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悠久の慈愛―神代残響―  作者: 月見


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二章 二話 布団

「・・・・・・伊奈久遠」


その名を聞いた瞬間、なぜだろう、初めて会ったはずなのに、どこか懐かしい気がした。

久遠は立ち上がる。

そして空になった紙包みを受け取った。


「歩ける?」


健吾は黙って頷く。

正直なところ、自信はなかった。

足には力が入らない。

だが見知らぬ相手の前で弱音を吐きたくなかった。

久遠はそれ以上、何も言わなかった。

ただ歩き出す。

健吾もふらつきながら後を追った。

港の夕暮れは静かだった。

戦争が終わったばかりの町は薄暗い。

焼け跡があちこちに残り、崩れた建物もそのままだった。

二人はしばらく無言で歩く。

久遠は何も聞かなかった。

どこから来たのか。

家族はいるのか。

なぜあんな場所で倒れていたのか。

普通なら訊くはずのことを、一つも、それが逆に不思議だった。

やがて海から少し離れた場所で久遠が立ち止まる。


大きいとは言えないが立派な木造の一軒家だった。

これなら雨風はしのげそうだった。

久遠は戸を開ける。


「どうぞ」


健吾は警戒しながら中を覗いた。


六畳ほどの部屋が4つ。

台所とお風呂が奥にみえる。


古い机、本棚、ちゃぶ台。


それだけだった。

拍子抜けするほど簡素の家だった。

柱には小さな傷がいくつも残っていた。

誰かが長い時間をここで生きてきた跡みたいに。

だが、台所だけは違った。

台所の隅には、洗いかけの茶碗が積まれていた。

干し切れていない布巾。

読みかけの新聞。

誰かがちゃんと“暮らしている”匂いがした。

しかし違和感は感じた。

バランスの悪い家の構成。

まるで急いで準備したような感じにすら感じる。


久遠は台所へ向かう。

やかんを火にかけながら振り返った。


「しばらく住むかい?」


健吾は固まった。

あまりにも自然に言われたからだ。


「・・・・・・は?」

「寝る場所ないんでしょう?」


久遠は当たり前のように言う。

健吾は言葉に詰まった。図星だった。

だが見知らぬ男の家に転がり込むほど馬鹿でもない。


「なんで」


少し間をおいてもう一度問う。


「なんでそんなことするんだよ」


久遠は少しだけ考えた。

それから困ったように笑う。


「一人でいるより良いと思ったからかな」


その答えは曖昧だった。

曖昧すぎるが嘘にも聞こえない。

健吾は唇を噛む、信用してはいけない。そう思う。

戦争が終わってから何度も裏切られてきた。

優しい顔をする人間ほど危険なことも知っている。

それでも、温かい飯をくれた。

名前も聞かずに、見返りも求めずに、目の前の男からは、不思議と嫌な気配を感じなかった。

沈黙が続く、やがて久遠は湯呑みに茶を注ぎながら言った。


「嫌なら明日出て行ってもいい」


健吾は顔を上げる。

久遠は笑っていた。

引き止めるつもりもないらしい。


「今日はもう遅いからね」


夕陽はとっくに沈み始めていた。

外では海風が戸を揺らしている。

健吾は視線を落とした。

行く場所はない。

帰る家もない。

待っている人もいない。

長い沈黙のあと。


「・・・・・・一日だけ」


ようやくそう言った。

久遠は静かに頷く。


「うん」


それだけだった。

歓迎も、説得も、恩着せがましい言葉もない。

ただ当たり前のように受け入れる。

その姿に、健吾は少しだけ戸惑う。

なぜだろう、この人の隣にいると、不思議と安心してしまう。

その時の健吾はまだ知らなかった。

この出会いが、自分の人生を変えることを。

そして、目の前で湯気の立つ茶を見つめている少年が、人の歴史を遥かに超える時を生きていることを。


その夜。

久遠は服を着替えて家事に忙しそうだった。

でも、とても嬉しそうに笑顔でバタバタと勤しんでいた。

お風呂を沸かし健吾をお風呂に入れ汚れを取ってあげた。

お風呂から上がると、着替えを勧められた。

子供サイズの着替えがある。しかし未使用のようだ。

まるで事前に準備されている感すらある。

久遠は押し入れから布団を二組取り出した。


「使っていいよ」


健吾はそれを見つめた。

