驚いた。
銀世界だった。
一面、雪。
少し降ったレベルではなく、完全に積もっていた。それも、かなり。当然エディットの人生で見たことのない量であった。尤も驚いているのはエディットだけである。クレマンスは平然としていたのだ。
「クレマンス殿、雪ですよ」
「そうね」
白い息を吐きながら、弾んだ声で言ったエディットに対し、クレマンスの返答は素っ気なかった。
「凄く積もってますよ」
「そうね」
「凄くないですか?」
「何が?」
「雪で女神像とか作れますよ」
「作った事ないでしょ」
「私こんなに雪見たの初めてですし」
単純にエディットははしゃいでいた。寒いのも忘れて。これだけあったら雪だるまも作れるし、かまくらも作れるし、雪合戦だってし放題である。クレマンスが付き合ってくれるかどうかは別として。また、恐らくその時間もない。遅れてきたマーヴァルが言った。
「お二人とも、今日は聖水は作りません」
えっ、と、内心で声を発した。尤も、驚き半分納得半分である。明らかに聖水を作るような環境ではない。外へ出る必要が無いのだ。
「お二人は、水の魔法と水のスキル持ちです。なので、雪を溶かして下さい」
「水で?」
「水で」
つまり、除雪である。
成程、と、エディットは納得していた。明らかに雪が多すぎて、人の行き来に不便が生じている。教会には水に関するスキル持ち、或いは、魔法使いが多い。恐らく雪が通常より降った場合、駆り出されているのだろう。教会だけでなく、外にも行っているのかもしれない。その上で、見習いの二人には中を任せる、と、言う事だろう。放り出すわけにはいかないのだ。
一方でエディットは、水よりも火の方が効率がいいのではないか、とも思っていた。ただ、前世の事を思い出すと、消雪装置は確かに水である。いや、湯なのかもしれない。第一エディットに火のスキルはないので、考えるだけ無駄である。
用件だけを言い残し、あっさりとマーヴァルは去っていってしまった。恐らく、忙しいのだ。教会の外へ出るのかもしれない。残された二人は顔を見合わせた。
「クレマンス殿、やった事あります?」
「あなた、私が何処の出身だと思っているの?」
「いえ、存じないんですけど」
「豪雪地帯よ」
「凄いんですか」
「凄いのよ。だから、水の魔法で溶かすやり方は、何度も見てきたわ」
此処で注意が必要なのは、見てきた事であり、やった事があるとは言っていない部分である。何だか少し嫌な予感を覚えながら、エディットは黙っていた。何と言っても此方は本当に初めてで、想像すらついていなかったからである。とは言え、ずっと、黙っているわけにはいかなかった。いや、勝手に言葉が口を突いて出たのだ。
「もしかして、一気に行く感じですか」
「そうよ。その方が早いでしょ」
クレマンスが、堂々と手を前に伸ばしたからである。何故だから分からないが、凄く危ない予感がした。知らないのに、まずそう、と、思ったのである。恐らく、信用していなかったのだ。クレマンスの魔法の腕とやらを。
疑念を乗せた眼差しの先、クレマンスは小さく声を発した。詠唱である。余り聞き取れない。延ばした掌が青く光った。発動する。そんな風に思った。きっと、あの手の先から、水が出て来るに違いない。
次の瞬間、ドン、と、水らしからぬ音がした。
驚きにエディットは目を見開き、何なら口も開けた。完全に予想は外れていた。元々寒かったのに、更に気温が下がったように思った。手の先から溢れ出ると思った水は、全く予期せぬところから現れたのだ。上である。何もない所から、突然大量の水が現れ、積もった雪に向かい一気に落ちたのだ。急に上から水をかけられ、雪は解けた。するとどうなるか。更に水が増えるのである。一体どのくらいの量の水が降り注いだのか、エディットには分からなかった。ただ、考える間もなくクレマンスに手を伸ばしたのだ。白いコートを引っ掴み、内心で強く願った。
浮け!!
