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45.孤独。


「えっ、大丈夫なんですか!?」

 朝の静かな時間だと言うのに、思ったよりも大きな声が出てしまい、エディットは焦った。咄嗟に口元を手で押さえたが、周囲に人はいなかった。目の前の女性だけだ。困ったように微笑んでいる。クレマンスの侍女、アミシーであった。こうして朝姿を見るのは三度目となる。いや、三日連続と言った方が正しい。主人であるクレマンスの姿は今日もなかった。

 つまり、本日も休みなのだ。

 流石のエディットも慌ててしまった。三日目である。三日。勝手に軽い風邪だと想像していたが、重いのかも知れない。そもそもエディットは病気らしい病気に罹った事がなかった。流石に風邪をひいたことくらいはあるが、それも、一日二日で治る程度だ。だから知らなかった。この世界の医療についてである。怪我の類は神官が治してしまうが、病気については知らなかったのだ。勿論、医者がいるだろう。だが、そこまで医療が発達していないのかもしれない。だから、たかが風邪と言えど、そう簡単には治らないのかもしれない。或いは全く知らない別の病気の可能性だってあった。エディットには風邪と伝えたが、実は違うのかもしれない。

 そこまで考え、見舞いに行くべきではと思い至る。

「もう本当に治っているのです。ですが、わたくしめが後一日籠って頂きたいとお願いしまして……なので、明日にはお会いできるかと」

 だが申し出たものの、やんわりと断られたのだった。この侍女の言が事実かどうかなど、エディットには分からない。でも、疑っても仕方がないので、治ったなら良かったと伝えたのだった。既に三日会っていない。恋しく思い始めていたのだ。教会には、他に仲良くしてくれる同年代の人間がいないのである。食事が一人なのは何時もの事だが、掃除と祈り、そして聖水を一人で作るのを寂しく思い始めていた。

 今日は、聖水を作る日だったのだ。

 聖水作成の指南をしてくれるマーヴァルと会うのは、前回の休み以来であった。市へ一人で行くと言ったエディットに、「知らない人についていってはいけません」と、注意をしたのだ。更に、「食べ物をくれると言っても駄目ですよ。貰ってはいけませんよ」と、続けられたものだから、エディットはショックを受けたのだった。自分ではしっかりしているつもりだったのである。だが、頼りなく見えると言外に言われ、ショックを受けたのだ。ただ、どう考えても十歳児に対する普通の注意である。

「今日もお一人ですか」

「ええ、クレマンス殿は未だ具合が悪いみたいで」

「それは、心配ですね」

「はい」

 小さ頷いたエディットを見て、随分と寂しそうですね、と、マーヴァルは言おうとして止めた。余計な一言だろうと思ったのだ。恐らくそのような事は、言われるまでもない。それに、クレマンスがいないからと言う理由で、気がそぞろ、と、言うわけでもなさそうである。エディットはきちんと聖水を作ってみせた。それも、前回よりも沢山。最初の頃よりずっと、数を作れるようになっていた。恐らく、神に三度会った事も大きい。エディットの神官としての力は、既に群を抜いていたのだ。ただあくまで見習いとして扱うためか、態々その事を誰も指摘しないので、本人にも自覚はなかった。何より、自分で自分が纏う光は見えないのだ。

 幾ら前よりは沢山作れるようになったからと言って、無限に作り続けることが出来るわけではない。突然のガス欠を彷彿とさせるよう、急に作れなくなる。そろそろ燃料がなくなりますよ、と、言う合図は未だに無い。こうなると、今日の作業は終わりだ。

 静かだったな、と、思う。

 残念ながらマーヴァルは、そう会話が弾む相手ではないのだ。

 挨拶をして部屋を後にする。出来上がった聖水の行先は知らない。恐らく売るのだろうとは思っている。但し、値段は知らない。以前冒険者ギルドで作った一本を、出来も見ずにギルド長が一万トリオレ支払った事を思い出せば、それなりの金額なのだろう。もし一人で外に出る事があれば、何本も常備したいところである。少なくとも、三年の内はないだろうが。

 質と量が然程でなくとも、食べたい時に食事が出来る、と、言うのは、エディットにとっては酷く贅沢だった。食事の時間は、決まっているようで決まっていないのだ。勿論、朝食が出来た、と、言う知らせはある。夕食も同様である。だが、それ以外の時間に尋ねても、何某か残っていれば、食べさせてくれるのである。おやつ、等と言う贅沢な物はないが、似たような状況ではあった。基本的には一日二食である。だから、鐘が鳴っていない時にきても、給仕をしてくれる人間はいない。つまり、勝手に器に盛って食べてよいのだ。誰も居なければ、バイキングのようなものだった。しみじみ贅沢だな、と、思いながら食べる。エディットの邪魔をする人間はいない。そもそも、朝夕以外に食堂に訪れる人間が、ほぼいないのだ。

