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悠久の慈愛―神代残響―  作者: 月見


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二章 三話 両親

昭和二十年九月二日――


東京湾上の米戦艦ミズーリ号にて、日本政府と軍の代表が降伏文書へ正式調印し、日本は敗戦を受け入れた。長かった戦争は終わった。

ラジオは繰り返し“新しい時代”を語り、新聞は平和の到来を見出しに掲げていた。

けれど、焼け跡に残された人々にとって、それはあまりにも遠い言葉だった。

空は薄曇りだった。

夏の熱だけがまだ地面に残り、湿った海風が肌へまとわりつく。

港町の外れ、小高い丘の上にある共同墓地には、人影はほとんどなかった。

石段の脇には雑草が伸び放題になり、踏み固められた土の間から、名も知らぬ小さな白い花が咲いている。遠くでは波の音が聞こえ、低く静かな海鳴りだった。


健吾は無言で石段を登っていく。

その少し後ろを、久遠が静かについて来ていた。

墓地には新しい墓が目立つ、終戦からまだ半月ほどしか経っていない。

空襲、病死、餓死、遺体すら見つからない者も珍しく、名前だけが残り、骨は帰らず、家族だけが消えていく。

風が吹く、どこか遠くで焚かれている線香の匂いが、湿った空気に混ざって流れてきた。

やがて健吾は、一つの墓の前で立ち止まる。


伊東家


小さな墓、比較的新しく石の色もまだ薄い、墓の周囲には、焼けた土の匂いが微かに残り、健吾はしばらく何も言わなかった。

ただ墓石を見つめる。そこに父と母がいるのかは分からない。

焼け跡から見つかった骨が、本当に家族のものだったのかも、もう誰にも分からない時代、それでも墓だけは存在し残された人間が供養するのだった。

久遠は少し離れた場所で立ち、近付きすぎず、けれど離れすぎもしない。その距離感だけ妙に自然だった。

健吾はしゃがみ込み、墓前へ置かれていた小さな花立てを見る。

花は半分ほど枯れ、白い菊の先端は茶色く変色していた。

水もほとんど残っていない。

誰かが来ていたのだろうか。


「・・・・・・久遠」


ぽつりと健吾が言う。


「ん?」

「俺の親ってさ」


声が少し掠れていた。


「どんな感じだった?」


墓の場所を知っていて、自分をここへ連れてきた。つまり久遠は、父と母を知っている。八歳の健吾にも、それくらいは分かった。

久遠は少しだけ目を細める。風が吹く、曇った空の下、墓地の木々が静かに揺れる。

葉擦れの音だけが、妙に大きく聞こえた。

久遠はすぐには答えない、まるで、言葉を探しているみたいに。


「難しい質問だね」


やがて小さく笑う。

健吾は振り返る。

その瞬間だけ、久遠の横顔が妙に遠く見え、いつもの優しい顔なのに、そこだけ時間が違うみたいだった。


「覚えてないのか?」


久遠は少し考える。


「覚えてるよ」


静かな声だった。


「健吾のお母さんは、よく笑う人だった」


その言葉に、健吾は少しだけ目を見開く。

久遠は続けた。


「近所の人によく漬物を配ってた」


小さく笑う。


「あと、怒る時だけ少し怖かったかな」


健吾は黙って聞いていた。


「父さんはちょっと怖かったかも」


久遠が苦笑する。


「口数は少なかったけど、真面目な人だった」


風が吹く、白いシャツの袖が揺れた。


「今思えば、普通の人だった」


久遠は墓石を見つめる。


「だから、眩しかったのかもしれない」


その“普通”という言葉が、妙に寂しそうだった。健吾は墓石へ視線を戻す。


「俺、父さんの顔、ちゃんと覚えてない」


ぽつりと零す。


「母さんの声も、最近少しずつ思い出せなくなってきた」


その言葉に、久遠の表情がわずかに曇った。

健吾は続ける。


「忘れたくないのに」


拳を握る、爪が掌へ食い込む。


「でも、生きるのに必死だと、少しずつ薄くなる」