新品の布団で綺麗だった。

少なくとも、自分がここ数年見てきたものよりずっと。


「使ってもいいの?」

「もちろん」


久遠はそう言って笑う。

それだけだった。

健吾は逆に落ち着かなかった。


『本当に何も求めないのか?』


戦後になってから、そんな大人を見たことがない。

食べ物には対価がいる。寝床には理由がいる。

そう思っていた。

だからこそ理解できない。

部屋の明かりが消える。

窓の外では波の音だけが聞こえていた。

柔らかい布団だった。

身体が沈む、温かい、それだけで泣きそうになる。

目を閉じた瞬間、遠い記憶が浮かんだ。

母がまだ生きていた頃。

小さな家、夕飯の匂い。


『健吾』


優しい声、もう二度と戻らない景色。

気付けば頬が濡れていた。

声は出さない、泣けば全部壊れてしまう気がした。

だから歯を食いしばる。

けれど涙だけは止まらない。


・・・・・・その時だった。


襖の向こうから静かな声がした。


「眠れない?」


健吾は慌てて涙を拭く。

返事はしない。

すると久遠も、それ以上何も聞かなかった。

ただ少し間を置いて言う。


「大丈夫だよ・・・」


そう言った久遠の声は穏やかだった。

けれどその奥に、ひどく古い孤独が沈んでいる。

短い言葉は不思議だった。

根拠もない、約束でもない、なのに妙に安心した。

波の音が遠ざかる。

気付けば健吾は、戦争が終わって初めて深く眠っていた。


翌朝、鳥の声で目が覚めた。

健吾はしばらく天井を見つめていた。

見慣れない木目、見慣れない匂い、柔らかな布団。

数秒遅れて昨夜の記憶が戻ってくる。

伊奈久遠。

白いスーツの男。

握り飯、温かい風呂、そして・・・・・・。


『大丈夫だよ』


あの言葉、健吾は慌てて起き上がった。

夢ではなかったらしい。

障子の向こうから包丁の音が聞こえる。

規則正しい音、刻む音、何かを煮る匂い。

味噌汁だった。

胃が勝手に反応する。

健吾は唾を飲み込んだ。

恐る恐る襖を開ける。

台所では久遠が朝食を作っていた。

着物に割烹着姿、容姿が整い過ぎた少年だけに、この姿では女学生が料理をしているようにしか見えない。

だが妙に似合っていた。


「あ、おはよう」


振り返った久遠が笑う。

まるで最初からそこに住んでいた家族へ向けるみたいに自然だった。

健吾は少し戸惑う。


「・・・・・・おはよう」


久遠は味噌汁を椀によそう。


「もう少しで出来るよ」


「俺・・・・・・まだいていいのか?」


思わず口から出た。

久遠はきょとんとする。


「?」

「だから・・・・・・昨日、一日だけって」


久遠は少し考えてから、


「ああ」


と頷いた。


「まだ朝だからね」


健吾は言葉を失う。

久遠は本気でそう言っているらしい。

追い出す気配もない。

働けとも言わない。

恩返しを要求する様子もない。

ただ朝食を作っている。

それだけだった。


「・・・・・・変な奴」


ぽつりと呟く。

すると久遠は少し困ったように笑った。


「よく言われる」


その答えが妙に可笑しくて。

健吾は久しぶりに、小さく笑った。

自分でも驚くくらい自然に。

久遠はそれを見て少しだけ安心したような顔をした。


やがて朝食が並ぶ。

白いご飯、味噌汁、焼き魚、漬物。

戦後の時代では贅沢と呼べる食卓だった。

健吾は目を丸くする。


「・・・・・・これ全部?」

「うん」

「毎日?」

「だいたい」


健吾は絶句した。

久遠は首を傾げる。


「食べないの?」


慌てて箸を取る。

久遠が笑う。

その笑顔はどこか嬉しそうだった。

誰かに食事を作ることを、ずっと待っていた人みたいだった。

まるで、もう二度と戻らない時間を、必死に繋ぎ止めているみたいに。

久遠は笑っていた。

その笑顔を見ていると、なぜだか胸が少し苦しくなった。


だからこそ・・・・・・

誰かと共に食べる朝を、誰よりも大切にしていることを。

あの日の朝だけは、自分が孤児であることを忘れられた。


ここまでお読み頂き、ありがとうございます。


流行りのジャンルでも、激しい格闘ものでもない作品ですが、テーマを出来るだけ伝えられるよう頑張っていきます。


もしよろしければ、反応いただけると執筆の励みになります。


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