 その後、入浴をするために浴場へと向かった。今更ながら、此処が一番魔法の道具の宝庫ではないだろうかと睨んでいる。魔法かスキルの産物だと思い込んでいたが、どうにも違うと先日知ったのだ。だが知ったところで、どうにかなるものでもない。エディットは思った。正直なところ、仕組みには興味がない。ただ、作ってくれた人に感謝しながら入ろう。エディットは神官である。魔法の道具を作るのは、専門家の仕事である。それこそ、問題となるのは、スキルの有無なのだ。

 何もない一日である。

 平和そのもの。ただ、友人が伏せっている事だけが心残り。そのような事を思いながら、少し早いが日記を書き始めた。明日こそ、クレマンスに会える筈だと信じて。侍女であるアミシーの言葉を信じるならば、回復はしているようである。パタン、と、日記帳を閉じる。アーローズ・オブライエンに貰った日記帳にも使用感が産まれていた。一年経つ頃には、詰まるかも知れない。この大聖堂で積み重ねた日々が、この中には生きているのだ。

 夕食まで少し眠ろうか。いや、その前に祈りを捧げよう。

 質素な椅子に座ったまま、エディットは指を組み、神に語り掛ける。未だに祈りを捧げる方法はよく分かっていない。でも確かに、エディットの言葉は神に届いているのだ。いつもありがとうございます、と、礼を言う。日記に書いたのと同じような事を脳内につらつらと思い浮かべる。まるで家族に一日の出来事を報告するように。最後に、お金が貯まりますように、等と、それこそ神頼みよろしく願ってしまった。きっと神は呆れているだろう。

 金の事が頭に浮かぶと、自然と箱が脳裏に浮かぶ。

 確かめてみよう。エディットはクローゼットへと向かう。毎日眺めているのに、今日も眺める気なのだ。最早日記並みの日課になろうとしていた。一昨日購入したばかりなのに、もうずっと長い事持っているような気すらしていたのだ。眺め過ぎである。

 箱はいつもの位置にある。エディット以外触らない上に、エディットも開けるだけで移動させたりはしないので当然である。窪みに指を置く。赤い光を放つ。解除するための決まった手順である。飾り気も何もない箱だ。本当に見た目は只の木箱である。でもこれが魔法の箱だと言うのだから、見ただけでは全く分からない。未だに感心しながら、エディットは蓋を開けた。中には、五枚の硬貨。この箱の中には、一万トリオレ硬貨しか入れていなかった。カフェの釣りでもらったもっと金額の低い硬貨もあるが、それは財布に入れていたのだ。蓋を開け、中を見たエディットは、二度瞬きをした。そうして、パタンと一度閉めたのだ。勿論、ただ閉めただけでは、箱に変化はない。だから直ぐにエディットが蓋を動かせば、直ぐに開いた。只の木箱だ。何の変哲もない。

「えっ」

 エディットは短く声を上げた。

 木箱の中には、一万トリオレ硬貨が五枚。確かにエディットが入れたのだ。袋から態々出して入れたのだ。その方が見栄えがいい気がしたから。

 その筈、だった。

 とうとうエディットは蓋を開けただけでなく、箱そのものを持ち上げた。置いてから始めて、異動させたのだ。そして、ひっくり返した。蓋がゆらゆらと揺れる。パサリ、と、物が落ちる音。袋である。硬貨と共にいれた空の袋だけが落ちてきたのだ。だが、他の音はしなかった。何一つとして、しなかった。

「ない」

 言葉が口を突いて出た。

 呆然とエディットは呟いた。

「ない」

 同じ言葉を重ねる。箱を振る。何も落ちてこない。

「ない」

 箱を置いた。蓋は開いたままだ。只の木箱がそこにある。エディットは箱の周りを探り始めた。神官服とクレマンスに貰った衣服が吊ってあるだけのクローゼットを探り始めた。

「ない」

 譫言のように呟く。

 服を揺らしてみる。衣擦れの音だけが響いた。

「ない」

 クローゼットが暗いせいかもしれない。咄嗟に光のスキルで辺りを照らした。何処からともなく光が現れ、目を開けるのが辛い程眩しくなった。必死に手探りで探す。

「ない」

 でも、ない。ないのだ。手に何も当たらない。何処にも落ちていない。

「ない……」

 とうとうエディットは、その場に蹲った。もう力が入らなかった。だって、ないのだ。エディットの大事な、五万トリオレがないのだ。毎日眺めていた硬貨がないのだ。魔法の箱に入れたはずのお金がないのだ。確かに昨日見たのだ。寝る前に確認した。間違いなくあった。なのにない。箱はエディットの魔力を覚えている筈だ。だから、先程赤い光を放ったのだ。一体誰が開けられると言うのか。もし開けるとしたら、それはエディットでしかない。だが、開けて硬貨を取り出した覚えがないのだ。