声が震えていた。


「俺、最低だよな」


その瞬間、久遠が静かに健吾の隣へしゃがみ込んだ。石畳へ膝をつく音だけが、小さく響く。


「最低じゃないよ」


久遠は墓石を見つめたまま言った。


「人は、生きるために忘れることがある」


健吾は黙っていた。


「全部抱えたままじゃ、壊れてしまうから」


久遠の声音は穏やかだった。

けれどその奥には、

ひどく長い時間を生きた者だけが持つ疲労が滲んでいた。


健吾はふと訊く。


「久遠も、忘れるのか?」


その問いに、久遠はしばらく答えなかった。風が吹く、曇り空の隙間から、僅かな光が墓石へ落ちた。


「・・・・・・忘れられたら、楽だったかもしれない」


小さな声、久遠は墓石から目を逸らさない。まるで、誰かの顔を思い出しているみたいだった。

健吾は息を呑む。

久遠は笑っていた、けれどその笑顔は、今まで見たどんな顔より寂しかった。

久遠が墓へ近付く。

慣れた手つきで柄杓を取り、水を汲む。

透明な水が、墓石を静かに流れていった。

乾いていた石が、ゆっくり色を濃くしていく、その動作だけ妙に自然で、健吾は思わず見入ってしまった。

まるで、何百回も誰かを弔ってきた人みたいだった。

久遠は枯れた花を片付け、新しい花を供える。その横顔は静かだった。

静かすぎて、逆に孤独だった。やがて久遠は立ち上がる。


「手、合わせて帰ろうか」


健吾は黙って頷いた、二人で墓前に手を合わせる。目を閉じる。

父の顔は曖昧だった、母の声も、少しずつ薄れている。

それでも今だけは、確かにここにいる気がした。

遠くで船の汽笛が鳴る・・・昭和二十年。

焼け跡だらけの国の片隅で、一人の少年と、悠久を生きる者は、静かに墓の前へ立っていた。



帰宅途中、日が暮れてしまったので、闇市に寄ることに、闇市へ近付くにつれ、空気が一変、焼けた醤油の匂い、煙草、汗、腐りかけた野菜、酒、生きるための匂いが、そこには渦巻いていた。

裸電球が不安定に揺れ、粗末な屋台が狭い路地へ並んでいる。怒鳴り声、笑い声、泣き声、全てが混ざり合っていた。



政府の統制経済下では闇市は違法行為、けれど現実には、ここが人々の命綱、警察も取り締まり切れない。

いや、取り締まれば餓死者が増える。そんな時代だった。

久遠と健吾は屋台へ腰を下ろす。


「汁そば二つ」


久遠が短く注文した。それ以外、二人はほとんど喋らなかった。

周囲の治安が悪い、少し離れた場所では、酔った男同士が怒鳴り合っている。

別の場所では、痩せた女が闇煙草を売っていた。笑っている人間もいる。だがその目は、どこか全員死んでいた。

久遠は時折、周囲を静かに見ていた。怒鳴り声にも、喧嘩にも驚かない。まるで、もっと酷い時代を知っているみたいだった。

やがて汁そばが出される。

小麦粉はまだ貴重、麺にはトウモロコシ粉が混ざり、汁には潰した南瓜が使われている。

黄色味がかった汁は少しとろみがあり、湯気と一緒に甘い香りが立ち上っていた。

健吾は恐る恐る啜る。


「・・・・・・うまい」


思わず零れた。見た目よりずっと美味しかった。身体へ温かさが染み込んでいく。

その感覚だけで、少しだけ生き返った気がした。

久遠はそんな健吾を見て、小さく笑っていた。

最悪の食糧難、最悪の治安、最悪の人心の荒れ。

この時代、子供一人で生き残れるわけがない。

健吾は改めて、その現実を思い知る。

店を出る頃には、夜の風が少し冷たくなっていた。

遠くで誰かが怒鳴っている。


それでも、久遠の隣を歩いていると、不思議と恐怖だけは薄れていた。

ここまでお読み頂き、ありがとうございます。


流行りのジャンルでも、激しい格闘ものでもない作品ですが、テーマを出来るだけ伝えられるよう頑張っていきます。


もしよろしければ、反応いただけると執筆の励みになります。

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