神から賜ったスキルが発動する。余りに強く一心に願ったためか、一気に上昇した。二人の少女の身体が、空に浮いたのだ。エディットの心臓は早鐘を打っていた。人を浮かせた事はあるが、自分が浮いたのは初めてだったのだ。それも、一気に建物の一階部分を越えてしまった。急に恐怖が競り上がって来る。下を見れば、まるで洪水でも起きたかのように水が溢れていた。あのままいたら、ブーツは水浸しだっただろう。想像だけで寒くなった。
「エディット殿」
ふと、名を呼ばれ、隣を見た。未だにコートは掴んだままだ。離すわけにいかなかった。此処から落ちたら何方も無事ではない。なんですか、と、答えようとして、声が出ない事に気付いた。恐怖で未だエディットは固まっている。だから、視線だけを寄越したのだ。
「凄いわ!!」
「……は?」
顔を強張らせているエディットと違い、貴族のお嬢さんの顔は生き生きしていた。勘弁してほしい。
「わたくし今、空を飛んでいるわ!」
「いえ、飛んでません。浮いてるだけです」
「一緒でしょ」
「それよりクレマンス殿、下りられないんですけど」
恨みがましくエディットが言えば、クレマンスが下を見た。
「でも消えたじゃない」
「いえ、限度ってもんがあるじゃないですか」
「初めてだったのよ。次から気を付けるわ」
次と言うなら次は自分が何とかしよう。エディットは内心で決意した。もしクレマンスに任せたなら、次も同じことを仕出かしそうな気がしたからである。はあ、と、溜息を吐き考える。一体何処に降りたらいいのかをである。このまま下りたら水で濡れてしまう。だからと言って、移動できるかどうかは分からない。雑巾は動かせるが、自分も浮いたまま動くことが出来るだろうか。それも、友人を連れて。不安要素しかなかった。どうしよう。どうすれば。
「おや、空中を散歩されている方は初めて見ましたな」
急に人の声が聞こえ、二人の少女は驚き振り返ったのだ。空中に人がいる筈もないのに。そう、確かに相手は浮いているわけではなかった。教会の上層、其処から窓を開けて話しかけてきたのだ。
見知らぬ老人だった。
尤も、神官であることは間違いない。エディット程ではないが、眩い程の光を放っていたのだ。予想だにしない出来事に、思わず二人は呆けてしまった。
「いえ、その、散歩ではなく、下りられないのです」
おずおずとエディットは答えた。その言葉に老人が身を乗り出し、下を見る。建物の一部が浸水する程ではないが、確かに水が溢れていた。
「でも雪は消えました」
責められるのを避けるためか、先んじてクレマンスが早口で言った。言い訳染みた少女の態度に老人が笑った。
「豪快にやりましたな」
注意するでもなく、責めるわけでもなかった。只感想を述べた様を見て、クレマンスが眉根を寄せた。不可解に感じたのだろう。そうして、下を見たまま、老人は二度頷いたのだ。何やら納得したような、いや、何某かの合図にも見えた。
「あっ」
つられて下を見たエディットが小さく声を発した。
あった筈の物が消えていたのだ。
水である。満ちていた大量の水が、嘘だったかのように消えていたのだ。同じく下を見たクレマンスも、驚きに目を丸くしていた。
「水のスキルとは、何も水を出すだけではないのです」
静かに老人が言った。引かせることも出来るのだと。思いもよらぬことを言われ、エディットは呆けた。同じ水のスキル持ちだと分かる。だが、同じ事が出来るとは、全く思えなかったのだ。寧ろ、クレマンスの魔法程の威力すら出せるかどうか、いや、出せないだろうと思っている。試したことはないが。
「だったら、エディット殿が後始末すべきだったのね」
エディットの気持ちを汲むことなく、容易くクレマンスが言った。流石にエディットが顔を顰めた。
「クレマンス殿が程々を覚える方が早いと思います」
「でも一気に綺麗になったわよ」
「あのままだったらずぶ濡れだったんですけど?」
「ならなかったわね」
「私のお陰ですけどね」
「その調子で、水を引かせてくれればいいのよ」
「負担大きくないですか!?」
「仕方ないわ。エディット殿の方が色々出来るのだもの」
あっけらかんと言い切られ、エディットは顔を引き攣らせた。しかし実際、習得すべきである。何せ出来る人間がいるのだから。ふと、笑い声がした。見れば老人が快活に笑っている。二人の少女のやり取りが面白かったと見える。その笑い声で冷静さを取り戻すと、二人は一緒に肩を竦めたのだった。
「おや、随分と綺麗になりましたね」
ゆっくりと地面に降り立ち、雪が消えた地面を眺めていると背後から声が掛かった。マーヴァルである。様子を見に来たようだ。恐らく未だ残っていると想像していたに違いない。何せ、大量だったのだ。それが綺麗に消えているものだから、驚いていた。
「ええ、わたくしが一気にやりました」
堂々と答えたクレマンスの隣で、エディットが顔を逸らし息を吐いた。明らかに疚しい事がありましたと言わんばかりの態度を見、マーヴァルが訝しんだ。どうやら何かあったと見える。だが、雪は消えているし、現状問題は見当たらない。暫し悩み、マーヴァルはこれで良しとしたのだった。己が目の当たりにしていない問題は、そうとは言わないわけである。割と問題を先延ばしにする質なのかもしれなかった。
予定より早く雪がなくなったので自由時間となった。本来であれば外で遊ぶことも出来たのだろうが、肝心の雪が奇麗さっぱり無くなってしまった。雪だるま作ったりしたかったのにな、と、エディットは思ったが無理なものは無理である。
「エディット殿、わたくし部屋に戻って温かいお茶でも飲もうかと思うの。一緒にいかが?」
何とも魅力的な問いかけが出てきた。冷たい雪より温かい茶。脳裏に湯気を立てるティーカップが浮かんだ。口より脳内の方が反応が早かった。思わずエディットはじっと友人を見た。物欲しげな視線を受け、クレマンスが笑った。
「今なら菓子も付けるわ」
「御相伴に預かります」
はっきりとエディットは言い切った。恥など無かった。くれると言うものは貰った方がいい。時と場合に選るが。はあ、と、冷たい息を吐き出しながら、二人は室内へと戻っていく。
「代わりにまた空を飛ばせてくれてもいいのよ?」
「クレマンス殿、私は地に足を付けて生きると決めているのです」
「何それ」
二度と空に等浮きたくないと言う思いと、堅実に生きるという意味を込めたのだが、残念ながら伝わらなかった模様である。大体偶々上手くいったからいいようなものの、次も一緒に浮くことが出来るとは限らなかった。未知へ挑むには、エディットは小心なのである。例え一度成功したとはいえ、次も出来ると確証が得られるまでは、やりたくなかったのだ。何せ命に関わる問題である。この貴族のお嬢さんの身柄に責任など取れない、と、言うのが本音だった。