「神様……」

 どうしようもなくて、神に呼びかけた。

「神様……」

 他に今、縋るべき相手が思い浮かばなかった。

「神様……」

 エディットは何度も神に呼びかけた。だが、神が応える事はなかった。エディットに神の声は聞こえない。そして此処は神の園ではない。教会に与えられた、鍵一つない自室だった。今エディットは絶望している。なのに神は応えてくれなかった。助けてくれなかった。両手で顔を覆った。手が湿っていく。悲しみややるせなさが、涙となって溢れ出す。

 信じたくなかった。

 硬貨が無くなった事ではない。その無くなった原因である。

 信じたくなかった。

 木箱の蓋は勝手に開かないし、硬貨は自然に消滅したりしない。

 つまり、盗んだ誰かがいるのだ。

 そして、木箱は、魔法の箱などではなかった。

 信じたくなかった。

「うっ、うっ……」

 嗚咽が漏れる。心が痛い。頭が重い。呼吸が苦しい。手が冷たい。

 信じたくなかった。

 神官には善人しかいないのだと思いたかった。もしかしたら外部の人間が入り込んだのかもしれないが、可能性は低いだろう。教会内部は、人の出入りが容易ではないのだ。神に祈りを捧げる人間に、悪人などいないと信じていたかった。商人だってそうだ。あんなに人のよさそうな顔をして、子供を騙す人間がいると知りたくなかった。

 エディットは自分の落ち度を探した。

 己が被害者だと分かる。なのに、自分に悪い所が沢山あったのだと思っているのだ。疑わなかった己が浅はかだったのだと。自分の行いを悔いていた。神が干渉して、安く買わせてくれた、等と思い上がった事を恥じ入った。

 悲しい。悲しくて、只管につらい。

 涙が止まらない。大事なお金だった。実家に、貧しい暮らしをしている両親に持ち帰らなければいけなかったのに。箱なんて、買わなければよかった。あんなものに五万トリオレも払ってしまったのだ。ただの、木箱に。だがきっと、箱の有無にかかわらず、何れ硬貨は盗られていただろう。この部屋に、鍵はないのだ。

 ふと、エディットは顔を上げた。

 頬を濡らしたまま、幽霊のように立ち上がり、歩いたのだ。

 机に近付くと、書いたばかりの日記帳を開いた。そうして、一枚破ったのだ。白紙のページを。ぎゅ、と、強く目を閉じる。目尻に残った涙が流れた。そのまま願った。

 私のお金を盗った人を写して下さい。

 神の声は聞こえない。だがエディットには、神に貰った力があるのだ。一番最近貰ったばかりの、念じたものを紙に写す力の存在を思い出したのである。果たしてこういう使い方が出来るかどうかは分からない。それでも、願った。エディットは目を閉じている。だから、見ていない。紙の変化を見ていなかった。暫く後目を開けた視線の先には、白紙で無くなった紙があったのだ。

 女が、いた。

 紙の中に、女が。

 優しそうに微笑んでいる女だった。知らない女だった。絵ではなく、写真に近い出来だった。その出来に感動する余裕すらなかった。エディットの目に涙が再び溢れた。知らない、と、再度思った。見覚えすらない相手だったのだ。だが神は告げている。この女が、エディットの硬貨を盗んだのだと。どうして、と、エディットは思った。理由が分からないのだ。知らない相手だ。何かをした覚えも当然無い。でも、盗んだからには、理由がある筈だ。

 怒りが湧かない。

 確かに金は盗まれて、盗んだ相手は存在している。なのに、エディットの心に浮かぶのは、悲しみだけなのだ。或いは、後悔である。当然向けるべきである、憎しみと言った感情が生まれてこないのだ。ずっと嘆いている。涙が止まらない。

 神様、ごめんなさい、神様。

 訳も分からず謝罪を繰り返した。

 神はエディットに応えない。幾ら嘆き悲しみ悔い、語り掛けても。この程度の絶望、大したことはないと言わんばかりに。



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